第2話 『訓練は日常、社交は非常識』
窓が開く音で、部屋の空気が変わった。
夜の残り香みたいに淀んでいた熱気が、外の冷たい湿り気に押し流される。雨上がりの土と、庭木の青い匂い。肺の奥まで届く感じがして、ミレイユは布団の中で一度だけ深く息を吸った。
それだけで、頭の霧が薄くなる。
起き上がろうとして、身体が思いのほか軽いことに気づく。軽い、ではなく、頼りない。四十代の身体が持っていた筋肉の密度がない。骨も細い。動かせば動くほど、弱さが分かる。
弱いなら、作るだけだ。
枕元に置かれた水を一口含み、喉を潤す。幼い手でカップを持つのは不安定だったが、こぼさないように指の角度を調整すればいい。ほんの少しの工夫で、身体は従う。
メイド——昨夜から付き添っている侍女が、窓辺でカーテンを整えていた。名を呼ばれた記憶がまだ曖昧で、ミレイユは「侍女」としか整理できていない。
侍女は、こちらの動きをちらりと見て、柔らかく笑う。
「お嬢様、今日はお顔色がよろしいですね。朝の空気が効きましたか」
「……はい」
返事は短くなる。長く話す必要がないからだ。必要なことだけ言えばいい。昔からそうしてきた。むしろ長く言うほど、要点が薄まる。
侍女は少し安心したように頷いて、布団を畳み始めた。
「ですが、急に起き上がるのは危のうございます。お医者様も——」
「……段階、踏みます」
言うと、侍女の手が止まった。
「だんかい……?」
「……少しずつ」
補足すると、侍女は「なるほど」と笑ってくれた。変な子扱いをされても、ここで心を削るつもりはない。評価は後で変えられる。まずは回復と再構築だ。
布団から足を出す。床が冷たい。足裏の感覚が鋭い。軍靴ではなく、素足。慣れない。
立つ前に、背筋を一度だけ伸ばす。肩の位置。顎の角度。呼吸。腹。骨盤。足の裏で床を捉える。——姿勢を整えるだけで、体調の半分は安定する。
ミレイユはベッド脇に立ち、窓へ一歩だけ近づいた。
庭が見える。濡れた芝が朝の光を吸って暗い緑になっている。木立の向こう、白い霧がまだ残っていた。
走れるほどの距離はある。
だが今の身体では、いきなり走るのは逆効果だ。負荷は段階。筋肉と関節の許容量は小さい。幼児の身体は壊しやすい。
まずは呼吸。次に柔軟。次に軽い負荷。
「……そこ、少し空けてください」
「はい?」
侍女が目を丸くする。ミレイユは窓の近くのスペースを指した。床に座れるだけでいい。
「……ここで、少し」
侍女は戸惑いながらも、急いで椅子をずらし、花瓶台を動かしてくれた。
「ありがとうございます」
礼を言うと、侍女は少し驚いたようにしてから、慌てて頭を下げる。
ミレイユは床に座り、背筋を伸ばした。脚を伸ばし、ゆっくり前屈する。硬い。予想以上だ。熱で寝込んでいた分もある。無理に伸ばさない。呼吸と一緒に、少しずつ可動域を広げる。
侍女が、まるで珍しい動物を見るような顔で眺めていた。
「お嬢様……それは、体操、でございますか?」
「……はい」
「どなたに習われたのです?」
習った、というより——。
あまり説明するのは得策ではない。前世の話は、理解されない。理解されない話を長くするほど、こちらが不利になる。
ミレイユは、柔らかい声で短く答えた。
「……好きで、やってます」
侍女は「まあ」と口元を抑えた。令嬢が好きで体操をするのが、そんなに珍しいのだろうか。
彼女は少し迷った末に、恐る恐る言った。
「お嬢様は、昔から……少し、変わっていらっしゃいましたけれど」
「……そうですか」
「いえ、悪い意味では……! その、皆さまが驚かれるだけで……」
驚かれるのは構わない。驚きは、相手の理解が追いついていないだけだ。時間が解決する。
ミレイユは次の動きに移った。上体を起こし、肩を回し、首をゆっくり傾ける。呼吸を一定にして、身体の各部がまだ生きていることを確認する。
足りない。
でも、戻せる。
最後に、膝を抱えて立ち上がった。ふらつきはある。だが倒れない。倒れない動き方を選べばいい。
侍女が慌てて手を差し伸べたが、ミレイユは首を振った。
「……大丈夫です」
「本当に……?」
「……倒れる前に、座ります」
侍女はますます戸惑った顔をした。倒れる前に座る。理屈としては当たり前だが、令嬢の口から出ると妙なのだろう。
ミレイユは洗面へ向かった。鏡に映る自分の顔は、まだ自分のものではない。
