第15話 『この人がいれば、生きて帰れる』
襲撃の翌朝、砦の空気は妙に静かだった。
勝った時の浮つきはない。歓声も酒の匂いもない。あるのは、煤の匂いと、乾いた喉の痛みと、寝不足の目の赤さだ。
それでも――前日までの「どうせ死ぬ」という沈みは薄い。代わりに、「今日は生きている」という重みが残っている。
中庭で矢束を数える兵が、いつもより手際よく束を揃えていた。鍛冶場では欠けた刃を直す音が途切れず、物資庫の前では班単位の列が崩れない。
規律が整ったというより、恐怖が焦りに変わっている。焦りは道を選ぶ。道を選べば、手順が生きる。
ミレイユは夜襲の煤がまだ残る外套を脱ぎ、指揮所の机に紙を広げた。補給申請の追補、油の残量、矢羽と弓弦の交換比率、昨日の損耗と今日の稼働人数。
数字の列は冷たい。だが冷たいものは、感情に流されない。感情に流されないものだけが、前線の命を支える。
ルーカスが早足で入ってきた。頬に寝不足の影が濃い。
「敵が動きます。斥候が、森の縁に集結を確認しました。昨日の損失の穴埋めをしたいんでしょう」
ミレイユは目を上げずに答えた。
「……補給を取り返しに来ます」
「正面ですか」
「正面は、囮です。こちらが正面に引きつけられたら、別働が補給道に入ります」
ルーカスが唇を噛む。昨日、こちらがやったことを、敵もやり返す。戦場は模倣の連鎖だ。
模倣されるのは、効いた証拠でもある。
扉が開き、アルベルトが入ってきた。顔色は相変わらず良くないが、目が真っ直ぐだ。夜襲の後、少しでも眠れたのかは分からない。ただ、立ち方が昨日より硬い。
硬いのは、今日が危ないと分かっている時の立ち方だ。
「報告しろ」
ルーカスが短く告げる。敵の集結、人数推定、動線、森の縁での待機。
アルベルトは地図を見ながら、ミレイユへ視線を投げた。
「お前の見立ては」
ミレイユは紙束を一枚抜き、地図の上に置いた。補給道の分岐と、昨日の襲撃地点と、敵が取れる選択肢を線で結んだだけの簡易図だ。
「……敵は、こちらの補給を狙います。狙うなら、砦から一番近い分岐ではなく、二番目です。
一番目は警戒されている。二番目は、守りが薄いと思うはずです」
アルベルトが眉を動かす。
「二番目の分岐は、地形が悪い。森が深い」
「だからです。森が深い場所は、追撃ができません。追撃できない場所は、襲撃側が選びます」
ルーカスが指でその地点を叩く。
「ここですね。古い伐採道が交差している」
ミレイユは頷いた。
「ここに“見せる守り”を置きます。数は多く見せます。でも、本隊は置かない。
本隊は、分岐の一つ手前に伏せます。敵が分岐へ入った瞬間、退路を切ります」
アルベルトが低く言った。
「退路を切る、か。捕捉戦だな」
「はい。敵を深追いしません。逃げ道を塞いで、短く削って、撤退させます。目的は殲滅ではなく、補給の安全確保です」
アルベルトは一拍置き、決裁を落とした。
「よし。第二隊長に任せる。俺は正面を押さえる。ルーカス、伝達。ミレイユ、配置と補給をまとめろ。今日の作戦は“守りの襲撃”だ」
守りの襲撃。
言葉を揃えるだけで、兵の心が落ち着く。
落ち着いた兵は、線を守る。
ミレイユは班長を呼び、短い指示を作った。
「見せる守り」と「伏兵」の区別。
伏兵の位置と、合図の種類。
負傷者の搬送先と、担架の準備。
そして何より、「追うな」。追うなは、生き残る命令だ。
班長たちは最初、難しい顔をした。
だが、昨日までのような露骨な反発はない。
前線は現金だ。生き残った経験が、反発を黙らせる。
「分かった。——参謀殿」
誰かがそう呼んだ瞬間、周囲が一瞬止まった。
参謀殿。
侯爵令嬢に対しての呼び方ではない。
追放者に対しての呼び方でもない。
これは、役割への呼称だ。
ミレイユは目を上げ、柔らかい声のまま短く返した。
「……命令は、団長の名で出してください。私は整えるだけです」
班長が頷き、背を向けて走り去る。
走り去り方が前より速い。迷いが減っている。
