第16話 『警戒レベル、過剰です』
朝の砦は、前日の血の匂いをまだ引きずっている。
それでも、空気の芯が少しだけ軽い。兵が歩く速度が、ほんの僅かに上がっている。物資庫の前で列が乱れず、鍛冶場の火が途切れない。誰も声高に「勝った」とは言わないのに、動きだけが勝利に近い形をしていた。
ミレイユは指揮所の机で、昨日の捕捉戦の記録を整えていた。損耗、矢の消費、盾の欠損、担架の使用回数。数字を並べ、余白に短い注記をつける。戦場の記憶は早く腐る。腐る前に、手順として固定する。
紙を重ねたところで、扉が開いた。
ルーカスが入ってくる。顔がいつもより硬い。硬いというより、何かを言いにくそうにしている。
「……団長が、朝から機嫌が悪いです」
ミレイユは目を上げた。
「敵が動きますか」
「敵じゃない。……あなたです」
意味が分からず、首を傾げる。ルーカスは一瞬だけ視線を逸らし、短く言った。
「今日から、あなたに護衛が付きます。常時。二名。交代制で四名。夜間は四名」
ミレイユはしばらく沈黙した。数字が頭の中で整理される。護衛二名常時、交代で四名。夜間四名。つまり、彼女一人に常に二名、夜は四名が張り付く運用だ。
「……それは、部隊の稼働を落とします」
「そう言うと思いました」
ルーカスが苦笑し、さらに言う。
「物資庫の入退室も、札の使用時は必ず立会い。あなたの食事は毒見。水は別ルート。便所へ行く時も――」
「便所までですか」
「はい」
ミレイユは、そこで初めて眉を寄せた。作戦や補給の線は冷静に扱える。だが便所の護衛は、別の意味で危険だ。別の意味で、恥が死に直結するほどの破壊力を持つ。
「……警戒レベルが過剰です」
ルーカスは小さく頷く。
「団長に、それを言ってください。私が言うと、燃えます」
「燃える?」
「燃えます。昨日から、ずっと」
言葉の意味が分からないまま、外の足音が近づいた。扉が再び開き、アルベルトが入ってくる。外套の襟を立て、目の奥が鋭い。鋭いのは怒りのせいではない。決めたことを曲げない目だ。
アルベルトは机の上の書類を一瞥し、ミレイユを見た。
「今日から、お前は単独行動禁止だ」
開口一番が、それだった。
ミレイユは一拍置き、柔らかい声のまま答えた。
「……理由は」
「理由は一つだ。お前が死ぬと、線が切れる」
「線は、手順で補えます」
「補えない」
即答だった。軍人の即答ではなく、感情を混ぜないようにしている即答だ。
ミレイユは淡々と返す。
「……護衛二名常時、夜四名。毒見。水別ルート。便所まで護衛。
警戒レベルが過剰です。脅威評価に対して、リソース配分が不均衡です」
アルベルトの眉が僅かに動く。
「脅威評価は上がってる」
「何が根拠ですか」
「兵が、お前を“生き残れる札”だと思い始めた。札は奪われる。折られる。燃やされる」
言い方が乱暴だが、論理は通っている。象徴が生まれた時、象徴は狙われる。敵からも、味方からも。王宮からも。
ミレイユはそこまでは理解した。ただ、便所まで護衛する必要性はまだ認められない。
「……便所は、不要です」
アルベルトが一瞬黙り、次に低い声で言った。
「必要だ」
「何が起きると、便所で死にますか」
「刃は、場所を選ばない」
「刃は選びます。狙う側は成功率が高い場所を選ぶ。
便所は臭気と視界不良で、むしろ狙う側の行動が制限されます。
護衛が張り付くと、逆に“ここが要所”と宣伝することになります」
ルーカスが横で、こっそり頷いた。言いたかったのはそれだろう。
アルベルトは、しばらくミレイユを見下ろした。見下ろすというより、射抜く。前線で「譲れない」者が見せる目だ。
「お前は、前線の兵が何を言っているか分かっているか」