淡い金色の髪。大きな瞳。熱で少し頬がこけている。だが肌は白く、整っている。どこか儚げで、守ってやりたくなるタイプの子どもに見える。
中身とのギャップが、少し滑稽だった。
「……相馬美玲、二佐」
声に出してみる。
鏡の中の幼い顔が、まるで知らない人間のように口を動かす。
次に、今の名前を確かめるように呟いた。
「……ミレイユ・ヴァルディエール」
こちらの方が、身体に馴染む。
不思議なことに、名前の響きだけで、屋敷の廊下の感触や、庭の匂いが少しだけ蘇ってくる。——薄い霧の向こうから、過去がじわじわと浮かび上がってきている。
侍女が後ろで小さく咳払いした。ミレイユは振り返り、頷いた。
「……朝食、行きます」
───
朝食の部屋は、思ったより静かだった。
長いテーブル。白いクロス。磨かれた銀食器。窓から差す光が、皿の縁で細く反射する。軍の食堂の合理性とは別の、見せるための整頓。
部屋の奥に、女性が座っていた。背筋が真っ直ぐで、髪は丁寧にまとめられている。衣装の刺繍は控えめだが高価そうだった。顔立ちはミレイユと似ている。——母だ。
「ミレイユ」
呼ばれた声は柔らかいが、張りがある。侯爵夫人としての重み。
ミレイユは一拍置いてから、頭を下げた。
礼は、前世の敬礼ではなく、こちらの作法に合わせる必要がある。だが、礼の角度が微妙に分からない。身体が覚えきっていない。
少しだけ、ぎこちなくなった。
夫人はそれに気づいたのか、目を細めた。
「……まだ辛いのね。座りなさい」
「……はい」
ミレイユは椅子に座り、背を伸ばす。伸ばしすぎて、逆に子どもらしくない姿勢になる。軍人の癖は隠しきれない。
夫人は、食事を進めながら静かに問うた。
「体調はどう?」
「……熱は、ないです」
「痛むところは?」
「……ないです」
質問と回答だけ。報告に近い。
夫人は少し困ったように笑った。
「そう。……よかった」
その「よかった」は、母親としての素直な言葉だった。
ミレイユは言い添えた。
「……心配、かけました」
それだけで、夫人の表情がほどける。
「ええ。本当に」
侍女がスープを注いだ。香りがいい。だが、量が少ない。体が欲しているのは水分と糖分と塩分。ここは上品な食事の場で、軍隊の補給とは違う。
ミレイユはパンをちぎり、よく噛む。ゆっくり食べる。消化器官もまだ回復中だ。
その間、夫人は何度か視線を向けてきた。
観察している。——娘の異変を見ている。
「ミレイユ。今朝、窓を開けて体操をしていたそうね」
侍女が、余計なことを言ったらしい。
叱られるかもしれない。だがミレイユは平然と頷いた。
「……少し、動いた方が、戻ります」
「戻る?」
「……体力」
夫人は言葉を探すように黙り、やがて小さく息を吐いた。
「あなたは本当に……昔から、変わっているわね」
責めているのではない。ただの確認に近い。
ミレイユは首を傾げた。
「……変ですか」
「普通の子は、熱が下がった翌朝に体操などしないのよ」
「……必要だから」
その答えが出た瞬間、夫人の眉が少しだけ動いた。
必要。六歳の娘が言うには、妙に重い単語だ。
夫人はそれでも声を柔らかく保った。
「無理はしないで。あなたは……あなたのままでいいのよ。けれど、体を壊したら元も子もない」
「……はい。段階、踏みます」
また「段階」。夫人は思わず口元を押さえた。笑いか、困惑か、どちらとも取れない。
食後、夫人は侍女に目配せした。
「今日は講師を休ませましょう。まだ頭も熱で疲れているでしょうから」
講師。家庭教師がいるらしい。
ミレイユは短く答えた。
「……ありがとうございます」
礼を言うと、夫人は少しだけ驚いた顔をした。
この身体の“ミレイユ”は、普段あまり礼を言わないのかもしれない。だとすれば、変化は目立つ。目立つのは避けたいが、礼は必要だ。必要なことはやる。
部屋へ戻る廊下で、侍女が小声で囁いた。
「お嬢様、奥様が……とても安心なさったお顔でした」
ミレイユは一度だけ頷いた。
安心は、家の安定につながる。家が安定すれば、自分の行動の自由度も上がる。——感情の言葉が、いつも思考の中で“構造”に変換されてしまう。
それでも、母の声の震えを思い出し、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
これは多分、今の自分の感情だ。
