第1話 『配置転換:死亡→侯爵令嬢』
この物語は、戦場で剣を振るう英雄の話ではありません。
前線に送られた一人の令嬢が、「どうすれば生きて帰れるか」を考え続ける話です。
元は陸上自衛隊の幹部だった彼女は、
異世界でも特別な力を得ることなく、
ただ知識と経験と習慣を頼りに、淡々と仕事をしていきます。
派手な無双はありません。
ざまぁも静かです。
恋も、ずっと後から気づきます。
それでも、
誰かが生き残る戦争を作ることはできる。
その積み重ねが、やがて世界を動かす。
そんな「少し現実寄りの戦記」と、
控えめなラブコメを、気楽に読んでいただけたら嬉しいです。
雨は、音を立てずに降っていた。
車窓を伝う水滴が、街灯の光を細く歪めていく。ワイパーが規則的に往復し、視界の端でそれを淡々と数えている自分に気づいた。
相馬美玲、二佐。
自分の所属も役職も、今夜の運転席には関係がない。官舎へ戻るだけの、ただの帰路だ。会議は長引き、最後の質疑で妙に粘る者がいて、予定より四十分遅れた。遅れたからといって、誰かが死ぬわけではない。——本来は。
信号は青。速度は抑えている。路面は濡れている。停止距離は伸びる。歩行者の傘の角度。横断歩道の端で立ち止まる老人。対向車のライトの高さ。交差点の死角。視線は自然に動き、確認は反射で済む。
ふと、左前方の路肩が乱れた。
黒い車体。ハザードが点かない。停止しているのか、動いているのか、雨で輪郭が曖昧だった。次の瞬間、そこから人影が飛び出した。傘が煽られて、身体が車道側へ傾く。
ブレーキ。
ハンドル。
「——」
声にならない声が喉で潰れる。避ける。止める。ぶつけない。頭の中で手順が同時に走り、身体は一つだけを選ぶ。制動は間に合う。だが、間に合ったからこそ、別の危険が生まれる。
後ろだ。
ミラーに映る光が、一つではない。
異様に近い。異様に速い。
追突——。
衝撃は予想していた。予想より大きかった。
車体が押し出される。ハンドルが切れ、世界が横に滑る。ガードレールの冷たい音。骨ではなく金属が悲鳴を上げる。空気が裂ける。胸に圧が来て、肺が潰れた。
人影は、助かった。
そこだけは確かだった。
その確かさの裏で、自分の身体はもう、手順ではどうにもならない場所へ落ちていく。雨音が遠ざかり、代わりに耳鳴りが満ちる。視界が白く滲み、灯りが溶けた。
終わりだ、と理解した。
恐怖はない。
驚きもない。
ただ、報告書の最後の一行を書くときのような、乾いた確信がある。
「……終わりか」
口は動いたはずなのに、声が出た感触はない。
視界の端で、誰かが叫んでいる。救急車のサイレンが重なってくる。だが音の層が薄くなり、遠い場所の出来事になっていった。
思ったのは、家族のことではなかった。
私には、いない。
思ったのは、部下のことでもなかった。
彼らは、私がいなくても回る。回るように、作ってきた。
思ったのは、紙の束のことだった。
机に残した資料。引き継ぎのメモ。未確認の数字。明日以降の会議。——やり残し。
そして、最後にひとつだけ。
本当に、これで良かったのか。
「生きる」ことを、どこかで後回しにしすぎたのではないか。
その問いは、答えを出す前に沈んだ。
世界が暗くなる。暗いというより、色が消える。重さも温度も、輪郭も、遠い。
——そこで、終わるはずだった。
───
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
薬草のような、甘いような、わずかに土を含んだ香り。
次に、布の感触。柔らかい。軍の毛布よりはるかに軽い。
そして、遠くから声が聞こえる。女の声。慌てた響き。知らない言葉ではない。だが、知っている日本語とも違う。
「……?」
目を開けようとした。
開いた。
天井が高い。白い漆喰。木の梁。壁際に揺れる燭台の灯。
室内は薄暗く、しかし整っている。病室の無機質さではない。生活の匂いがする。
視線を動かそうとして、首が軽すぎることに気づいた。
身体が小さい。肩幅が狭い。腕が短い。手が、幼い。
布団の上で、右手を持ち上げる。
指が細い。爪が小さい。皮膚は透けるほど白い。
一拍遅れて、喉がひゅっと鳴った。
私は——死んだはずだ。
なのに、息をしている。
理解は遅れなかった。
軍隊の訓練では、理解が遅い者から崩れる。自分は、崩れない側にいる。そこだけは変わらない。変えない。
状況確認。
場所、時刻、身体、周囲の人間、危険の有無。
部屋の扉が開き、女性が飛び込んできた。二十代後半くらい。メイド服に似た衣装。髪をきっちりまとめている。顔色が青い。
彼女はベッドへ駆け寄り、息を呑んだ。
「お嬢様……! お目覚めに……!」
お嬢様。
そう呼ばれた。
女性の背後から、さらに二人。年上の女と、白い髭を生やした男。医師だろう。男は目を細め、こちらの瞳孔を覗き込む。
「意識は戻りましたか。痛むところは?」
言葉は理解できた。
不思議なくらい自然に、意味が頭へ入ってくる。翻訳されるのではない。最初から知っているように感じる。
私は唇を動かした。声帯が小さい。息が軽い。
それでも言葉は出せる。
「……水を」
自分の声に、自分が一瞬だけ驚いた。
