第13話 『幕僚としての正式採用』
戦闘が終わった日の夜は、勝利の酒ではなく、血の匂いが残る。
砦の外の窪地には、まだ医療班の灯りが揺れていた。蝋燭の火が風に煽られ、そのたびに負傷兵の顔が陰になったり照らされたりする。呻き声は、昼の叫びと違って、芯がない。声を出す力が尽きた者の音だ。布に染みた血は黒く乾き、手袋の縁にこびりつく。
ミレイユは指揮所の片隅で、損耗速報の紙をもう一度見直した。数字が少ない。少ないのに、その数字が重い。死者十。重傷二十二。軽傷四十八。
数字が少なく見えるのは、これまでの「当たり前」がどれほど酷かったかの証明でもある。
紙を畳んだ時、ルーカスが机に新しい束を置いた。今日の記録をまとめたものだ。班ごとの交代の時刻、弓の消費、矢束の搬入、担架の使用回数、そして班長報告の簡易票。
「提出が、想像より揃いました」
ルーカスの声には、疲れの底に小さな驚きが混じっていた。班長報告は義務にしなかった。助けが来る形にした。助けが来る形は、前線では機能する。誰も“善意”だけで動く余裕がないからだ。
ミレイユは紙束の端を揃えながら、短く言った。
「……困っている人は、助けが欲しいです」
「それを“仕組み”にしてしまうのが、あなたのやり方なんですね」
言葉の温度が少し柔らかい。昨日までの警戒の固さが、僅かにほどけている。
ミレイユは頷くだけで返した。褒め言葉は、今はまだ危険だ。前線で褒められると、目立つ。目立てば、恨まれる。恨まれれば、刃が来る。
その時、扉が開き、アルベルトが入ってきた。
鎧は脱いでいたが、下の服にも血の染みが残っている。手袋を外し、指の関節を鳴らす。疲れているのに、立ち方は崩れていない。崩れないのは、崩れたら終わるからだ。
アルベルトは机に近づき、紙束を一瞥してから、ミレイユへ視線を向けた。
「……今日の死者が、十で済んだ」
それは報告ではなく、確認に近い声だった。自分の目で見たのに、まだ信じきれない時の声。
ミレイユは淡々と返した。
「……はい」
「もっと死ぬと思っていた」
「……皆が、線を守りました」
アルベルトは短く息を吐いた。鼻から吐いた息が、彼の怒りを少しだけ連れて出たように見える。怒りの先は敵ではない。王宮だ。あそこが押し付ける“前線”の現実に対する怒りだ。
アルベルトは椅子に座らず、机に手をついた。
「明日、やることが山だ。埋葬、補給申請、損耗報告、敵の動きの分析。……お前は何を優先する」
問い方が変わっている。
「何をする」ではなく、「何を優先する」。指揮官の言葉だ。
ミレイユは答えを急がなかった。優先順位の提示は、幕僚の仕事そのものだ。間違えれば、人が死ぬ。
「……一番は負傷兵の処置の継続です。二番は補給申請。三番は明後日の戦闘に向けた疲労の回復計画です」
「埋葬は?」
「……必要です。ただ、埋葬は“時間”を使います。誰が埋葬するか、割り当てが必要です。
前列の兵を埋葬に回すと、明後日崩れます。埋葬班を固定し、交代で休ませます」
ルーカスが小さく頷いた。理解が速い。彼も同じ線を見ている。
アルベルトの目が細くなる。
「埋葬班を固定すると、不満が出る」
「……出ます。だから“名誉”にします」
アルベルトが眉を寄せた。
「名誉?」
「戦死者の埋葬は、最も汚れる仕事です。汚れる仕事に名誉を与えると、志願が出ます。
志願が出れば固定できます。固定できれば交代も作れます」
名誉は、前線でも通用する。前線の兵は、綺麗事で動かないが、誇りで動く。誇りは生存の最後の支えになる。
アルベルトはしばらく黙り、ルーカスに視線を移した。
「やれるか」
「……やれます。班長を選べば。今日、よく動いた班長を回せば不満は減ります」
アルベルトは頷いた。
言葉が短い。短いのは、決裁が出た証拠だ。
「よし。明朝、埋葬班の割り当てを出せ。——ミレイユ、補給申請をまとめろ。帳簿の分類も、今日の形で出す」
「……承知しました」
命令が明確になった。
そして、その命令が“任せる”になっている。
