第10話 『前線着任、騎士団長と遭遇』
馬車の揺れは、王都を離れて三日目あたりから露骨に荒くなった。
舗装された道が途切れ、石と土の境目が曖昧になり、車輪は穴を避けるたびに跳ね、リネの肩が小さく弾む。窓の外に見える景色も、同じように整いを失っていった。農地は途切れ、森は痩せ、草は短く、風だけが強くなる。
ミレイユは揺れに合わせて呼吸を整え、頭の中で距離を数え続けた。行軍の速度、馬の疲労、補給の間隔。地図は持てない。だが、道幅と勾配と川の位置で、今どこを走っているかは推測できる。
追放の形式は「国のために働け」という体裁だった。だが実態は、王宮からの排除だ。死ねと言われた。前線は、そのために用意された処刑台。
その処刑台が近づくほど、馬車の中の空気が重くなった。
リネは言葉が減り、荷を抱えた手に力が入り、時々、何かを言いかけては飲み込んだ。泣きたいのだろう。泣く暇がないのだろう。王宮を出た瞬間から、二人は「生きる手順」だけで動いている。
四日目、空が灰色に沈んだ。
陽が出ていないのに、遠くの雲だけが明るい。寒さの質が変わる。王都の冷えは衣服の隙間から入ってきたが、ここは骨の奥へ刺さってくる。湿り気のない冷え。風が、肌を削る冷え。
馬車が丘を越えた瞬間、景色が一気に開けた。
低い平原の向こうに、黒い線が横たわっている。土塁と柵、見張り台。そこに点々と灯りが揺れ、人の影が動いていた。
国境第二騎士団の前線拠点。
思っていたよりも、ずっと小さい。王宮が語る「防壁」は、石の城壁ではなく、土と木で急造された線だった。強固に見せるための言葉は、ここにはない。あるのは、足りない材料で形を作った痕跡だけだ。
馬車が坂を下り始めると、風に乗って匂いが入ってきた。煙、獣脂、汗、そして血の匂い。嗅ぎ慣れていないはずなのに、胸の奥が静かに反応する。前世の記憶が、ここを「戦場の周辺」と判断している。
門は、門と呼ぶには粗末だった。丸太を組み、鉄の留め具が打たれ、簡素な見張り台が左右にある。衛兵の目は鋭いが、まぶたが重い。眠れていない目だ。槍先の角度も少し低い。疲労が蓄積している。
馬車が止まると、外から荒い声が飛んだ。
「止まれ! 誰だ!」
御者が王宮から渡された書状を掲げ、言葉を返す。衛兵が近づき、封蝋を確かめ、目を細めた。
「……追放者?」
その単語には、露骨な軽蔑が混じる。追放者は、味方でも客でもない。捨て石だ。ここでは誰もがそれを知っている。
ミレイユは馬車の中で、一度だけ息を吸って吐いた。怒りは出ない。屈辱も出ない。出るのは、確認事項だけだ。
(入口:一、見張り台:二)
(衛兵:少ない、疲労あり)
(柵:外側に補強なし、斥候の線が薄い)
馬車の扉が開き、冷気が入り込む。ミレイユは裾を持ち、静かに降りた。足場は泥。乾いているようで、ところどころ深い。踏み外せば転ぶ。転べば笑われる。笑われれば不利が積み上がる。
転ばない。
降りた瞬間、視線が集まる。兵たちの視線は露骨で、遠慮がない。王宮の視線は刃を隠すが、前線の視線は刃を隠さない。露骨な視線の方が、対処が簡単だ。
ミレイユは礼をした。
「ミレイユ・ヴァルディエールです。王都より命令を受け、着任しました」
言葉は丁寧で、声は柔らかい。だが短い。余計な説明をしない。説明は弱点になる。
衛兵が鼻で笑う。
「令嬢さまが? ここへ?」
「命令です」
淡々と返すと、周囲の笑いが一瞬止まった。反応がないと、からかいは空を切る。空を切ると、相手は次の攻撃を探す。だが、この場で次の攻撃に移るほど余裕のある者は少ない。
衛兵の一人が、別の兵に顎で合図した。
「連れて行け。団長へ。……女侍女もだ」
リネが息を呑む。ミレイユはリネの方を見ずに言った。
「……リネ、声を落として。私の半歩後ろ」
「はい……!」
リネは震えを隠し、言われた通りに付いた。半歩後ろ。そこは守りやすい距離だ。
歩きながら、ミレイユは拠点の中を観察した。
