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『追放された悪役侯爵令嬢ですが、元自衛官なので前線は職場です』 ――戦場で出会ったのは、剣よりも重い責任でした  作者: 月白ふゆ


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第12話 『初陣、死なせない戦い』

前線の朝は、祈りではなく咳で始まる。


砦の中庭を渡ると、焚き火の煙が薄く漂い、まだ陽が上がりきらない空に白い息が幾筋も伸びていた。水桶の縁は凍り、兵の指先は赤黒い。鎧の継ぎ目に霜が残り、革の匂いに湿った鉄の匂いが混ざる。


ミレイユは井戸から汲んだ水を分け、配給の列を横目で確認した。昨日から試験的に固定された班単位の順番は、まだぎこちないが、押し合いが減っている。列の端で揉めそうになっても、班長が先に抑える。抑え方が“怒鳴る”ではなく“順番だ”になっただけで、空気が少し変わる。


変わった空気は、戦闘の前に必要だ。混乱は戦場で殺す。


指揮所へ向かう途中、見張り台の上で笛が短く鳴った。二度、間を置いてもう一度。伝達の合図が規則的だ。昨日までの即興の笛より明らかに整っている。整っているのは、伝達経路が固定された証拠だ。


ルーカスが走ってきて、息を整える前に言った。


「斥候が戻りました。敵が動いています」


ミレイユは頷いた。


「……規模は」


「正面に二百前後。別働で五十ほど、森から回り込む可能性があると」


二百。

国境第二騎士団の実働は、帳簿上で千を超えていても、実際に矛を持って並べられるのは半分以下だ。しかも疲労が蓄積している。二百の敵でも、こちらが崩れれば砦の柵まで押し込まれる。


ルーカスは声を落とした。


「団長が、あなたも来いと」


「……はい」


指揮所に入ると、アルベルトは地図の前に立っていた。鎧の留め具を締め直しながら、地図の一点を指で叩く。机の上には昨夜の報告と、今朝の斥候報告。蝋燭の芯が短い。夜を越した証拠だ。


「来たか」


「……はい」


アルベルトは地図から目を離さず言った。


「正面から来る。いつもの小競り合いじゃない。敵がまとまっている。狙いは、砦の柵の偵察か、補給の焼き払いか——」


「……補給線です」


ミレイユが短く言うと、ルーカスが視線を向けた。アルベルトの眉が僅かに動く。


「根拠は」


ミレイユは言葉を削り、情報だけを置く。


「今週、敵の動きが静かでした。静かな時に、向こうは準備します。

斥候が見た二百は、囮の可能性があります。森の別働五十は、補給を狙うには十分です。

こちらの補給護衛は少し増えました。敵はそれを見ています」


アルベルトがようやくこちらを見た。目が鋭い。だが、否定はしない。


「……どう防ぐ」


ミレイユは命令口調にしない。選択肢の形にする。


「正面は、柵の外で止めます。砦の中へ入れたら、混乱します。

別働は、補給道の分岐で捕まえます。分岐を越されると、追いかける側が疲労で死にます」


ルーカスが地図の分岐点を指した。


「ここです。小川の橋と、枯れた林道が交わる」


ミレイユは頷いた。


「橋の手前に矢の補給を置きます。前に出る班は、矢が尽きたら崩れます。

担架と水は、柵の内側ではなく、外側の窪地に置きます。柵の内側は渋滞して救えません」


アルベルトが吐息を漏らす。


「外側に医療を置くのは危険だ」


「危険です。でも、内側に置くと、負傷兵が歩けない。歩けない兵が通路を塞ぐ。通路が塞がると、次の負傷兵が倒れる。

危険を減らすなら、医療班に盾持ちを二人付けます。守りは固定します」


アルベルトは地図を睨み、短く言った。


「……よし。正面は俺が出る。別働は、誰が出す」


ルーカスがすぐ口を開いたが、アルベルトが先に遮るように言った。


「ルーカス、お前は指揮所に残れ。全体の伝達が途切れたら終わる」


ルーカスが唇を噛み、頷く。


「承知しました」


アルベルトの視線がミレイユに刺さる。


「お前は」


ミレイユは自分から言った。


「……私は、指揮所の補助。伝達と補給の管理をします。前には出ません」


一瞬、アルベルトの表情が僅かに緩んだ。追放者が自分の役割を理解している。前線ではそれが貴重だ。


「分かった。——ただし、状況が崩れたら逃げろ。お前が死んでも誰も得をしない」


「……承知しました」


命令が整うと、ルーカスが声を張った。班長が呼ばれ、伝令が走り、兵が動く。昨日までの“叫び声で動かす”ではなく、“合図で動かす”になっている。まだ粗いが、粗いなりに形がある。