「……把握しています。“この人がいれば生きて帰れる”」
「そうだ。で、その次に何が来る」
ミレイユは、そこで少し考えた。
兵が希望を持つ。希望が集まる。希望が一人に集中する。集中した希望は、依存になる。依存は、取り合いになる。取り合いは、排除になる。
「……争いです」
アルベルトは短く頷いた。
「争いが起きる前に、俺が潰す。お前を狙う芽を、潰す」
それは護衛ではなく、統制の宣言に近かった。
だが統制は、守りにもなる。
ミレイユは、あくまで合理の線に戻す。
「……統制は必要です。ただし、護衛の数は減らせます。護衛二名は維持。夜間四名は妥当。
毒見は、王宮レベルの脅威があるなら妥当。
水別ルートはコストが高い。供給線に負荷が出ます。
便所護衛は……やはり不要です」
アルベルトの口元が僅かに引きつった。怒りではなく、耐えている顔だ。耐えている理由が、こちらにはまだ分からない。
「便所は譲らん」
「……譲らない根拠は」
「俺が嫌だ」
ミレイユは瞬きをした。
今、言葉の種類が変わった。
「嫌だ、とは」
アルベルトは一瞬だけ視線を逸らし、すぐに戻す。
「嫌だ。お前が一人で暗がりに行くのが」
ルーカスが咳払いをした。咳払いが過剰だったので、むしろ場が妙に静まった。指揮所にいるはずのない温度が、一瞬だけ入り込む。
ミレイユはその温度を、無理やり軍務の枠に押し込めた。そうしないと、判断が乱れる。
「……感情に基づく警戒レベル調整ですか」
アルベルトが低く言う。
「感情でもいい。結果として、お前が生きるなら」
「……団長」
「命令だ」
命令、と言われると、形式上は従うしかない。前線の秩序は命令でできている。命令が曖昧になると死者が増える。
ミレイユは短く頷いた。
「……承知しました。ただし、護衛の運用は最適化します。便所護衛は“距離を取った外側警戒”にします。室内同行は拒否します」
アルベルトの眉が僅かに上がる。
「拒否?」
「拒否は、必要です。士気が死にます」
ルーカスが吹き出しそうになり、今度は口元を手で押さえた。
アルベルトは数秒黙り、最後に短く言った。
「……外側警戒。距離三歩。これが限界だ」
「二歩で十分です」
「三歩だ」
「では三歩で」
そこだけ、奇妙に交渉が成立した。
───
指揮所を出ると、砦の廊下には既に護衛が立っていた。
騎士が二人。鎧の手入れが行き届き、目が鋭い。見慣れない顔だが、精鋭の匂いがする。
ミレイユが歩き出すと、二人が左右に付く。距離は近い。近すぎる。視界の端に金属がちらつき、歩幅がずれる。
「……もう少し離れてください」
騎士の一人が困ったように言う。
「命令ですので」
「命令は“護衛”です。“圧迫”ではありません」
騎士が一瞬、言葉に詰まる。そこへ後ろからアルベルトの声が飛んだ。
「離れろ。邪魔だ」
騎士二人が慌てて距離を取った。距離を取っただけで、ミレイユの歩きは元に戻る。
廊下の先で、兵がこちらを見ている。
昨日までは「追放者の令嬢を見る目」だった。今日は違う。「生き残る仕組みを見る目」だ。
その目が増えるほど、アルベルトの警戒が強まるのは理解できる。
問題は、その警戒が“過剰”な領域に入り込んでいることだ。
中庭に出ると、さらに状況が悪化した。
護衛が増えている。二人だけではない。角にもう二人。物資庫の前にもう一人。見張り台の下に一人。
ミレイユの動線に沿って、明らかに人が配置されている。
まるで要人警護だ。
要人警護は合理だが、要人が“令嬢一人”に見えると、周囲の心理が歪む。歪みは刃になる。
ミレイユは物資庫へ向かおうとして、止められた。
「参謀殿、こちらを通ってください」
護衛が別の道を示した。