───
敵の動きは早かった。
昼前、正面の斥候が「敵影」を報告した。森の縁に黒い点が増え、点が線になり、線が塊になる。
だが正面は、あくまで“見せる”動きだ。敵の本気は、別の線に乗る。
ミレイユは見張り台の報告と、補給道側の報告を時間で並べた。
同じ時刻に、正面の太鼓が鳴った。
同じ時刻に、補給道側で鳥が飛び立った。
鳥が飛び立つのは、森の中で人が動いた証拠だ。
「……来ます」
ルーカスが頷き、伝令を走らせる。
伏兵の位置へ。
見せる守りへ。
そして、医療班へ。
「今日も窪地ですか」
医療班の年配の男が聞いてくる。
昨日、窪地に置いたことで救えた命がある。
だから彼は反対しない。ただ、危険を理解しているから確認する。
ミレイユは短く答えた。
「……はい。盾持ちを二人。水を多め。止血帯も」
「分かった。若いのに、こういう判断だけは容赦がないな」
「容赦すると、死にます」
年配の男が、鼻で笑った。笑いというより、諦めに近い納得だ。
前線の老人は、甘さが死に直結するのを知っている。
正面で矢が飛び始めた。遠い。
正面の戦いは、今日の主役ではない。
主役は、補給道の分岐だ。
やがて、報告が来た。
「補給道、敵影! 三十、いや四十! 森から出る!」
ミレイユは目を閉じない。
目を閉じると、手が止まる。
手が止まると、伝達が止まる。
伝達が止まると、死ぬ。
「見せる守り、退きすぎない。引き込む。伏兵は合図まで動かない」
伝令が走る。
走る足音が、指揮所の床を叩く。
床の音は生きている音だ。
補給道側から、遠くで金属がぶつかる音がした。
敵が当たった。こちらが見せる守りに当たった。
敵は勢いよく突っ込む。勢いよく突っ込むのは、焦っている証拠だ。焦りは判断を鈍らせる。
次の報告。
「敵、分岐へ入ります!」
ミレイユは、そこで初めて、息を吐いた。
「……合図」
ルーカスが短く叫ぶ。合図は角笛一回、短く。
それが伏兵の合図だ。
森の中から、こちらの盾兵と槍兵が出た。
逃げ道の背後に壁ができる。
壁ができた瞬間、敵の足が止まる。
止まった敵は、狭い森道で隊形を作れない。
弓が鳴った。
枝の間から矢が降る。
盾の上から刺さり、肩に入る。
喉を掠め、血が飛ぶ。
太腿に刺さり、膝が折れる。
倒れた者の上に、後ろの者がぶつかり、隊形が崩れる。
崩れた隊形は、恐怖でさらに崩れる。
敵は必死に押し返そうとする。
だが押し返す方向がない。
背後は壁。前は見せる守り。左右は森。
森は味方の敵だ。森は逃げ道を殺す。
第二隊長の声が短く響いた。
「押すな! 止めろ! 退路だけ締めろ!」
締めるだけ。
殺し尽くすな。
ここで深追いすれば、森の奥から別働が出るかもしれない。
目的は殲滅ではない。補給の安全だ。
敵の一人が叫び、退こうとする。退けない。
退けないところへ矢が刺さる。
刺さった矢を抜こうとした瞬間、別の矢が胸に入る。
男が倒れ、血が土に染みる。
土に染みた血は黒くなる。黒い血は、次の足を滑らせる。
やがて敵は、最も嫌な選択をした。
荷を捨てる。
持ってきた油袋と乾燥肉を投げ捨て、身軽になって森へ逃げようとする。
だが森へ逃げるなら、こちらも追える。追うのではなく、押し返せる。
第二隊長が一段、声を低くした。
「そこだ。押し返せ。短く。——追うな!」
短く押し返し、森の縁で止める。
止めたところで矢をもう一度撃つ。
敵は悲鳴を上げ、森に溶けるように逃げた。
逃げた者を追わない。追わないから、こちらは死なない。
報告が来る。
「敵、撤退! 補給道は守れました! 敵の損害……こちらで確認できただけで十五以上!」
ミレイユは頷き、次の命令を出した。
「拾わない。並び直す。負傷者を先に。水を回して。矢の補給を」
戦闘が終わった直後に、手順が止まると死者が増える。
ここからが勝負だ。
───
夕方、砦へ戻った兵たちは、いつもより静かだった。
興奮していないのではない。
興奮の代わりに、“理解”がある。