ミレイユは机の端で紙を広げ、短い指示書を作った。誰がどこへ。矢の補給はどこへ。水はどこへ。担架は何本。

この世界の紙は高い。だから余白を潰し、文字を小さく詰める。詰める手は震えていない。


外から角笛が鳴った。敵が動き出した合図だ。

その瞬間、砦の空気が変わる。咳が止まり、雑談が消え、金属が鳴る。恐怖が、形を取る。


アルベルトが鎧を付け、剣を帯び、扉に向かう。出る直前、振り返って言った。


「ミレイユ。伝達が切れたら、前は死ぬ。切るな」


「……切りません」


アルベルトは扉を開け、冷気の中へ出た。



───


正面の戦場は、砦の柵の外側に広がる緩い斜面だった。土塁の前に丸太を組んだ簡易柵があり、その前は踏み固められた泥。泥の中に凍った草が刺さっている。遠くには森と、低い丘。視界は悪くない。


ミレイユは指揮所の小窓から外を見た。直接戦場へは出ない。だが、見える範囲は見る。見えない範囲は伝令と斥候の声で補う。


兵が並ぶ。盾と槍。弓兵が後ろに控え、矢束を抱えた補給役がさらに後ろに立つ。

昨日まで見たことのない配置だった。兵が戸惑い、班長が怒鳴りそうになり、怒鳴る寸前で堪える。堪えて、短く言い直す。「前へ」「詰めろ」「離れるな」。命令の言葉が短いほど、戦場では届く。


敵影が見え始めた。黒い点が線になり、線が塊になる。鎧の光がちらつき、槍先が揺れ、太鼓の音が腹に響く。


敵は二百ほど。先頭は盾兵、その後ろに槍兵、さらに弓兵。隊形が整っている。侮れない。


アルベルトが前に出た。軽装の鎧の上に外套はない。動くためだ。彼は剣を抜かず、まだ手は鞘に置いたまま、声を張った。


「弓、近づくまで撃つな! 矢を無駄にするな!」


弓兵が頷く。

“無駄にするな”が、兵の頭に刺さる。今まで無駄にしていたのだ。撃っても届かない距離で撃ち、矢が尽き、敵が近づいた頃には素手になる。帳簿の外の死因は、そういう無駄の積み重ねだ。


敵が走り出した。盾が前へ、槍が揺れ、地面を踏む音が重い。


アルベルトが腕を上げた。合図。


「今だ!」


弓兵が一斉に矢を放った。矢が空を裂き、風切り音が一瞬重なる。

矢は雨のように落ちた。


先頭の敵盾兵の肩に矢が突き刺さり、男がよろける。別の矢が顔の横を掠め、頬が裂け、血が飛ぶ。盾の隙間から喉に矢が入った敵が、音もなく喉を押さえ、指の間から血を噴いた。咳き込もうとして、咳き込みきれず、膝をつく。


矢の刺さる音は鈍い。肉に入る音だ。鉄に当たれば甲高い。盾に刺されば、木が裂ける音になる。


敵は速度を落とさず突っ込んでくる。盾を上げ、矢を受け、倒れた者を踏み越えて。

踏み越えられた者が呻き、泥の中で腕を伸ばし、また踏まれる。骨が折れる音が、近くまで届く。


距離が詰まった。


アルベルトが叫ぶ。


「槍、構えろ! 盾、前! 詰めるな、押すな、壁を作れ!」


盾兵が肩を寄せ、槍兵が槍先を揃える。槍先は、眼の高さより少し下。腹を狙う角度だ。

敵が突っ込んでくる。衝突。


盾と盾がぶつかり、木と鉄が軋む。押し合いの音は、骨の中まで響く。

敵の槍が突き出され、こちらの盾に突き刺さり、木が裂ける。裂けた隙間から槍が滑り、盾の持ち手を握る指が削れた。指の先が飛び、血が盾の縁を伝って落ちる。兵が歯を食いしばり、声を出さずに持ち続ける。