いつもの道より遠回りで、狭い。狭い道は逃げ道が少ない。むしろ危険だ。
「……なぜその道ですか」
「人が多いので」
「人が多い方が安全です。人がいれば目撃が増えます。目撃が増えれば犯行が難しくなります」
護衛は困った顔をし、後ろを見た。後ろからアルベルトが来ていた。
「人が多い場所は、刃も紛れる」
「紛れる刃は、護衛が見逃す刃です。護衛が近すぎると、視野が狭くなります」
アルベルトは眉を寄せた。
「お前、護衛の講義を始める気か」
「始めます。必要なので」
ルーカスが小さく言った。
「……始まった」
アルベルトは深く息を吐き、ミレイユの前に立つ。
「いいか。今日は俺の言う通りに動け」
「今日は?」
「今日だ」
「……明日以降は、脅威評価を更新して再調整します」
「勝手にするな」
「団長の決裁でやります」
アルベルトが口を開きかけ、閉じた。
前線で「決裁」という単語は強い。彼が決裁権者である以上、決裁と言われると否定しにくい。
「……分かった。だが今日は俺が決める」
「承知しました。ですが、警戒レベルが過剰です」
その言葉を繰り返すと、周囲の兵が微妙な顔をした。
笑いたいが笑えない。そういう顔だ。
笑っていいのか分からない状況は、妙に可笑しい。
結果として、ミレイユは物資庫へ行くのに、普段の倍の時間をかけた。
護衛が先に角を覗き、次にミレイユが歩き、後ろの護衛が振り返り、さらに別の護衛が合流する。
手順が多すぎる。手順が多すぎると、戦場では逆に事故が増える。
物資庫で補給担当と話している間も、護衛が二人、入口に立ち、もう一人が背後に立った。背後に立つのは最悪だ。背後は視界外だ。視界外が増えるほど、人は緊張する。緊張は疲労になる。
補給担当が小声で言った。
「参謀殿、今日は……随分、豪勢ですね」
豪勢、ではない。過剰だ。
ミレイユは柔らかく答えた。
「……警戒レベルが過剰です」
補給担当が、堪えきれず口元を押さえた。
笑いは士気になる。だが、笑いの対象が彼女の護衛だとしたら、それもまた危険だ。護衛を笑うと、護衛の権威が落ちる。権威が落ちると、警戒が崩れる。崩れると死ぬ。
つまり、笑いは扱いが難しい。
───
昼前、ミレイユは補給道の見回りをしたかった。
昨日の捕捉戦で、敵は補給を諦めた。しかし諦めた敵は、別の場所を探す。探す敵は必ず“薄い線”を嗅ぎ当てる。薄い線を見つける前に、こちらが線を厚くする必要がある。
ミレイユは指揮所の外で護衛に言った。
「補給道の分岐を確認します。同行は二名で十分です」
護衛の片方が首を振る。
「命令は四名です」
「……命令が誰からか確認してください。団長の命令なら、私は団長に変更を提案します」
護衛が困った顔をした瞬間、背後から低い声が落ちた。
「却下だ」
アルベルトが立っていた。
いつの間に、というほど早い。
彼は「見ている」と言った。実際、見ている。
「団長。補給道の分岐は――」
「俺が行く」
その一言で、ミレイユの言葉が止まった。
団長が補給道を見回るのは、指揮官の稼働として高すぎる。だが彼は譲らない顔だ。
「……団長の稼働を、そこに使うべきではありません」
「使う。お前が行くなら」
「私は幕僚補佐です。現地確認は必要です」
「必要だ。だから俺が同行する」
結果として、補給道の確認は「アルベルト同行」という最も目立つ形になった。
護衛はさらに増えた。
騎士が六名。伝令が二名。斥候が前後に一名ずつ。
もはや小隊移動だ。
ミレイユは歩きながら言った。
「……団長。これでは敵に“ここが重要”と宣伝しています」
アルベルトは前を見たまま返す。
「重要だ」
「重要ですが、重要であることを知らせる必要はありません」
