第11話 『兵は駒ではなく、人員です』
日の出前の前線は、夜より冷たい。
風が音を立てずに皮膚を削り、息が白くなるのに、吐くたび喉が乾く。砦の石壁は夜の冷えを抱えたままで、布一枚の薄さがそのまま生死に直結する感触があった。
ミレイユは目を開け、まず呼吸を整えた。
次に耳を澄ます。外の足音の数。鍛冶の音の有無。見張りの笛。咳。咳の頻度。
咳が多い。
乾いている。夜間の冷えと疲労が重なっている。
リネはすでに起きていた。小さな灯りの下、昨日の残りの布を畳み、荷の位置を整えている。涙の跡は消えていないが、動きは崩れていなかった。
「……水」
ミレイユが短く言うと、リネはすぐ頷いた。
「はい」
二人で井戸まで行く。
導線の確認を兼ねて、遠回りはしない。砦の内側の井戸は人が集まる。人が集まれば揉め事が起きる。揉め事が起きれば、余計な敵が増える。
井戸の周囲にはすでに兵が数人いた。顔色が悪い。まぶたが重い。手の甲に細かい傷。凍瘡の気配。
見て見ぬふりはしない。ただ、声をかけない。まだ信用がない。今声をかければ「追放者が何を」となる。
水を汲み、戻る。
日の出と同時に勤務開始。ルーカスが言っていた通り、前線は時間が早い。早いのは、足りない時間を前借りしているからだ。
簡素な朝食を受け取り、喉に流し込む。固いパンは噛むたびに口内を削るが、削られた分だけ生きる。
それが終わる頃、扉が叩かれた。
二度。短く規則的。
昨夜と同じ。
ミレイユが扉を開けると、ルーカスが立っていた。寝不足の影はあるが、姿勢は整っている。机と地図の前で夜を越した顔だ。
「おはようございます。指揮所へ」
「……はい」
リネが一歩前へ出ようとしたが、ルーカスが軽く首を振った。
「侍女の方はここで。団長がそう言いました」
リネの顔が一瞬強張る。ミレイユはリネを見ずに、小さく言った。
「……部屋に。扉は閉めて。窓を確認」
「はい……!」
リネは頷き、すぐに部屋へ戻った。
感情を引きずらない。引きずる暇がない。これも前線の手順だ。
ルーカスの後ろを歩きながら、ミレイユは今日の目的を頭の中で整理した。
帳簿を見る。
見るだけ。
ただし、見るだけで終わると人が死ぬ。人が死ねば自分も死ぬ。なら、見るだけのふりをして、必要な情報は全て拾う。
指揮所に入ると、空気が違った。
外の冷えより、ここは乾いた熱がある。蝋燭の煤、インクの匂い、金属の匂い。紙の束が積まれ、地図が壁に貼られている。机の上は乱雑だが、乱雑の中に優先順位が見える。重要な書類は中央、そうでないものは端。端が増えているのは、処理が追いついていない証拠だ。
アルベルトはすでにいた。鎧は軽装のまま、手袋を外し、机の地図に指を置いている。視線の動きが速い。情報の処理が速い人間の目だ。
ただ、顔色が少し悪い。
眠れていない。食べられていない。集中で身体を押さえつけている。
ミレイユは一歩進み、礼をした。
「おはようございます。ミレイユです」
アルベルトは返礼をしない。代わりに、短く言った。
「座れ。……いや、まず確認だ」
視線が鋭く刺さる。
「お前は、帳簿が読めるのか」
「……はい」
「貴族の帳簿じゃない。前線の帳簿だ。汚い。矛盾もある。数字も嘘をつく」
「……読めます」
「根拠は」
ミレイユは一拍置き、余計な情報を削った。
「前に、似たものを扱いました」
アルベルトの眉がわずかに動く。
似たもの、という言い方が引っかかったのだろう。だが彼は突っ込まない。今は時間がない。
「ルーカス。出せ」
ルーカスが棚から束を持ってくる。羊皮紙に近い厚い紙。汚れ、折れ、血の染み。
机の上に置く音が重い。紙束が重いのは、内容が重いからだ。
アルベルトが言う。
「三つ見る。補給、兵数、損耗。……ただし、指示は俺が出す。お前は『洗い出し』だけだ。分かったな」
「……承知しました」
アルベルトは椅子に座り、指を組んだ。
見張る姿勢だ。試す姿勢でもある。
ミレイユは机に向かい、紙束の一番上を開いた。
───
最初に見るのは、文字ではない。