───
自室に戻ると、ミレイユはすぐに机へ向かった。
机の上には、可愛らしい便箋やリボンが並んでいる。軍の机とは違う。けれど、机であることは同じだ。整理すれば使える。
紙を一枚引き寄せ、ペンを持つ。字は幼くなる。だが書ける。
まず、今日の確認事項。
・体温(朝)
・食事量
・水分量
・歩行距離
・睡眠
・柔軟(朝/昼/夕)
必要なものを列挙する。
列挙しておけば、忘れない。忘れなければ、積み重ねられる。
書いていると、侍女が入ってきた。手には小さな箱。
「お嬢様、こちら……昨日の分のお薬でございます。医師の指示通り、昼にも少し」
ミレイユは箱を受け取り、頷く。
「……ありがとう」
侍女はやはり少し驚く。それでも嬉しそうに笑う。
ミレイユはふと思い、問いかけた。
「……あなたの名前」
「はい?」
「……まだ、覚えていないので」
侍女は目を瞬かせ、すぐに深く頭を下げた。
「失礼いたしました。リネと申します」
「……リネ」
口に出すと、名前が一つ、状況図に刻まれる。
ミレイユは短く頷いた。
「……よろしく」
「こちらこそ……!」
リネは胸の前で両手を握り、顔を赤くした。反応が大きい。礼を言われ慣れていないのかもしれない。そこに気づくと、ミレイユは少しだけ言い方を調整した。
「……いつも、助かります」
言った後、自分で少し可笑しくなった。
“助かる”という言葉は、侍女に向ける単語としては乱暴かもしれない。だが本音だ。彼女がいなければ、今の自分は動けない。
リネは、さらに嬉しそうに笑った。
「お嬢様が元気になられるなら、何でもいたします」
何でも、は危険だ。
不用意な献身は、相手を壊す。組織でも家庭でも同じ。
ミレイユは柔らかく首を振った。
「……無理は、しないで」
リネが一瞬固まり、やがて頷いた。
「……はい。お嬢様も」
その返事が、少しだけ“対等”に聞こえた。
───
昼前、ミレイユは庭へ出た。
医師は外出を禁じていない。夫人も止めなかった。なら、動ける範囲で動く。
庭に出ると、空気の重さが違う。湿り気、土、草。鳥の声。遠くで水を撒く音。視界が広い。視界が広いと、心拍が落ち着く。身体が「安全だ」と判断するからだ。
ミレイユは芝生の端に立ち、軽く足踏みをする。足首の具合。膝。股関節。痛みはない。だが疲労は早い。ここは慎重に。
その時、背後で「お嬢様!」と声がした。
リネが駆けてくる。手に上着を持っている。
「外は冷えます。どうかこれを……」
「……ありがとう」
上着を羽織り、ミレイユは庭の隅へ移動した。木陰の少し開けた場所。人目が少ない。ここでなら、多少変な動きをしても目立ちにくい。
呼吸を整える。
鼻から吸う。口から吐く。ゆっくり。一定。
次に、膝を軽く曲げて立ち上がる動きを繰り返す。スクワットの簡易版。幼児の筋肉にはこれで十分。回数は少なく。フォームを崩さないことが優先。
「一、二……」
数えようとした瞬間、背後でリネが小さく声を上げた。
「お、お嬢様……何を……」
ミレイユは振り返らずに答えた。
「……脚、作ります」
「脚……?」
「……歩くため」
歩けなければ逃げられない。逃げられなければ死ぬ。
だが、そんな言い方はしない。六歳の令嬢が言えば、周囲は凍りつく。
リネは困ったように笑った。
「お嬢様は本当に……不思議なことをおっしゃいますね。ですが、お怪我をなさらないように……」
「……はい」
返事は短い。動作に集中する。
数回で腿が熱を持った。弱い。だが熱を持つのは、筋肉が生きている証拠だ。
最後に、歩く。
庭の小道を、一定の歩幅で。速度は遅くていい。姿勢を崩さない。呼吸を乱さない。歩幅は身体に合わせる。
歩いていると、庭師が遠くで作業を止めてこちらを見ていた。
リネが気まずそうに小さく会釈する。
ミレイユは見られることを意識して、少しだけ動きを変えた。
庭を散歩している令嬢に見えるように。——見せ方も、必要な技術だ。
部屋へ戻る途中、廊下で少年とすれ違った。八歳か九歳くらい。貴族の服装。目つきが鋭い。家族だろう。兄か、従兄か。
少年はミレイユを見て鼻で笑った。
「病み上がりのくせに歩いてるのか。……変な奴」
ミレイユは足を止め、少年を見上げた。
反論する必要はない。だが、無視も悪手だ。ここは関係の構築がいる。
「……心配?」
少年が眉を吊り上げた。
「は? 誰が」