兵舎は粗末な木造が多い。屋根は歪み、隙間から風が入る。焚き火が点々とあり、鍋がかけられている。炊事の動線が悪い。水場が遠い。荷車が泥に埋まり、兵が二人がかりで引き出している。馬は痩せ、背が落ちている。蹄の手入れも十分ではない。
遠くに担架が見えた。血で濡れた布。包帯が足りないのか、布切れが巻かれている。呻き声は小さい。痛みで叫ぶ力すら残っていない。
前線は、派手な戦いの場ではない。削れていく場だ。足りないものが、少しずつ人を殺す。
ミレイユは、静かに確信した。
ここは「死んでこい」の命令が、最も自然に実現する場所だ。剣で殺さなくても死ぬ。矢でなくても死ぬ。寒さで、飢えで、感染で、疲労で、判断の遅れで死ぬ。
だからこそ、生き残る手順は「剣」より先に「生活」になる。
案内の兵が、比較的大きな建物の前で止まった。土塁の内側、中心寄り。ここが指揮所らしい。外には見張りが二人。数は少ないが、目はまだ死んでいない。ここだけ空気が少し張っている。
扉を開けると、暖気が流れ出た。中は石造りで、元は小さな砦だったのだろう。壁には地図が貼られ、卓に書類が積まれ、蝋燭が何本も燃えている。紙と鉄と汗の匂い。ここは「戦う頭」が集まる場所だ。
奥の机に、一人の男が立っていた。
背が高い。鎧は軽装だが手入れは行き届き、肩の線が硬い。剣を帯びているのに、握りに頼っていない立ち方。視線が鋭いのに、目の下に濃い影がある。眠れていない目。だが崩れていない目。
机の向こうの男が、こちらを見た。
「……追放の侯爵令嬢、だな」
声は低く、無駄がない。怒っているのか、呆れているのか、その判断が難しい。感情を抑え込んだ声だ。
ミレイユは一歩進み、礼をした。
「ミレイユ・ヴァルディエールです。命令を受け、着任しました」
男は短く名乗った。
「アルベルト・レーヴェン。国境第二騎士団、団長」
公爵家三男——王宮からの書状にそう記されていた名と、目の前の男が重なる。三男という立場は、王宮の中では「使いやすい」。功績を立てても家督は遠い。なら前線で消耗させやすい。だが、その消耗の中で生き残って団長になっている。生存者の匂いがする。
アルベルトは机の上の書状を指で叩いた。
「王宮の連中は、俺に何を押し付けてきたんだ」
その言い方は、ミレイユに怒っているのではない。王宮に怒っている。だが怒りの行き場は、目の前の追放者に向かいやすい。
ミレイユは、盾としての言葉を置いた。
「お忙しいところ、負担を増やして申し訳ありません」
謝罪は、王宮では弱点になる。だがここは王宮ではない。前線では、謝罪は責任の表明として受け取られることがある。相手が合理的なら、なおさら。
アルベルトの眉が僅かに動いた。
「……謝るのか」
「事実です」
短く返すと、男は一瞬だけ息を吐いた。苛立ちが少し削れたように見える。感情ではなく、情報として受け取るタイプだ。
「令嬢がここで何をする。刺繍でもして兵の傷を塞ぐか」
揶揄が混じる。だが、真正面の攻撃だ。王宮のように回りくどくない。
ミレイユは動じず、答えた。
「命令は『補助』です。職務内容の指定はありません」
「だから困るんだ」
アルベルトは机に手をつき、視線を上げた。疲れているのに、相手を見据える圧がある。
「俺は今、人手が足りない。だが、役に立たない人間を抱える余裕もない」
「……確認しても、よろしいでしょうか」
アルベルトが目を細める。
「何だ」
ミレイユは短く並べた。
「私に求める優先順位。
危険度。
私が口を出してよい範囲」
リネが後ろで息を呑む気配がした。軍のような質問だ。令嬢の質問ではない。だが、必要な質問だ。
アルベルトはしばらく黙った。
黙りの間に、彼はミレイユを観察している。服装、姿勢、目線、呼吸。言葉の質。追放者にありがちな怯えがない。悲劇の演技もない。代わりに、淡々と「手順」を求めている。
彼はその違和感を、危険として測っているようだった。
「……口を出すな。まずはそれだ」
「承知しました」
「危険度は高い。ここは前線だ」
「承知しました」
「優先順位は、俺の命令に従うこと。勝手に動かないこと」
「承知しました」
三つとも、正しい。だが、従うだけでは死ぬ。従うだけで死ぬ命令が飛んでくる可能性が高いから、ここにいる。