筆跡の揺れ。書き直しの跡。余白の癖。
帳簿は人間の心が滲む。落ち着いている時の筆と、追い詰められた時の筆は違う。
補給帳は、途中から字が荒れている。
数字の列が斜めになり、インクの濃淡が激しい。書いた手が震えていたのだろう。
ミレイユは、書式を頭の中で再構成した。
この国の単位、俵、樽、束。馬の飼料、乾燥肉、塩、矢、革紐。医療品は項目が少なすぎる。包帯は「布」と一括され、針と糸が別にない。消毒酒がそもそも項目にない。
「……」
声に出す代わりに、机の隅に小さな紙を置いた。
自分用のメモ用紙。王宮から持ってきた薄い紙束の端を切ったものだ。
(補給:分類が粗い)
(医療:項目不足=実数が把握できない)
(飼料:馬の消耗が進行)
ページを繰る。
入庫と出庫が一致しない。
一致しない理由はいくつかある。盗難、記入漏れ、集計ミス、現物の欠損、そもそも現物が届いていない。
重要なのは「どれか」ではない。
前線では複数が同時に起きる。だから構造で判断する。
次に兵数帳。
登録数と実働数が違う。違うのは当たり前だ。病人、負傷、哨戒、補給護衛、炊事、修繕。
だが、差が大きい。
ミレイユは差の理由を拾った。
・病欠が多い
・夜哨が厚い(=警戒が強い)
・補給護衛が多い(=補給線が脅かされている)
・炊事が非効率(=人が取られている)
・修繕が常態化(=拠点が弱い)
損耗帳はさらに重い。
死者、負傷者、行方不明、離脱。
離脱がある。前線での離脱は、ほぼ死と同義だ。
ミレイユは、数字をただ眺めない。
時間軸に並べる。
いつ増えたか。どこで増えたか。何が原因か。
そして、ひとつの線が浮かぶ。
補給が遅れた週に、病欠が増えている。
病欠が増えた週に、損耗が増えている。
損耗が増えた週に、さらに補給護衛が増えている。
増えた護衛の分、前線の実働が減っている。
悪循環。
戦場での敵は、目の前の敵軍だけではない。
補給の遅れと疲労が、味方を削る。
ミレイユは、紙束を閉じた。
一旦、全体像を頭の中で作るためだ。
細部に埋もれると、重要な線を見失う。
アルベルトが低い声で言う。
「どうだ」
ミレイユは一拍置き、最小限で答えた。
「……足りません」
ルーカスが苦笑しそうになり、すぐに抑えた。
アルベルトは笑わない。笑えない。
「何が」
ミレイユは項目を絞った。
攻撃ではなく報告として。
「補給が遅れています。分類が粗く、欠損が見えません。
兵数は登録より実働が少なく、病欠が多い。
損耗は戦闘だけではなく、疲労と病で増えています」
アルベルトの目が細くなる。
「当たり前だ。前線はそういう場所だ」
「……はい」
「それを今さら言われても意味がない」
意味がない、と切るのは、今まで誰も改善案を出せなかったからだ。
改善案を出しても通らなかったからだ。
アルベルトは前線の現実に慣れすぎている。慣れは生存に必要だが、慣れは崩壊も許容する。
ミレイユは、言葉を選んだ。
命令ではなく、提案でもなく、確認の形。
「……団長。確認を一つ」
「何だ」
「団長の優先順位は、『勝つ』ですか、『崩れない』ですか」
ルーカスが目を丸くした。
前線で団長にそんな質問をする人間は少ない。
少ないから危険だ。だが、優先順位が違えば、取る手順が変わる。
アルベルトはすぐに答えなかった。
視線がミレイユを貫き、次に地図へ落ち、最後にまた戻る。
「……崩れない。勝ち続けるには崩れないことが先だ」
ミレイユは頷いた。
「……同じです」
短い一言で、空気が少し変わった。
同じ、と言える人間は少ない。多くは「勝つ」と言う。勝つと言えば格好がつくからだ。だが勝ちは瞬間で、崩れないは構造だ。
アルベルトが言う。
「それで。洗い出しは終わったのか」
「……まだです。線が一本見えました」
「線?」
ミレイユは、紙に簡単な図を描いた。
矢印だけ。言葉は少ない。説明は短い。
補給遅れ → 病欠増 → 実働減 → 損耗増 → 護衛増 → さらに実働減 → さらに補給遅れ
「この循環が回っています」
アルベルトの目が、図の上で止まった。