「知らせる。敵が寄ってくるなら、叩ける」
「これは誘引作戦ではありません」
「今日から誘引作戦だ」
会話が雑になってきた。雑になるのは、彼が疲れているからだ。疲れている時、人は論理より短い言葉を選ぶ。
ミレイユはそこで、一つの仮説に辿り着く。
――アルベルトは、合理ではなく、恐怖で動いている。
恐怖というのは臆病の意味ではない。
“失う恐怖”だ。
前線の指揮官は、毎日誰かを失ってきた。兵も、副官も、友も。
失う恐怖が積み重なると、守れるものだけでも守りたくなる。守れるものが彼女になったのだとしたら、過剰警護はその現れだ。
補給道の分岐に着くと、ミレイユは地面を見た。
足跡。草の倒れ方。車輪の痕。
敵の偵察が入っていないか、確認する。
「ここは大丈夫です。ただ、二百歩先の斜面が甘い。木が倒れて視界が切れています。
倒木を除去し、見張り位置を一つ上げるべきです」
アルベルトが頷く。
「やれ」
「今日中に。人手は――」
「俺が出す」
そこで、アルベルトが一歩近づいた。
近づきすぎて、ミレイユは反射で半歩下がった。
「……距離が近いです」
アルベルトが眉を寄せる。
「護衛だ」
「護衛は距離が必要です。距離が近いと、対応が遅れます」
「俺は遅れない」
「遅れます。近いと視野が狭くなる。刺客が来た時、私と団長が重なっていれば二人とも斬られます」
アルベルトが一瞬だけ黙り、次に低く言った。
「……お前は、本当にそういう言い方をするな」
「事実なので」
「事実でも、言い方があるだろう」
「言い方を変えると、判断が曖昧になります」
その返しが真面目すぎて、後ろにいた騎士の一人が肩を震わせた。笑いを堪えている。
ミレイユはそれに気づかず、倒木の位置を指で示し続けた。
アルベルトは、騎士の肩の震えに気づいたらしく、振り返って一言だけ落とした。
「笑うな」
騎士が姿勢を正し、慌てて頭を下げる。
「失礼しました」
ミレイユはそこでようやく、周囲の空気が妙に軽いことに気づいた。
笑われているのか、笑っていいのか。判断が難しい。
前線の笑いは、生存の余裕でもある。だが、指揮官の笑いは別だ。
ミレイユは小さく息を吐いた。
「……団長。護衛の運用は、今夜改めて表にします。警戒レベルを段階化し、状況に応じて増減させます」
「勝手に決めるな」
「団長の決裁で決めます」
同じ押し返しをすると、アルベルトはまた黙った。
そして、珍しく譲った。
「……表を作れ。だが、最上段は変えない」
「最上段とは」
「お前が一人にならない」
「……便所もですか」
「便所もだ」
ミレイユは、ほんの少しだけ眉間に皺を寄せた。
「警戒レベルが過剰です」
アルベルトは、ほんの僅かに口元を緩めた。
笑いではない。だが、怒りでもない。
彼の顔から、硬さが一瞬だけ抜けた。
「分かった。過剰でいい」
その言葉は、合理ではない。
だが前線では、合理だけで人は動けない。
合理だけで動けない部分を埋めるのが、誰かへの執着だったり、守りたいという意志だったりする。
ミレイユは、それを“余計な要素”として切り捨てたい自分と、切り捨てられない現実の間で、短く呼吸を整えた。
───
砦へ戻る途中、事件が起きた。
大げさな事件ではない。
だからこそ危ない種類の事件だ。
物資庫の横、狭い通路で、若い兵が荷を運んでいた。荷は乾燥肉の箱。角が尖っている。
その兵が、ミレイユの前に出ようとして足を滑らせた。箱が傾き、角がミレイユの腹の高さへ向いた。
本来なら、ただの事故だ。
だが、刃は事故に紛れる。
ミレイユは反射で半歩後ろに引き、腰を落とした。
同時に、アルベルトが前に出た。
前に出るな、と言う前に出た。