ミレイユは次の確認をした。
「……私の身分は、どう扱われますか」
アルベルトの口元が僅かに歪む。
「身分?」
「前線では、身分が命に直結します。誰の保護下か。誰の命令系統か」
アルベルトは短く笑った。笑いというより、呆れの吐息だ。
「面倒な頭を持っているな。……王宮は、泣きながら許しを乞う女を送ってくると思っていた」
ミレイユは淡々と答えた。
「泣いても、帰れません」
それだけで、アルベルトの目が一瞬だけ揺れた。
その揺れは、同情ではない。現実に対する理解の揺れだ。彼も、王宮の残酷さを知っている。知っているから、前線にいる。
アルベルトは顎で合図した。
「副官を呼べ」
すぐに扉が開き、若い騎士が入ってきた。細身だが目が鋭い。書類を抱え、袖が少し汚れている。現場の人間だ。
「団長」
「この女が追放の侯爵令嬢、ミレイユだ。……王宮が押し付けてきた」
副官の視線がミレイユに落ち、警戒が走る。だが、すぐに抑え込む。彼もまた感情を制御する人間だ。
アルベルトが言う。
「お前のところに置く。帳簿、伝令の整理、記録、必要なら物資の確認もさせろ。ただし——」
視線がミレイユに刺さる。
「勝手に命令を出すな。兵に直接触れるな。まずは観察に徹しろ」
ミレイユは頷いた。
「承知しました」
副官が名乗った。
「ルーカスです。副官を務めています。——ミレイユ様、こちらへ」
丁寧だが距離がある。距離は正しい。距離を無理に詰めると、疑念が増える。疑念は前線で死を呼ぶ。
ミレイユはもう一度、アルベルトに礼をした。
「配置をいただき、ありがとうございます」
アルベルトは返事をしなかった。
ただ、机の上の地図へ視線を戻した。
忙しいのだ。感情に付き合う暇がない。それもまた前線の現実だ。
指揮所を出ると、ルーカスは足早に歩き始めた。回廊の途中、砦の外側が見える小窓がいくつもある。窓の外に見えるのは土塁と平原と、遠い煙。煙は一つではない。点々とある。戦いが線ではなく、点として散っている証だ。
ルーカスが言った。
「前線は、想像と違ったでしょう」
ミレイユは短く答えた。
「想像より、足りないです」
ルーカスの口元が僅かに引きつった。痛いところを突いたのかもしれない。
「……そうですね。足りません。人も、物も」
「補給は、王都から」
「ええ。しかし道が長い。敵の襲撃もある。天候もある」
言い訳ではない。現実の列挙だ。
ミレイユは、その列挙の中に「構造」を見た。構造は、後で組み替えられる。だが今は、まだ口に出さない。アルベルトに釘を刺された。勝手に動くな。観察に徹しろ。
副官の言葉を、記録として受け取るだけにする。
「……了解しました」
ルーカスが振り向き、少しだけ声を落とした。
「団長は、あなたを嫌っているわけではありません」
「……そうですか」
「王宮が嫌いなんです」
その言葉は、温度があった。前線の人間が共有する嫌悪だ。
ミレイユは頷いた。
「私も、王宮は任務地ではありませんでした」
ルーカスは一瞬、驚いた顔をした。
任務地、という言葉が令嬢の口から出るのは異質だ。
「……あなたは」
ミレイユは説明しなかった。説明は敵を増やす。今は信用がない。信用がない場では、情報を出さない。
ルーカスも、それ以上は踏み込まなかった。踏み込まない判断ができる人間は、前線で生き残る。
案内されたのは、砦の内側の小さな部屋だった。石の壁。窓は小さい。ベッドが二つ。机が一つ。灯りは蝋燭一本。兵舎よりはましだが、王宮の居室とは比べようもない。
リネが部屋を見て、唇を噛んだ。
泣きそうだ。だが泣くより先に動く。荷を置き、布を敷き、冷えを防ぐ準備を始める。彼女もまた、ここに来てから手順で動いている。
ルーカスが言った。
「ここが、あなた方の部屋です。……明日から、仕事に入ってもらいます。今日は休んでください」
ミレイユは礼をし、短く言う。
「ありがとうございます。——確認を一つ」
ルーカスが肩をすくめる。
「何でしょう」
「勤務開始の時刻。
食事の配給。