彼は理解が速い。速いが、認めたくない現実にも慣れている。
「……止められるのか」
ミレイユは答えを急がなかった。
急げば「できる」と言ってしまう。できると言えば責任が付く。責任は、権限とセットでないと死ぬ。
だから、言い方を選ぶ。
「止めるには、入口を潰す必要があります。——補給です」
アルベルトが眉を寄せる。
「補給は王都が握っている」
「……前線でも、変えられます。受け取り方と使い方」
ルーカスが思わず口を挟んだ。
「受け取り方……?」
ミレイユはルーカスを見ず、アルベルトにだけ向けた。
「今の帳簿は粗いです。欠損が見えません。欠損が見えないと、対策が打てません。
帳簿を整えるだけで、欠損の場所が浮きます。盗難か、記入漏れか、届いていないか」
アルベルトの目が細くなる。
「帳簿を整えて、何が変わる。紙を綺麗にしても物は増えない」
「……紙が綺麗になるのではありません。判断が早くなります」
ミレイユは、淡々と言った。
「判断が早いと、死者が減ります」
その言葉に、指揮所の空気が少し重くなる。
誰もが、死者が減ることの価値を知っている。
同時に、死者が減らないことの理由も知っている。
アルベルトは顎でルーカスを示した。
「こいつに帳簿整理をさせるのか」
「……はい。ただし、権限が必要です」
「権限?」
「現物確認。配給の流れの確認。物資庫への立ち入り。——最低限」
アルベルトは少し黙った。
追放者に権限を渡すのは危険だ。だが、前線の現実は危険の選別を迫る。
「……ルーカス」
「はい」
「物資庫は見せろ。立ち入りは二人以上。必ず見張りを付けろ」
「承知しました」
ミレイユは頷いた。
「ありがとうございます」
アルベルトは、そこでは終わらせなかった。
彼は前線の団長で、甘くない。
「もう一つ。兵数と疲労だ。あれはどうする」
ミレイユは即答しない。
疲労管理は人の感情に触れる。感情に触れると反発が出る。反発が出ると現場が崩れる。
だから、まずは「見える化」からだ。
「……疲労は、帳簿にありません。見えないものは管理できません」
アルベルトが苛立ちを滲ませる。
「疲労を帳簿に書けと言うのか」
「……簡単に」
ミレイユは、紙にまた短い表を描いた。
個人の名前ではなく、班単位。
・睡眠時間(目安)
・連続勤務日数
・戦闘参加回数
・怪我と病の有無
それだけ。
「これを班長に毎日出させます。数字は正確でなくていい。傾向が見えれば十分です」
ルーカスが呟いた。
「班長に……そんな余裕が……」
「余裕がないから、倒れます」
ミレイユは淡々と返した。
倒れれば戦力が減る。戦力が減れば損耗が増える。損耗が増えればまた余裕がなくなる。
悪循環は、余裕のなさを理由に維持される。
アルベルトは深く息を吐いた。
「……お前は、兵を数字で見るのか」
ミレイユは一拍置き、短く答えた。
「数字で見ないと、死にます」
その言い方は冷たい。
だが冷たさの裏に、人を生かす意図がある。
それを理解できるかどうかで、前線の空気は変わる。
アルベルトの目が、わずかに揺れた。
揺れは拒絶ではない。理解しようとする揺れだ。
「よし。今日一日、お前はルーカスに付け。物資庫と配給を見ろ。班長の名簿も揃えろ。
ただし、兵の前で余計なことは言うな。反発が出る」
「……承知しました」
「俺に報告しろ。短く、正確に」
「……はい」
アルベルトは最後に、低い声で言った。
「……死ぬな。ここは、死にやすい」
命令ではなく、現実の告知に近い。
それでも、その一言には僅かな温度があった。
ミレイユは礼をした。
「……生きます」
───
物資庫は、砦の外側に近い場所にあった。
木造の倉。隙間風。床は泥が乾いて固まっている。
見張りが二人付き、ルーカスが鍵を開ける。鍵穴の動きが重い。手入れが足りない。
扉を開けた瞬間、匂いが鼻を刺した。
湿った麻袋。獣脂。古い干し肉。酸化した油。
長期保存に向かない管理だ。
ミレイユはまず、全体を一周見た。