幼い。細い。だが、落ち着いている。落ち着かせた。
メイドが慌てて水差しを探し、医師が手で制した。
「少しずつ。喉を刺激しないように」
小さなカップが唇に当てられ、ぬるい水が流れ込む。
水が喉を通る感覚が、現実を確定させる。
生きている。
ここにいる。
医師は脈を取り、瞼を開け、額に触れた。
「熱は下がりました。意識も明瞭です。……お名前は言えますか」
お名前。
ここで求められているのは、自分が“誰”として存在しているかだ。
相馬美玲、と言えば通じない。
だが、口の奥から自然に別の名が浮かんだ。体が覚えている名。周囲がそれを待っている名。
「……ミレイユ」
医師が頷く。
「よろしい。ミレイユお嬢様。ここはご自室です。覚えていますか」
覚えていない。
だが、嘘はつかない。短く答える。
「……いまは、まだ」
メイドが息を呑む。
年上の女——乳母のような立ち位置だろうか——が、目に涙を溜める。
「お可哀想に……。高熱で三日も……」
三日。
高熱。
つまりこの身体は、直前まで瀕死だった可能性がある。事故の衝撃で死んだはずの私は、別の死にかけの身体へ入ったのか。あるいは、魂の移行というやつか。
「お父上に知らせなければ」
メイドが走ろうとし、乳母が止める。「まずは医師の指示を」
医師は淡々と告げた。
「大事を取りましょう。今日は会話は控えめに。刺激を避け、休養を」
刺激を避ける。休養。正しい。
今の自分は情報が足りない。体力もない。無理をしても利点がない。
私は、ゆっくり頷いた。
「……わかりました」
その一言で、部屋の空気が少し緩んだ。
周囲は“令嬢らしい反応”——泣く、怒る、怖がる——を想定していたのだろう。だが、私はそうしない。そうできないわけではない。ただ、優先順位が違う。
医師と乳母が退出し、メイドだけが残った。
彼女はベッド脇に座り込み、安堵した顔で胸を押さえた。
「本当に、よかった……。ミレイユお嬢様が目を覚まされなかったら、奥様が……」
奥様。
母親がいる。父親もいる。家がある。ここでの私は“侯爵令嬢”らしい。
「……ここは、どこ」
短く問うと、メイドははっとした。
「こちらはヴァルディエール侯爵家の屋敷でございます。お嬢様のお部屋です」
ヴァルディエール。
それも、喉の奥で馴染んだ。名前の重みが身体に合う。記憶の欠片が、薄い霧のように漂い始める。庭の匂い。長い廊下。講師の声。書斎の静けさ。——断片。まだ繋がらない。
「……私、いま何歳」
問う声は、我ながら落ち着きすぎていた。
メイドが目を丸くする。
「六歳でございます。先月、お誕生日を……」
六歳。
自分が四十代で死んで、六歳に。
笑うべきか、泣くべきか。どちらでもない。これは“状況”だ。状況は変わらない。変えられるのは行動だけ。
私は天井を見た。
薄暗い灯りの下で、梁の影が静かに伸びている。
——もう一度、生きる。
この身体で。ここで。
だが生きるとは、ただ息をすることではない。
環境に適応し、危険を避け、必要な時に必要な判断を下し、守るべきものを守ることだ。私にとっての生き方は、そういう構造でできている。
「……ありがとう。水、もう少し」
メイドが慌てて頷き、カップを持ち上げた。
私は少しずつ飲む。喉が落ち着く。頭が冴える。体温がわかる。筋肉量が少ない。心拍が早い。呼吸は浅い。——小さな身体だ。今のままでは走れない。戦えない。守れない。
いや。戦う必要は、まだない。
だが、必要になった時に動けないのは致命的だ。
訓練は、続ける。
装備がなくてもできる。体一つあればできる。呼吸と姿勢と筋肉の使い方は、裏切らない。
メイドが水を置き、布団を整えながら言った。
「お嬢様、どうか今日はお休みくださいませ。目を覚まされたばかりで……」
その言葉に、私は頷いた。
休むのは正しい。回復が優先だ。
ただ、休む前に一つだけ確認したかった。
「……明日の朝、窓を開けて。空気が欲しい」
メイドは一瞬きょとんとし、すぐに笑みを作った。
「かしこまりました。お嬢様は外の空気がお好きでしたものね」
好きだったのか。
“ミレイユ”の嗜好が、少しずつ私の中へ落ちてくる。外の空気。庭。朝。そうだ、朝は——。
私は、眠気が来る前に呟いた。
「……早起き、します」
「はい?」
「……朝。早い方が、いい」
メイドは優しく頷き、子どもをあやすような声で言った。
「ええ、ええ。お嬢様のお好きなように。ですが、無理はなさらず」
無理はしない。
無理をしないために、習慣を作る。
目を閉じると、暗闇の中で二つの名前が重なった。
相馬美玲。
ミレイユ・ヴァルディエール。
どちらも私だ。
どちらも、もう“戻らない”。
なら、進むだけだ。
——この世界での任務は、まだ与えられていない。
だが私は、待たない。
明日の朝、まず呼吸から始めよう。
姿勢を整える。体を起こす。歩く。走る。鍛える。
六歳の身体で、六歳なりに。
眠りに落ちる直前、胸の奥に、奇妙な静けさが広がった。
死んだはずの自分が、また息をしている。理屈はわからない。だが、理屈がなくても生きられる。
最後に、短い結論だけを自分に言い聞かせた。
「……生存、優先」
それが私の、第二の人生の最初の命令だった。