護衛の騎士が兵を掴み、箱を押さえ、地面に叩きつけた。乾燥肉が散り、塩の匂いが広がる。
若い兵が青ざめ、膝をついた。
「す、すみません……!」
ミレイユは言った。
「怪我は」
「ありません……!」
アルベルトの声が、冷たく落ちた。
「誰の指示でその通路を使った」
若い兵が震えながら答える。
「補給担当の……指示です……近道で……」
アルベルトは目を細め、補給担当を呼べと命じた。
怒りの矛先は兵ではない。手順を切った者へ向かっている。
ミレイユは状況を見て、少しだけ理解が深まった。
アルベルトの過剰警護は、単に彼女を守るためだけではない。
「彼女が狙われうる」という前提で、砦全体の動線を締め直している。
締め直しは不便だ。だが不便を許容しないと、刺客は便利な穴から入る。
ミレイユは補給担当が駆けつける前に、アルベルトへ小声で言った。
「……団長。今のは事故の可能性が高いです」
「可能性だ」
「可能性で動くと、稼働が落ちます」
「稼働が落ちてもいい。死ぬよりマシだ」
「死ぬ確率と、稼働低下で死ぬ確率を比較すべきです」
アルベルトが振り返り、ミレイユを見た。
「お前は、今のを見て、まだそう言えるのか」
「言えます。今のは“危ない”です。だから手順で潰します。
しかし、全てを最大警戒で潰すと、最大警戒が日常化し、誰も従わなくなります」
アルベルトの目が僅かに揺れた。
彼もそれを理解している。理解しているのに、恐怖が先に出ている。
補給担当が来て、必死に弁解を始めた。
アルベルトは短く切った。
「近道は禁止。通路は固定。荷運びは人員増。今夜、全員に通達」
補給担当が青い顔で頷く。
ミレイユは、その横で一歩だけ引いた。
指揮官が矢面に立ってくれるのは、助かる。
彼女が直接命令すると、“令嬢が現場に口を出した”という反発が生まれる。
アルベルトが命じれば、軍命として通る。
ただ――。
アルベルトがミレイユの腕を掴んだ。
掴み方が強い。強いというより、確認するように。生きているか確かめるように。
「怪我は」
「ありません」
「本当にか」
「ありません。痛みもない」
それでも掴む手が離れない。
周囲の騎士が、目を逸らした。ルーカスがわざと咳払いをした。
ミレイユはそこで、ようやく気づく。
これは要人警護の動きではない。
これは、失うのが怖い人間の動きだ。
ミレイユは、柔らかい声を少しだけ落とした。
「……団長。警戒レベルが過剰です」
アルベルトは、掴んだ手を少し緩めた。
「過剰でいい」
また同じ言葉。
そして、その言葉の裏にある温度が、さっきよりはっきりしている。
ミレイユは、論理の枠に戻すため、短く結論を置いた。
「過剰は、段階化します。日常を通常警戒に戻し、必要時のみ強化します。
そうしないと、強化が効かなくなります」
アルベルトは黙り、最後に頷いた。
「……お前の表を見てから決める。だが、俺の“嫌だ”は残す」
「……残す、とは」
「お前が一人で暗い場所に行くのは嫌だ」
ミレイユは一拍置き、言葉を選んだ。
「それは、団長の感情です」
「そうだ」
「感情は、命令にしない方がいいです」
「命令にする」
即答だった。
譲らない。譲らない種類の譲らなさだ。
ミレイユは、これ以上押すと逆効果だと判断し、頷いた。
「……では命令として受けます。代わりに、運用は私が作ります」
アルベルトが短く言った。
「任せる」
その一言が、胸の奥に小さく残った。
任せる。
それは合理の言葉だ。だが、同時に信頼の言葉でもある。
───
夜、ミレイユは指揮所で「警戒レベル段階表」を作った。
段階は三つ。
通常警戒:護衛一名(外側警戒)、移動は自由。ただし夜間単独外出は禁止。
強化警戒:護衛二名常時、札使用時立会い、通路固定、補給動線の監視強化。