こちらの槍が敵の腹に入った。

鎧の隙間を突いた槍先が肉に沈み、男の体が反り、口から息が漏れる。抜くと、血が槍柄を濡らし、湯気が立った。寒さの中で、血は湯気を立てるほど温かい。


敵はさらに押してくる。数で押す。

だが、こちらは崩れない。崩れないために、後ろに予備がいる。前列が疲れたら、交代する合図がある。合図があるから、交代が“逃げ”にならない。


ミレイユは指揮所の中で、伝令を次々受け取った。

「前列、交代一回目」

「矢、補給一回目」

「担架、二名搬送」

報告が短いほど、意味が揃う。


矢の補給が機能しているのが見える。弓兵の後ろで矢束が回り、矢が尽きない。矢が尽きなければ、敵の足が止まる。足が止まれば、槍壁が保つ。


敵の側に動きが出た。弓兵が前へ出て、こちらの後列へ矢をばら撒き始める。矢が飛び、後ろにいた補給役の肩に刺さった。男が叫び、矢を抜こうとしてさらに痛みで歯を食いしばる。血が手のひらを濡らす。別の矢が腿に刺さり、膝が折れる。倒れたところへまた矢が飛び、地面に突き刺さる。


ミレイユはすぐ紙に書き、伝令へ言った。


「後列、盾を二列に。補給役は盾の内側へ。弓兵の矢に晒すな」


伝令が走る。

命令はアルベルトの名で出る。ミレイユは言葉を整えるだけだ。整えるだけで、前線の生存率が変わる。


正面は押し合いが続く。

敵の一人が槍を捨て、短剣で盾の隙間に突っ込んだ。短剣がこちらの兵の脇腹に入り、鎧の下の肉が裂ける。血が噴き、兵が呻き、倒れかける。

すぐ後ろの兵が盾で押し返し、槍で敵の喉を突いた。喉が裂け、短い叫びが出て、すぐに音が途切れる。敵は口を開けたまま倒れ、舌が血で濡れた。


戦場は汚い。

きれいな死に方はない。きれいな勝ち方もない。あるのは、より少なく死ぬための手順だけだ。


アルベルトが隊列の端へ動いた。端が弱い。端が崩れれば全体が巻き込まれる。

彼は端の兵に叫んだ。


「押すな! 押し返すな! 踏ん張れ! 前へ出るな!」


端の兵は恐怖で前へ出たがる。前へ出れば一瞬勝って見える。だが前へ出ると、隣との間に隙間ができ、そこへ敵が滑り込む。滑り込んだ敵は背中を刺す。背中を刺された兵は倒れ、倒れた穴がさらに広がる。