ミレイユはそこで初めて、アルベルトの言葉の変化を意識した。昨日までは「見るだけ」「洗い出しだけ」だった。今日は「まとめろ」「出す」。
権限が、じわりと増えている。
アルベルトは机の上の紙束を指で叩いた。
「お前、前線の数字を“武器”にするのがうまいな」
ミレイユは一拍置いた。言葉の返し方を間違えると、称賛が火種になる。
「……数字は嘘をつきます。でも、嘘のつき方で現実が見えます」
アルベルトの口元が僅かに動いた。
笑いに近いが、まだ硬い。
「変な令嬢だ」
ミレイユは、ほんの少しだけ目を伏せた。
その言葉は、王宮では侮辱になる。ここでは、評価に近い。
「……よく言われます」
声が柔らかいのは癖だ。だが柔らかい声で短く返すと、相手は勝手に温度を読み違える。前線では、その読み違いが盾になることもある。
───
翌朝、砦の外で埋葬が始まった。
土は凍って硬い。鍬が跳ね返り、手のひらに痺れが走る。埋める穴は浅くなりがちだ。浅い穴は獣を呼ぶ。獣を呼べば病を呼ぶ。病を呼べば損耗が増える。
ミレイユは埋葬に入らなかった。入ると、感情が混ざる。感情が混ざると、判断が遅れる。遅れれば、次の死者が増える。
代わりに、埋葬班へ必要な道具と布を回し、埋める場所を地図に落とし、後日掘り返す必要がないように印を付けた。印は簡素でいい。位置が分かればいい。
砦の中では、補給申請のための紙が並べられた。王都へ送る書状は形式がいる。形式は嫌いではない。形式は手順だ。手順は、生き残る。
ミレイユは粗い帳簿の数字を整え、分類を切り直し、必要量を見積もった。
「布」ではなく「包帯用布」と「雑布」。
「酒」ではなく「消毒用アルコール」と「嗜好品」。
「矢」ではなく「矢」と「弦」と「矢羽の修繕材」。
それらを項目として立てるだけで、欠損が浮く。欠損が浮けば、怒るべき相手が明確になる。
ルーカスがその書状を覗き込み、吐息を漏らした。
「これ、王都の役人が読めますかね」
「読めます。読めないなら、死者が増えます。死者が増えた責任を、誰が負うかを書いてあります」
ルーカスが顔をしかめた。
役人へ責任を投げるのは危険だ。だが、前線は役人が守らなければ崩れる。崩れれば国が負ける。
役人は、責任が明確になった時に動く。
「……団長が嫌いそうな書き方です」
「団長が嫌いでも、必要です」
淡々と言うと、ルーカスが小さく笑った。前線で笑いが出るのは、生き残った証拠だ。
書状が整った頃、指揮所へ呼ばれた。
中にはアルベルトだけではなく、幾人かの騎士が集まっていた。班長ではない。上の者たちだ。隊長格の顔。年配の男もいる。
空気が硬い。これは戦闘前の硬さではない。人間同士の硬さだ。
ミレイユは一歩下がり、礼をした。
視線が刺さる。刺さる視線には、慣れた。王宮の刺さり方と似ている。ただしここは、刺し方が直接だ。
アルベルトが口を開いた。
「今日から、この侯爵令嬢は俺の幕僚補佐に置く」
一瞬、空気が止まった。
隊長格の一人が眉を跳ね上げる。年配の男が露骨に顔をしかめた。
反発が出るのは想定通りだ。前線は命の現場で、命の現場に外様を入れるのは恐怖を呼ぶ。
追放者ならなおさらだ。
年配の男が言った。
「団長。前線は遊びではありません。貴族のごっこ遊びを——」
アルベルトの声が、低く落ちた。
「遊びで死者が十で済むか?」
その一言で、反論が止まった。
死者が十で済んだ。誰もが知っている。誰もが見た。
見た現実は、言い訳を殺す。
それでも、視線はミレイユへ向く。
「たまたまだ」「敵が弱かった」そんな言葉が目の奥に浮いている。
アルベルトは続けた。
「こいつは前に出ない。命令を出すのも俺の名だ。
だが、補給と疲労の線を読める。線が読める人間がいないと、俺たちは削られて終わる」
隊長格の一人が渋々頷く。
別の一人は、まだ納得していない顔だ。
年配の男がさらに言う。
「しかし、幕僚は軍の中枢です。身分はどう扱うのです。命令系統が乱れます」
アルベルトが即答した。