最大警戒:護衛四名、毒見、水別ルート、居室周辺封鎖、要人移動手順。
便所については、注記をつけた。
「外側警戒のみ。距離三歩。室内同行禁止。士気維持のため」
書き終えたところで、アルベルトが入ってきた。
紙を見て、黙って読む。指先が紙の端を叩く。
「……通常警戒で護衛一名?」
「外側警戒です。視界の端に置く。近すぎない」
「弱い」
「弱いと感じる程度が適正です。日常が息をします。日常が息をすると、強化が効きます」
アルベルトが鼻で息を吐いた。
「便所、距離三歩。……譲らないのか」
「譲りません。士気が死にます」
「士気が死ぬのと、お前が死ぬの、どっちがマシだ」
ミレイユは即答した。
「士気が死ぬと、結果的に皆が死にます」
アルベルトは一瞬だけ目を細め、次に視線を落とした。
「……理屈は正しい」
「理屈で生き残ります」
「理屈だけで生き残れるなら、苦労しない」
そこで、アルベルトが小さく言った。
「俺は……理屈だけで、お前を失いたくない」
言った直後に、彼自身が言い過ぎたと気づいた顔をした。
黙りが落ちる。
指揮所の蝋燭の火が、揺れた。
ミレイユはその言葉を、軍務の箱に入れようとした。
だが入らない。
箱の蓋が閉まらない。
「……失う、とは」
「死ぬことだ。殺されることだ。事故でもいい。——俺の目の前から消えることだ」
言葉が荒い。荒いのに、声は低い。
低い声は、感情を隠している時の声だ。
ミレイユは、結論を出した。
ここで論理で殴ると、彼の恐怖が増える。恐怖が増えると、過剰警護がさらに増える。増えれば稼働が落ちる。落ちれば戦争で死ぬ。
だから、今日は一歩だけ譲る。
「……では、通常警戒でも夜間は護衛二名にします。外側警戒。距離を取る。
その代わり、日中は一名に戻します」
アルベルトはミレイユを見た。
一瞬だけ驚いたような顔。すぐに表情が戻る。
「……譲ったな」
「譲りました。警戒レベル調整です。団長の恐怖が過剰警戒を生むなら、恐怖を下げる方が合理です」
アルベルトが、短く笑いそうになって、止めた。
止めたのが、逆に分かる。
「お前は……本当に」
言葉が続かない。続かないのに、目が柔らかい。
ミレイユは視線を落とし、紙を揃えた。
「……明日から運用します。団長の決裁が必要です」
アルベルトは紙に指を置き、短く言った。
「決裁する。——だが、便所は三歩だ」
「三歩です」
またそこだけ、奇妙に一致した。
───
部屋へ戻る途中、護衛が距離三歩を守って歩いていた。
三歩は遠い。遠いのに、視界の端に確かにいる。
それが“外側警戒”だ。
ミレイユは、廊下の角でふと立ち止まり、後ろを振り返った。
護衛が慌てて止まり、距離を取り直す。
その動きが妙に真面目で、少しだけ可笑しい。
口元が動きそうになり、ミレイユはそれを押し込めた。
笑うと、気が緩む。
気が緩むと、死ぬ。
だが、その直前に思い出す。
アルベルトの「嫌だ」という単語。
理屈ではない単語。
前線では、理屈ではないものが人を動かす。
ミレイユは扉を開け、リネが用意した小さな灯りの下で、記録帳を開いた。
(護衛運用:段階表作成。通常/強化/最大)
(団長:過剰警戒を維持したがる。理由は脅威評価+感情)
(妥協:夜間二名、日中一名)
(注意:象徴化の進行。支持は刃になる)
最後に一行だけ、短く残した。
——警戒レベルは下げられる。だが、彼の“嫌だ”は、下げられない。
蝋燭を消す。
暗闇の中で、砦の遠い足音が聞こえた。
誰かが見張りを交代している。
その足音が、いつもより少し規則正しい。
それだけで、今日の過剰警護にも、少しだけ意味があったのだと分かる。