積み方が悪い。重いものが上にある。袋が潰れている。潰れれば中身が粉になる。粉になれば配給で揉める。揉めれば士気が落ちる。士気が落ちれば離脱が増える。
ルーカスが警戒する声で言う。
「……どうですか」
ミレイユは言葉を選んだ。
批判ではなく、危険の指摘として。
「倒れやすいです」
「……倒れやすい?」
「この積み方だと、揺れで崩れます。人が下敷きになります」
ルーカスの顔色が変わった。
前線では、人は物に殺される。剣より先に。
「今すぐ直すべきですか」
「……はい。ただし、今は私が命令できません」
ルーカスは唇を噛み、見張りの兵へ目配せをした。
「班を呼ぶ。最小人数で組み替える。——ミレイユ様、指示は……」
ミレイユは即答しなかった。
指示は権限だ。権限は責任だ。責任は命だ。
だから、ルーカスに投げ返す形にする。
「……安全確保の順番だけ。
一、崩れそうな上段を下ろす。
二、通路を確保する。
三、重いものを下、軽いものを上。
四、種類ごとに区画を作る」
ルーカスが頷き、兵に短く命じた。
兵は不満そうに見えたが、倉の中の危険を見て納得したように動いた。危険が見える時、人は動きやすい。
ミレイユは倉の奥へ進み、麻袋の口を少しだけ開けて匂いを確かめた。
干し肉が古い。塩が湿って固まっている。飼料が足りない。矢束の紐が劣化している。革紐が硬化している。
医療箱は少ない。布はあるが、清潔ではない。
「ルーカス」
「はい」
ミレイユは短く言った。
「消耗品が、把握できていません」
「帳簿には……」
「帳簿の分類が粗いです。『布』では足りません。包帯に使える布と、雑巾の布が一緒です」
ルーカスが苦い顔をする。
前線の帳簿は、現場の生存より「報告用」の形になっている。報告用は戦争を勝てない。
配給所も見た。
鍋は少なく、火は弱い。炊事班が疲れている。水場が遠い。列が長い。列が長いほど、争いが増える。
配給の順序も曖昧で、強い者が前に出る。強い者が前に出れば、弱い者が削れる。削れた弱い者が病み、損耗が増える。
ミレイユは一つずつを、感情を挟まずに拾った。
拾って、分類して、短い言葉にする。
前線で長い説明は刃になる。聞く側が疲れているからだ。
午前が終わる頃、班長たちの名簿が揃った。
名簿は汚れている。だが書き込みが多い。現場の癖が詰まっている。
ミレイユは、班長の名前の横に小さな印を付けた。
筆跡が丁寧な者。雑な者。報告が多い者。少ない者。
報告が多い者は、現状を見ている。少ない者は、現状を隠すか、見ていない。
午後、指揮所へ戻る。
アルベルトは地図の前に立っていた。指の先にインクが付いている。夜を越えたまま働いている。
ミレイユは礼をし、報告を始めた。
短く、正確に。
「物資庫。積み方が危険です。崩落の可能性。今、組み替え中。
消耗品は分類が粗く、欠損が見えません。医療品は不足。包帯用布と雑布が混在。
配給は列が長く、炊事班が疲労。順序が曖昧で、弱い者が削れています」
アルベルトの眉が寄る。
「配給の順序が曖昧なのは……慣習だ」
「慣習は、死にます」
ミレイユは淡々と言った。
言った後で、盾の言葉を置く。
「……失礼しました。死者が増えます」
アルベルトは一瞬、口元を歪めた。
笑いではない。苦い現実の表情だ。
「で。どうする」
「……提案ではなく、選択肢を出します」
アルベルトが目を細める。
提案という形だと押し付けになる。選択肢という形だと、指揮官が選べる。指揮官の面子が守られる。面子が守られると、実行されやすい。
ミレイユは紙を一枚置いた。
そこに三つだけ、短い項目。
一、物資庫の分類と配置換え(今日中に完了可能)
二、配給順の固定(班単位、日替わりで先頭を回す)
三、疲労の簡易報告(班長が一行で提出)
アルベルトが紙を見て、黙った。
黙りは理解の時間。
ルーカスが補足する。
「団長、物資庫の危険は本当です。今朝の時点で、上段がずれていました」
アルベルトは短く頷いた。
「一はやれ。二は……反発が出る」
ミレイユは言い返さない。