それが崩壊だ。


アルベルトはそれを知っている。

だから怒鳴るのではなく、止める言葉を選ぶ。止める言葉が、兵を生かす。


しばらくして、敵の勢いが鈍った。

矢で削れ、槍で止められ、死体が足元に溜まり、泥が滑る。足を滑らせた敵が転ぶ。転んだ敵は盾を上げられず、槍で突かれる。

突かれた腹から血が出て、泥に吸われ、黒く広がる。


敵が退き始めた。

太鼓の音が変わる。撤退の合図だ。


アルベルトは追撃を命じない。追撃は快感だ。勝っている感覚がある。だが追撃は疲労を増やし、隊列を崩し、別働に首を切られる。


彼は叫んだ。


「追うな! 線を保て! 弓、最後まで削れ!」


弓兵が最後の矢を放つ。退く敵の背中に矢が刺さり、男が倒れる。倒れた者を仲間が引きずろうとするが、引きずれない。引きずれば自分が刺される。

敵は負傷者を置いて退いた。置くのは残酷だが、撤退では普通だ。


正面が一段落した、その時だった。


指揮所に飛び込んできた伝令の声が掠れていた。


「別働! 林道! 五十、来ます! 補給道へ!」


ミレイユの胸が一瞬だけ締まった。

来た。やはり来た。狙いは補給。


ルーカスがすぐ立ち上がり、アルベルトへ伝令を走らせようとする。

ミレイユが先に短く言った。


「分岐で捕まえます。橋の手前。矢は置いてあります。盾持ちは二人、医療班も外側窪地にいます」


ルーカスが頷き、命令を飛ばした。


「第二班、橋へ! 第三班、林道の口へ! 弓は上へ、斜面を使え!」


伝令が走る。

指揮所の外でも、兵が動き出す音が増える。


ミレイユは机の端の地図で分岐点を指し、ルーカスに言った。


「橋を越させない。越されたら、追う側が森で散ります。散れば殺されます」


「分かっています」


ルーカスの声は硬い。彼も恐れている。恐れていても動く。それが前線だ。


別働の戦闘は、指揮所からは見えない。見えない戦闘ほど怖い。

見えないから、想像が最悪へ走る。

最悪へ走ると、判断が乱れる。乱れると、伝達が切れる。


ミレイユは呼吸を整え、報告を待つ姿勢を作った。

短い報告だけを積み重ねる。積み重ねれば、見えない戦場が形になる。


数分後、最初の報告。


「橋前、接敵!」


次。


「弓、撃ち始め!」


次。


「敵、盾で押す!」


次。


「林道口、回り込み阻止!」


報告が途切れない。途切れないのは、伝令が倒れていない証拠。倒れていないのは、線が保たれている証拠だ。


そして、少し遅れて、血の匂いが風に乗ってきた。

正面より生々しい匂い。近い。林道の戦場は砦に近い。近いから、匂いが届く。


次の報告は、声が震えていた。


「敵、突破しそう!」


ルーカスが歯を食いしばった。

突破されると、補給が燃える。燃えれば、前線が餓える。餓えれば、次の戦闘で死ぬ。


ミレイユは短く言った。


「予備を入れます。交代でなく、壁を厚く。前列が崩れないように」


ルーカスは即答した。


「第四班! 橋へ! 盾を前へ! 槍は二列! 押し返すな、止めろ!」


命令が飛ぶ。

止めろ、という言葉が良い。押し返せは前へ出る。止めろは線を保つ。


少しして、報告が変わった。


「敵、止まりました!」


「敵、混乱!」


「こちら、押し込まず保持!」


保持。

その単語が出た時点で、勝ちの形が見えた。保持は勝利ではない。だが保持は崩れない。崩れなければ、次の手が打てる。


最後の報告が来た。


「敵、撤退! 林道へ戻ります! 追撃せず!」


ミレイユは息を吐いた。

吐いた息が白くなり、蝋燭の火を僅かに揺らした。



───


正面と別働、どちらも退いた。

戦闘は終わっていない。戦闘が終わるのは、負傷者の処理が終わった時だ。負傷者の処理が遅れれば、死者が増える。死者が増えれば士気が落ち、次で崩れる。


ミレイユは外へ出る許可を求めなかった。求める時間が惜しい。

ただ、指揮所の外にある伝達の要所へ立ち、伝令を整理し始めた。報告の順番、場所、負傷者数。担架の本数。

「担架が足りない」という言葉が出た瞬間に、予備の布と棒を回す。布と棒で担架は作れる。作れるなら死なない。


窪地に置かれた医療班から、呻き声が聞こえた。

抑えきれない痛みの声だ。

そこへ兵が運ばれていく。血で濡れた鎧。腹を押さえる手。指のない手。足を引きずる者。


ミレイユはその場へ入らない。医療の専門ではない。専門でない者が入ると邪魔になる。

ただ、必要な物資だけを回す。水、布、糸、針。

針と糸は笑われたが、必要だ。縫えるものは縫って止血する。止血できれば死なない。


「水を!」


叫び声。

ミレイユは水桶を持つ兵に短く言った。


「口に入れすぎない。むせる。少しずつ」


兵が頷き、水を少しずつ含ませる。負傷兵がむせ、血混じりの唾が漏れる。

喉が切れているのかもしれない。むせる音が湿っている。


医療班の年配の男が、血に濡れた手で言った。


「こいつは足だ! 骨が出てる! 押さえろ!」


兵の脛から白い骨が覗いていた。皮膚が裂け、血が流れ、泥が混じっている。

押さえられた兵が叫び、目が白目になりかける。

別の兵が布を噛ませようとするが、噛む力がない。


ミレイユは視線を逸らさない。逸らせば足が止まる。足が止まれば手順が止まる。手順が止まれば人が死ぬ。


彼女は、背後で立ち尽くしている若い補給役に言った。


「布を切って。細く。紐を作る。止血帯にする」


若者が震えながら頷き、布を裂く。裂けた布を丸め、医療班へ渡す。医療班が腿の付け根に巻き、締め上げる。血の勢いが少し落ちる。

落ちた瞬間、周囲の空気が僅かに軽くなる。生きる可能性が増えたからだ。


後ろで別の叫び声が上がった。

矢が肩に刺さった兵が、矢を抜こうとしていた。矢を抜けば血が噴く。抜くべきではない。


ミレイユはすぐ歩み寄り、短く言った。


「抜かない」


兵が睨み返す。痛みで目が充血している。


「抜けば楽になる!」


「抜けば死ぬ」


その言い方は冷たい。だが、前線では正しい。

兵の手が止まり、震える。

医療班が来て矢を固定し、周囲を切り開いて処置を始めた。


一人、担架から転げ落ちそうになった負傷兵を支えた兵が、泣きそうな声で言った。


「こんなに……生きてる……」


死に慣れた声だ。

死に慣れた者が、今日の生存数に驚いている。


ミレイユは淡々と返した。


「……手順が回っただけです」


「あなたが……」


兵が言いかけて、周囲の視線を気にして黙った。追放者に礼を言うのは、まだ抵抗がある。

抵抗があるのは正常だ。信頼は一日で作れない。だが、生き残った経験は信頼を作る。


夕刻、戦場の回収が進み、敵の死体が集められた。

死体は重い。鎧が重い。泥が重い。

死体の顔は、驚いたまま固まっている者もいれば、苦痛で歪んだ者もいる。喉を射抜かれた者は、口の周りが血で黒く固まっていた。腹を突かれた者は内臓が漏れ、冬の空気に晒されて色が変わり始めている。