理解は声を奪う。理解は態度を変える。
負傷者の搬送が終わり、医療班が落ち着いた頃、兵たちが中庭の片隅に集まり始めた。何かを待っているような顔だ。
待っているのは、酒ではない。
待っているのは、言葉だ。
ルーカスが小声で言った。
「……兵が、あなたを探しています」
ミレイユは首を傾げた。
「……私を?」
「ええ。今日の配置が効いたと。損耗が少なかったと。……礼を言いたいんでしょう」
礼を言う。
前線で礼を言うのは珍しい。余裕がないからだ。
余裕がないのに礼を言うなら、それは切実だ。
ミレイユは迷った。
出れば目立つ。目立てば危険だ。
だが、目立たないために兵の心を切れば、次で崩れる。
崩れれば、もっと死ぬ。
アルベルトが指揮所の入口で、短く言った。
「行け。……俺が見ている」
それが護りだ。
護りは言葉より先に配置で示される。
ミレイユは頷き、中庭へ出た。
集まっていた兵たちが、ざわりと動いた。
何人かが頭を下げ、何人かが戸惑ったように目を泳がせる。
彼らは“令嬢”への礼をしたいわけではない。
“生き残らせた人間”へ礼をしたいのだ。
前列にいた若い槍兵が、一歩出た。頬に浅い切り傷。今日の戦いの印だ。
彼は唾を飲み込み、声を絞り出した。
「……参謀殿。俺たち、今日、生きて戻れました」
ミレイユは柔らかい声のまま短く答えた。
「……皆が、線を守ったからです」
槍兵は首を振った。
「違います。俺たち、今まで線なんて知らなかった。押せ、突っ込め、死ねって……そういう戦いしかなかった。
でも今日、分かったんです。止めろって言われたら止められる。追うなって言われたら追わない。——それで、生き残れる」
周囲の兵が頷いた。
頷き方が揃っている。揃っているのは、彼らが同じものを見た証拠だ。
別の兵が、低い声で言った。
「この人がいれば……生きて帰れる」
その言葉が、静かに広がった。
誇張ではない。祈りでもない。
ただの結論だ。
ミレイユはその言葉に、反射で否定しそうになった。
自分を神格化されるのは危険だ。
だが否定の仕方を間違えると、兵の心を折る。
だから、言葉を選んだ。
「……私は、皆を生き残らせる“手順”を作るだけです。
手順は、皆が守らないと意味がありません。守れたのは、皆の力です」
槍兵が、苦く笑った。
「それでも、手順を作れる人がいなかった」
その言葉が刺さる。
刺さるのは、王宮が前線をどれだけ見捨ててきたかの証拠でもある。
兵の中から、片腕に包帯を巻いた男が出てきた。昨日、矢が刺さり、抜こうとして止められた兵だ。
彼は包帯の上から腕を押さえ、頭を下げた。
「昨日、俺、矢を抜こうとして……あんたに止められた。あのまま抜いてたら、死んでた」
“あんた”と言いかけて、慌てて言い直す。
「……参謀殿。すまなかった。ありがとう」
ミレイユは短く頷いた。
「……生きてください」
それ以上の言葉は要らない。
生きてください、は命令ではない。願いに近い。
願いに近い言葉は、前線では強い。
兵たちが、もう一度頭を下げた。
その動きが揃うのを見て、ミレイユは一つ理解した。
支持を得たのは、自分の人格ではない。
損耗が減ったという“結果”だ。結果は、兵の信仰になる。
そして信仰は、刃にもなる。
扱いを間違えれば、必ず誰かがそれを利用する。
王宮の誰かが。貴族の誰かが。あるいは、砦の中の誰かが。
ミレイユは頭を上げ、兵たちに向けて一つだけ、必要なことを言った。
「……次も、死者を減らします。だから、勝手に英雄を作らないでください。
英雄が先に立つと、手順が後ろに下がります。手順が下がると、死者が増えます」
兵たちが一瞬、呆けた顔をした。
英雄を作るな、と言われると思っていなかったのだろう。
だが、次の瞬間、誰かが小さく笑った。
笑いが伝染し、何人かが頷いた。
「分かった。英雄はいらねえ。生きて帰れりゃいい」
その言葉が、前線の本音だ。
本音に沿った手順は、守られる。