反発が出るのは当たり前。反発が出るからやらない、は悪循環の維持だ。だが、前線では反発が暴発すると即死に繋がる。順序が必要だ。
「……二は、説明が要ります」
「誰が説明する」
「団長ではなく、班長です。団長が言うと命令になります。班長が言うと現場の調整になります」
アルベルトが息を吐いた。
「……分かった。班長を選べ」
ミレイユは名簿の印を指で示した。
「この三人は、報告が丁寧です。現状を見ています。説得ができます」
アルベルトの目が、ミレイユへ戻る。
追放者が、班長の質まで見抜いている。異質だ。
異質は、危険でもある。だが使える異質は、戦力だ。
「三は」
ミレイユは迷わず答えた。
「やるべきです。ただし、最初は『義務』にしない」
「どういう意味だ」
「提出しない班は、困りごとがあっても助けが来ません。提出する班は、助けが来ます。——そういう形にします」
脅しではない。交換だ。
現場は交換で動く。交換を理解できない者は、現場を壊す。
アルベルトはしばらく黙り、最後に短く言った。
「……お前、軍人か」
その問いは鋭い。
だが、ミレイユは答えない。答えれば、背景が暴露される。暴露されれば政治の匂いが付く。政治の匂いは前線で毒だ。
ミレイユは盾としての言葉を置いた。
「……生き残りたいだけです」
アルベルトの目が揺れた。
生き残りたい、という言葉は本音だ。前線では本音が一番強い。
彼も同じだからだ。
「ルーカス。こいつに、しばらく帳簿を任せる。
ただし、勝手な命令は出させるな。お前が止めろ」
「承知しました」
アルベルトは最後にミレイユへ言った。
「お前が見つけた線、役に立った。——だが、調子に乗るな」
「……承知しました」
「お前が目立てば、王宮も動く。前線は政治の外ではない」
その警告は正しい。
王宮は遠いようで近い。前線で成果を出せば、誰かがそれを利用しようとする。利用は守りにもなるが、同時に首輪にもなる。
ミレイユは一拍置き、短く返した。
「……理解しています」
アルベルトはそれ以上言わず、地図へ戻った。
指揮官は、現実へ戻る。
───
夕刻、物資庫の組み替えが終わり、配給所では班単位の順番が試験的に始まった。
最初は小さな不満が出た。
声が荒くなり、列の中で押し合いが起き、誰かが「追放者の女のせいだ」と吐き捨てた。
ミレイユはその声を聞いても、反応しなかった。反応すれば火がつく。
ルーカスが前に立ち、短い言葉で場を締めた。
「順番だ。今日だけだ。嫌なら団長に言え」
団長の名前は、前線では重い。
不満は飲み込まれ、列が整う。整えば事故が減る。事故が減れば損耗が減る。小さな改善が命を拾う。
夜、部屋に戻ると、リネがすぐ駆け寄った。
「お嬢様……今日、指揮所で……何かありましたか」
「……帳簿を見た」
「帳簿……」
リネの顔が強張る。
帳簿という単語に、王宮での断罪が重なっているのだろう。
ミレイユは、声を柔らかくした。
「……大丈夫。まだ、死んでない」
リネの目に涙が浮かぶ。
その涙は恐怖ではなく、安堵だ。安堵は、人を少しだけ生かす。
その夜、ミレイユは記録帳を開いた。
(悪循環:補給遅れ→病欠→実働減→損耗増→護衛増→さらに補給遅れ)
(介入点:補給の見える化、配給順、疲労報告)
(団長:合理、警戒強いが崩れない優先)
(副官:調整役として機能)
最後に一行。
——前線は、戦闘より先に生活で崩れる。
蝋燭の火が小さく揺れる。
遠くで鍛冶の音が続いている。修繕が終わらない。
それでも、今日一日で、線の回転はほんの少しだけ遅くなった。
遅くなれば、生き残れる者が増える。
生き残れる者が増えれば、次の手順が作れる。
処刑台に送られたはずだった。
だが彼女は、処刑台の上で構造を組み替え始めている。
それが目立てば、誰かが嫌う。
嫌われれば、また殺される。
だから、目立たないまま生かす。
目立たないまま、勝ち続けるための「崩れない」を作る。
ミレイユは蝋燭を吹き消し、息を整えた。
明日は、初めての実戦が近い。帳簿の先にある現実が、こちらへ寄ってきている。