「命令系統は乱れない。こいつは俺とルーカスの下。
必要な時だけ、俺が“任せた”と明言する。勝手に動かせないようにする」
それは、ミレイユへの制約でもある。
制約がある方が安全だ。前線で自由は毒になる。自由は責任の押し付けと同義だ。
アルベルトはミレイユを見た。
「異論はあるか」
ミレイユは短く答えた。
「……ありません。私が勝手に動くと、線が切れます」
その言葉が硬い空気に落ちた。
反発している隊長格の者が、一瞬だけ目を細める。
“線”という言葉が、戦場を見ていた者には刺さる。線が切れた瞬間に仲間が死ぬことを、誰もが知っているからだ。
アルベルトが最後に言った。
「ミレイユが出す数字と手順が気に食わないなら、代案を出せ。
代案がないなら、黙って従え。——俺は、死者を増やす方を選ばない」
その場で、決まった。
決まる時は、前線では早い。早く決めないと死ぬからだ。
会議が解散し始めた時、年配の男が去り際に呟いた。
「王都の追放者が、前線を仕切る時代か……」
ミレイユは反応しなかった。反応すると火がつく。火がつけば、戦場の外で死ぬ。
戦場の外で死ぬのが、一番くだらない。
───
その日から、ミレイユの座る場所が変わった。
指揮所の隅ではなく、地図机の横。
椅子も一つ増えた。増えた椅子は、権限の象徴だ。
権限の象徴は、嫉妬の象徴でもある。
ミレイユは椅子に座る前に、必ず部屋の出口を確認した。窓の位置、棚の陰、扉までの距離。椅子の脚の軋み。
それを見て、アルベルトが短く言った。
「……また導線確認か」
ミレイユは頷いた。
「はい。ここが崩れると、伝達が止まります」
「令嬢らしい趣味じゃない」
「……令嬢の趣味は、よく分かりません」
その言い方が真面目すぎて、ルーカスが吹き出しかけ、慌てて咳払いで誤魔化した。
ミレイユはその理由が分からず、首を傾げた。
どこか抜けたところがある、と言われる部分だ。本人は抜けている自覚が薄い。優先順位が違うだけだ。
アルベルトが僅かに口元を緩めた。
本当に僅かだが、前線でそれは大きい。
会議が始まる。
敵の動きは静かだった。静かな時は危険だ。向こうも学んでいる。
こちらの矢の消費が減ったのを見れば、矢が尽きるまで待つ戦い方に変える。補給を狙う別働が失敗したなら、次は夜襲か、偽装撤退か。
ミレイユは斥候報告を並べ、時間軸で整理した。
誰がどこで、何を見たか。
報告の矛盾は、誇張か、恐怖か、視界の問題か。
矛盾の形で、敵の動きが浮く。
「敵は、森に人を残しています。火は小さい。煙が薄い。炊事を抑えている」
「つまり?」
隊長格の一人が問う。以前ほど攻撃的ではない。だがまだ距離がある。
ミレイユは短く答えた。
「移動が前提です。ここに長く留まるつもりがない。
次の狙いは、別の分岐か、別の補給道かもしれません」
アルベルトが頷いた。
「補給道を二つに分ける。囮も作る」
その発言が出る時点で、彼はミレイユの線の読み方を自分の中に取り込んでいる。
取り込む指揮官は強い。取り込まない指揮官は、戦場で孤立する。
ミレイユはさらに言った。
「囮は、目立つほど危険です。囮の護衛が厚いと見抜かれます。
護衛は厚くせず、近くに伏兵を置きます。伏兵は数より位置です」
アルベルトが短く言う。
「位置は?」
ミレイユは地図の端を指した。小さな丘と枯れ川。視界が切れる場所。
「ここ」と言うだけで、ルーカスが理解し、地図に印を付けた。
会議は短く終わった。
短い会議は、現場の生命線だ。長い会議は疲労を増やす。疲労は損耗になる。
会議後、アルベルトがミレイユを残した。
ルーカスと隊長格が出ていき、指揮所に二人だけになる。
蝋燭の火が小さく揺れ、外の風音が壁を叩く。
アルベルトが言った。
「幕僚補佐の件、反発は出る。出るのは当然だ」
「……はい」
「お前が一番気をつけるのは、正しさで殴らないことだ。前線は感情で動く」
それは忠告だ。
ミレイユは頷いた。
「……理解しています。正しさは、時々人を殺します」