───
その夜、指揮所で損耗の最終報告が出た。
正面の小競り合いは軽傷数名。
補給道の捕捉戦は死者ゼロ。重傷一、軽傷六。
敵の損害は撤退時に引きずった者を含めれば二十以上。補給を奪えず、逆に一部を捨てて逃げた。
アルベルトは報告を聞き終えると、椅子に深く座った。
疲労が顔に出る。だが、目の奥にだけ、僅かな光がある。
「……二日続けて、損耗が少ない」
ルーカスが小さく頷く。
「兵が、手順を信じ始めています」
アルベルトの視線がミレイユへ向いた。
「お前、兵の前に出たそうだな」
「……必要だったので」
「何を言った」
ミレイユは正確に答えた。
「英雄を作るな、と。手順を守れ、と」
ルーカスが吹き出しかけ、咳払いで誤魔化した。
アルベルトは一瞬だけ目を細め、次に短く息を吐いた。
「……お前は本当に、余計な飾りがないな」
「飾りは、死にます」
「そうだな」
アルベルトはそこで少し黙った。
黙り方が重い。言葉を探している黙りだ。
「……兵が言っていた。『この人がいれば生きて帰れる』と」
ミレイユの胸が僅かに締まった。
締まる理由は、分からない。
誉れが嬉しいのではない。
その言葉が危険だと分かっているからだ。
「危険です」
即答した。
「分かってる。だから俺が、お前を守る」
アルベルトはそう言って、机の上の木札を指で押した。札は軽い。だが、札に付随するものは重い。
守ると言うのは、兵の刃から守るだけではない。王宮の刃から守るという意味だ。
ルーカスが低い声で続ける。
「今日の捕捉戦、隊長格も見ました。あの年配の隊長も。……反発は減ります」
「減るだけだ。消えはしない」
アルベルトの言葉は冷たい。だが正しい。
反発は消えない。嫉妬も消えない。
消えないものを前提に、線を組む。
ミレイユは静かに言った。
「……私が前に出るのは必要な時だけにします。兵の信仰が増えるほど、線が切れます」
アルベルトが頷き、短く言った。
「その判断を、お前が自分でできるなら、ますます手放せないな」
その言葉が、ミレイユの中で小さく響いた。
手放せない。
それは合理だ。戦力として。
だが、その合理の中に、昨日より僅かに温度がある。
ミレイユは気づかないふりをした。
気づくと、胸が乱れる。
乱れは、前線で死ぬ。
───
部屋に戻ると、リネが小さな湯を用意していた。湯気が白く立ち、狭い部屋が少しだけ暖かい。
「お嬢様……今日、皆さんが……」
リネは言葉に詰まった。
侍女が侍女らしくないほど、目が潤んでいる。
ミレイユは上着を脱ぎながら答えた。
「……支持が生まれました」
「嬉しくないのですか」
ミレイユは、少しだけ考えた。
「嬉しい、は……分かりません。
でも、支持があると、手順が通ります。手順が通ると、死者が減ります。死者が減るのは……良いです」
リネが、静かに頷いた。
「お嬢様は、やっぱり……変です」
「……はい。よく言われます」
その返しが真面目すぎて、リネが小さく笑った。
笑えるのは、生きているからだ。
湯で煤を落とし、ミレイユは記録帳を開いた。
今日の戦闘と、兵の言葉を短く書く。
(補給道:捕捉戦成功。退路封鎖、短く削り撤退させる)
(損耗:味方死者ゼロ。敵損害増)
(兵:手順を信じ始める。「この人がいれば生きて帰れる」発言あり。危険)
(対策:前に出る頻度を制限。英雄化を抑制。手順を主語にする)
最後に一行。
——支持は武器だが、扱いを誤れば刃になる。
蝋燭を消す前、窓の外を見る。
砦の柵の向こうは暗い。敵の火は見えない。見えない火が、こちらを見ているかもしれない。
それでも、今日の砦の中には、昨日までなかったものがある。
「帰れるかもしれない」という静かな確信だ。
ミレイユはその確信を、まだ自分のものとしては受け取らない。
受け取ると、守りが甘くなる。
甘くなると、死者が増える。
だから淡々と、いつもの結論だけを心に置く。
生き残るのは、気合ではない。
生き残るのは、構造だ。