味方の死体も出た。

だが数が少ない。少ないからこそ、回収する兵の手が震える。死体が少ないと、死が一つ一つ重くなる。


アルベルトが戻ってきたのは、空が赤くなり始めた頃だった。鎧に血が付いている。敵の血か、味方の血か、分からない血の色。頬に小さな切り傷。手袋の隙間に血が乾いている。


彼は指揮所に入る前に、窪地の医療班を見た。負傷兵の数、死体の数、医療班の顔色。

それを見て、顔が僅かに動いた。驚きに近い動きだった。


指揮所に戻ると、ルーカスが損耗の速報を出した。


「正面、死者八。重傷十五。軽傷三十。

林道、死者二。重傷七。軽傷十八。

敵は……回収できた死体だけで六十以上。撤退時に引きずった者を含めればもっとです」


アルベルトが短く息を吐いた。


「……少ない」


それは勝利の言葉ではない。安堵の言葉だ。

前線で「死者が少ない」は、何より価値がある。


ルーカスが続けた。


「担架の不足はありましたが、混乱は抑えられました。配給順が効いています。弓の補給も途切れませんでした」


アルベルトの視線がミレイユに向いた。


「お前、どう見た」


ミレイユは短く答えた。


「……線が切れませんでした。だから崩れませんでした」


「誰のおかげだ」


問いが鋭い。

功績を認めるかどうか。

前線で功績を認めるのは、次の責任を渡すことになる。


ミレイユは、言い方を選んだ。

自分を前に出さず、構造に焦点を当てる。


「班長が、命令を短くしました。

弓が、矢を無駄にしませんでした。

団長が、追撃を止めました。——それで、生き残りました」


アルベルトが一瞬黙り、次に言った。


「……自分の名前を言わないのは、癖か」


「……必要がありません」


その返答は、どこか抜けている令嬢の素直さにも見える。

だが実際は、政治的な本能だ。目立てば殺される。目立たずに生かす。それが彼女の生存戦略だ。


アルベルトは椅子に座り、疲れた顔で額を押さえた。

それでも声は折れていない。


「ルーカス。今日の配置を記録しろ。次も同じ形でやる。改善点は洗い出せ」


「承知しました」


アルベルトが最後にミレイユへ言った。


「お前の線の見方は役に立つ。——だが、今日だけで終わると思うな。敵も学ぶ」


「……はい。敵も手順で来ます」


アルベルトが僅かに笑った。

笑いと呼べるほど軽くはない。だが、前線の男が少しだけ肩の力を抜いた表情だった。


「その言い方は嫌いじゃない」


その瞬間、指揮所の外で、兵の笑い声が聞こえた。小さな笑い声だ。

今日、生き残った者の笑い声。

笑い声が出る前線は強い。


夜、部屋に戻ると、リネが駆け寄った。顔が青い。だが目はしっかりしている。


「お嬢様……戦闘……」


ミレイユは上着を脱ぎながら答えた。


「……終わった」


「ご無事で……」


リネの声が震え、涙が落ちそうになる。

ミレイユはそれを止めない。止める必要がない。泣ける時に泣く。泣けるなら生きている。


「死者は……少なかったですか」


「……少なかった」


リネが唇を噛んで頷く。

その頷きは、祈りに近い。


ミレイユは記録帳を開いた。

今日の戦闘の線を、短い言葉で残す。


(正面:弓の節約、槍壁保持、追撃禁止が効いた)

(別働:分岐で捕まえた。橋を越させなかった)

(負傷処理:医療を外側窪地。担架不足は即席で補完)

(損耗:想定より低い。疲労回転が維持できた)


最後に、一行だけ書く。


——戦闘は、戦場の外で八割決まる。


蝋燭の火が揺れた。

外では、まだ呻き声が続いている。戦闘は終わっても、痛みは終わらない。

それでも、今日は「崩れない」を作れた。


処刑台に送られたはずだった。

その処刑台で、彼女は初めて、はっきりと理解する。


ここは、死ぬ場所ではない。

生き残る場所だ。

そして生き残ることは、戦うこと以上に、整えることなのだと。

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