アルベルトの目が一瞬止まった。
その言葉の重さが、彼の中で反響したのだろう。前線の指揮官ほど、その意味を知っている。
「お前は、それを分かっているようだ。だから任せる」
任せる。
その単語が、静かに落ちた。
ミレイユは礼をした。
礼をしても胸の奥が揺れないのは、まだこれは任務だからだ。任務の中で揺れると死ぬ。
「ありがとうございます」
アルベルトは机の引き出しから小さな木札を出した。砦の印と、簡単な紋。物資庫や文書棚を開けるための札だ。権限の札。
「これを持て。物資庫、記録棚、斥候報告。必要なものに触れられるようにする。
ただし、札を使う時は必ずルーカスか俺に一言言え。勝手に動くな」
「……承知しました」
木札を受け取った瞬間、重さはほとんどないのに、責任だけが増えた気がした。
責任は、命の重さになる。
アルベルトはそこで話を終えるかと思ったが、視線を落としたまま、もう一つだけ言った。
「王宮は、お前を殺したがっている」
ミレイユは否定しない。
「……はい」
「前線で功績が出れば、殺し方が変わる。戦死に見せかける必要がなくなる。もっと露骨になる」
「……はい」
「だから、お前が生き残るには、俺が守る必要がある」
その言い方は、指揮官の合理だ。
守る理由は、情ではなく戦力。戦力を失うのは損だ。
だが、その合理の中に、僅かな温度が混じっているのが分かった。
ミレイユは視線を上げず、短く言った。
「……ありがとうございます。守られるなら、役に立ちます」
その返しは、どこか抜けている。
“役に立ちます”は礼の言葉としては不器用だ。
だがアルベルトは、それを不快に思わなかった。
「そうしろ」
短い返事の後、アルベルトは外套を手に取り、ミレイユへ放るように渡した。軍用の、厚い外套。兵の匂いが染みている。
王宮の香りとは違う。煙と汗と鉄の匂い。生存の匂いだ。
「夜の指揮所は冷える。倒れたら意味がない」
「……はい」
外套を羽織ると、重みが肩に乗る。重みは守りでもあり、枷でもある。
ミレイユは外套の前を留めようとして、留め具の位置を間違えた。左右が逆だ。
一瞬、手が止まる。
アルベルトがそれを見て、珍しく口元を緩めた。
「……そこは、抜けてるんだな」
ミレイユは淡々と留め直し、柔らかい声で返した。
「……はい。たぶん」
その返事が真面目すぎて、アルベルトが小さく息を吐いた。笑いの一歩手前の吐息。
前線で、そんな吐息が出るのは珍しい。
───
その夜、砦の外では風が強かった。
木柵が軋み、見張り台の布がはためく。
遠くの森は暗く、敵の火は見えない。見えない時ほど、敵は近い。
ミレイユは部屋に戻り、リネの顔色を見てから短く言った。
「……私は、幕僚補佐になりました」
リネの目が大きく開く。
「お嬢様が……? 騎士団の……?」
「……はい。札も、もらいました」
リネは一瞬、嬉しそうに笑いかけて、すぐに顔を曇らせた。
「それは……危険では……」
「……危険です。だから手順が増えました」
リネは涙をこらえるように頷いた。
彼女はもう、王宮の侍女ではない。前線の侍女だ。前線の侍女は泣いても働く。
ミレイユは記録帳を開き、今日のことを短く残した。
(団長:正式に幕僚補佐に配置。札を受領)
(反発:隊長格にあり。死者の少なさが抑止)
(課題:正しさで殴らない。感情の線を切らない)
(敵:次の手に移行。夜襲・偽装撤退の可能性)
最後に、一行だけ。
——守りは、信頼より先に合理で結ばれる。それでも、その合理は人を生かす。
蝋燭を消すと、暗闇の中で外套の重みが残った。
重みは、任務の重みだ。
そして同時に、誰かが自分を“必要”としている重みでもある。
処刑台に送られたはずだった。
その処刑台で、彼女は一つずつ椅子の位置を変え、紙の分類を変え、兵の命の流れを変え始めている。
まだ、恋ではない。
まだ、任務だ。
だが任務の中で、彼の声が少しだけ温度を持つようになったことを、ミレイユは否定できなかった。