水場の場所。
緊急時の集合地点」
ルーカスは一瞬固まってから、苦笑した。
「……随分と、手順がお好きなようで」
「手順がないと、人は死にます」
淡々と言うと、ルーカスの笑みが消えた。
前線の人間は、その言葉の重さを知っている。
彼は真面目に答えた。
「勤務開始は日の出。食事は炊事場で配給。水場は内側の井戸。緊急時は指揮所前の広場です。——ただし、騒乱が起きたら命令に従ってください」
「承知しました」
ルーカスが去ると、部屋は静かになった。
静かだが、完全な静けさではない。外からは風の音、遠い鍛冶の音、時々、兵の咳。咳が多い。乾いた咳。寒さと疲労の咳だ。
リネが堪えていた声を絞り出した。
「お嬢様……本当に、ここで……」
ミレイユは荷を最小限にまとめ直しながら答えた。
「……ここで生きる」
「でも……前線は……」
「……前線だから」
リネの目が揺れる。意味が分からないのではない。意味が分かりすぎるから揺れる。
ミレイユは机の上に記録帳を置いた。王宮から持ち出した薄い紙束。これが今、唯一の武器だ。剣より先に使える武器。
(拠点:即席、欠乏、疲労蓄積)
(団長:アルベルト・レーヴェン、合理、怒りは王宮へ)
(副官:ルーカス、現場理解、距離感良)
(自分:命令系統=副官配下、権限なし)
書きながら、ミレイユは外の音を聞く。風の向こうに、鈍い音が混じった。遠い衝撃。地面に響く低い音。何かが落ちたような音。攻城兵器か、投石か、それとも遠方での小競り合いか。
戦いは、近くにある。
リネが小さく肩を震わせた。聞こえたのだろう。
ミレイユは息を整え、リネに言った。
「……今夜は、眠る。眠れないなら、目を閉じるだけでいい」
「眠れますか……?」
「眠る。体力がないと、判断が鈍る」
リネは頷いた。泣きそうな顔のまま、頷いた。
夜、簡素な食事が配給された。固いパン、薄いスープ、塩。王宮の味を思い出す余裕はない。ミレイユは必要量を食べ、水を飲み、胃が落ち着くのを待った。食べられる時に食べる。これも手順だ。
寝具は薄い。冷えが背中から上がってくる。
ミレイユは服を一枚追加で着込み、足元に荷を置いて風を遮った。リネも同じようにする。二人とも、王宮の時より動きが無駄なくなっていた。
灯りを消す直前、扉の外で足音が止まった。
ノックが二つ。短い。規則的。
リネが身を起こすが、ミレイユが小さく手で制した。焦るな。音を立てるな。
扉が少し開き、ルーカスが顔を覗かせた。
「……ミレイユ様。団長から伝言です」
「……はい」
ルーカスは声を落とした。
「明朝、指揮所へ。帳簿を見せる。——ただし、口出しはするな。見るだけだ」
アルベルトの言葉は、釘を刺す形で届く。
釘を刺すのは、恐れているからだ。追放者が前線で何かを変えることを恐れているのではない。追放者が“厄介事”を持ち込むことを恐れている。
それは当然だ。前線は余裕がない。
ミレイユは短く答えた。
「……承知しました」
ルーカスが扉を閉め、足音が遠ざかる。
リネが囁く。
「明日……帳簿……」
「……見るだけ」
「でも、お嬢様は……見たら……」
リネは続けられなかった。
見たら気づく。気づいたら動く。ミレイユを知っていれば、その先が分かる。
ミレイユは、暗闇の中で天井を見つめた。石の天井は冷たく、蝋燭の匂いが薄く残っている。
「動くのは、許可が出てから」
そう言いながらも、胸の奥では別の声が静かに囁く。
許可が出るまで待っていたら、兵が死ぬ。
兵が死ねば、前線が崩れる。
前線が崩れれば、自分も死ぬ。
生き残るために、他人を生かす必要がある。
前世で学んだ、厄介で確かな法則。
ミレイユは目を閉じた。
遠くでまた衝撃音がした。続けて、短い笛の音。見張りの合図だ。夜はまだ浅いのに、もう何かが起きている。
処刑台に送られた。
だから、ここで死ぬはずだった。
だが彼女は、静かに決めている。
死なない。ここで生き残る。生き残って、帰る。帰って、王宮が捨てたものを突きつける。
そのためにまず、明朝、帳簿を見る。
見るだけで、終わらせないために。