ミレイユは淡々と頷いた。
「……なら、いい」
それだけ言って通り過ぎた。
背後で少年が「なんだそれ!」と声を荒げたが、ミレイユは振り返らない。いちいち拾っていたら、こちらの時間が削られる。
リネが慌てて追いつき、囁いた。
「お嬢様……今のは若様でございます。お兄様の……」
「……兄、ですね」
「はい。ですが、あの……お嬢様、もう少し、こう……」
リネは言い淀んだ。
“愛想”という言葉を飲み込んでいる。ミレイユは察した。
「……笑う、ですか」
「えっ」
「……必要なら、します」
リネは驚いて、それから首を振った。
「いえ! お嬢様はお嬢様のままで……ただ、若様は少し……」
少し、面倒なタイプだ。
軍隊にもいた。年齢は違えど、構造は同じ。相手の立場を理解し、摩擦を減らせばいい。
ミレイユは歩きながら結論だけ出した。
「……次から、挨拶します」
「はい……!」
その返事を聞いて、リネはほっとしたように肩を落とした。
───
午後、家庭教師が様子を見に来た。
年配の男性で、眼鏡の奥の目が優しい。彼は机に本を置き、ミレイユの顔色を確かめた。
「お嬢様、今日は短く。読み聞かせ程度にいたしましょう」
「……はい」
本は、この国の歴史だった。文字は読める。語彙も不思議と入る。転生先の言語は、身体が持っている。
だが、読みながら気づく。
この世界は——戦争をしている。
歴史の中の戦争ではない。近年の国境紛争が断片的に語られている。騎士団。徴税。領地。兵站。——その単語が目に刺さる。
ミレイユはページをめくりながら、自然に問いを口にしていた。
「……今も、戦ってますか」
教師が目を瞬かせた。
「ええ。国境の方では小競り合いが続いております。ですが侯爵家は王都にございますし、戦の気配は遠いもので……」
遠い。
遠いからこそ、油断する。
遠いと思った瞬間、前線は壊れる。
ミレイユはそれ以上言わない。ただ、頭の中で構造を組み立て始めてしまう。兵站、補給、徴税、士気、政治。——この国はどの程度、現実的な戦争をしているのか。
教師が苦笑した。
「お嬢様は、昔から戦史を好まれましたね。『退き際が一番大事』だと」
その言葉に、ミレイユは内心で頷いた。
ミレイユは、昔からそう言っていたのか。いや、前世の自分がそう思っているだけか。境界が曖昧だが、どちらでもいい。思想が一致しているなら、今後もぶれない。
教師が退出すると、ミレイユは机に戻り、先ほどの紙の裏に小さく追記した。
・この国は戦争中
・騎士団が存在
・領地と徴税の構造がある
・兵站が軽視されやすい
最後に、短い一行。
——護身が必要。
書いた瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
護身、という言葉の裏には、現実がある。六歳の身体は弱い。貴族の家は安全に見えて、政治の波が来れば簡単に崩れる。
なら、準備する。
ミレイユはリネを呼んだ。
リネが駆け寄る。
「お嬢様、どうなさいました」
ミレイユは柔らかい声で、短く言った。
「……先生を、つけたいです」
リネが目を丸くする。
「先生、でございますか? 講師なら先ほど——」
「……違う先生」
「……え?」
ミレイユは一拍置いた。言い方を整える。
貴族社会の言葉に合わせる必要がある。
「……剣の。護身のため」
リネは息を呑み、しばらく言葉を失った。
やがて、慎重に尋ねる。
「……お嬢様。どうして、そのような……」
ミレイユは嘘をつかない。ただ、全部は言わない。
柔らかく、少ない言葉で答える。
「……必要だから」
その言葉は、今朝の母への返事と同じだった。
リネは一度だけ唇を引き結び、深く頷いた。
「承知いたしました。お父上と奥様に、お伝えしてもよろしいでしょうか」
「……はい。お願いします」
リネが部屋を出て行く。
扉が閉まる音を聞きながら、ミレイユは窓の外を見た。
庭の向こう、霧はもう薄い。
光が差し、芝が少しだけ明るく見える。
——この屋敷の中は、まだ安全だ。
だが、安全は永遠ではない。
ミレイユは小さく息を吸い、吐いた。
呼吸が安定している。心拍も落ち着いている。
今日の訓練は終わり。
次は、剣だ。
静かな決意が、胸の奥で硬く固まった。
「……生き残る準備を、進める」
声は小さく、柔らかい。
けれど、言葉の芯はぶれなかった。




