医療革命
2100年。空には無数の車が飛び交っている。世界は高度な技術社会だが、医療だけは中世で止まっていた。
病は恥とされ、原因の探求は禁忌だった。『無知は力なり』。それが医療におけるスローガンだったのだ。治療とは魔術儀式のことで、医師免許を持つ魔術師たちは善意で患者を死に至らしめていた。
そして、誰もが恐怖する禁句があった。
「細菌」
その言葉は、この理知的な社会が唯一パニックを起こす呪文だった。
富裕層だけが密かに本物の医療を享受する世界。その片隅に、正義の「ヤブ医者」がいた。彼女の名はエリアナ。
5年前、母イザベラは些細な傷がもとで死んだ。高熱と痙攣に苦しむ母を前に、幼いエリアナは禁書で読んだ言葉を口にしかけた。
「これは…きっと、細…」
父ディエゴが、血相を変えて娘の口を塞いだ。
「エリアナ!その言葉を口にするな!」
周囲の大人たちは、呪いを聞いたかのように顔を青ざめさせた。
呼ばれた魔術師シャンカールは、星を占い、トカゲの粉を傷に塗り込んだ。母は苦しみ抜いて、死んだ。破傷風だった。
その日、エリアナは誓った。この歪んだ世界で、人々を救う「ヤブ医者」になろう、と。
宇宙船乗りのラジーブが、息子のアミルを抱いてエリアナの隠れ家に駆け込んできた。少年は肺炎だった。
「病を知られるのが怖くて…」
とラジーブは呟いた。エリアナは頷き、アルコールで手を清めると、決意を込めて告げた。
「原因は細菌よ。」
その瞬間、ラジーブの顔が恐怖に凍りついた。
「先生!その言葉は…!」
彼は悪魔の名を聞いたかのように狼狽した。
「大丈夫。これは呪いじゃない」
エリアナはそう言うと、闇市場で手に入れた抗生物質を「浄化の秘薬」と偽ってアミルに飲ませた。
アミルの回復は噂となり、この地域を支配する魔術師リュウの耳に入った。
『無知は力なり』の秩序を乱すヤブ医者を、リュウは断罪することに決めた。
嵐の夜、リュウが医療執行官を率いて現れた。
「見つけたぞ、魔術の冒涜者よ!」
だが、ラジーブをはじめ、エリアナに救われた人々が彼女を守ろうと立ちはだかった。
「この人はヤブ医者じゃない!」
リュウは嘲笑した。
「愚かな民衆め。お前たちは魔女に騙されているのだ!」
その言葉に、エリアナは一歩前に出た。そして禁断の言葉を、はっきりと叫んだ。
「病は、細菌の仕業よ!」
『細菌』――その言葉が響き渡った瞬間、人々から悲鳴が上がった。何人かはその場にへたり込み、震えながら耳を塞いだ。
リュウは民衆のパニックを見て勝ち誇ったように命じた。
「見よ!この女は禁句を操る!捕らえよ!」
エリアナは腕を掴まれ、あっという間に取り押さえられた。
その後のエリアナの運命を知る者はいない。処刑されたとも、どこかの星に生き延びて「ヤブ医者」を続けているとも言われている。
しかし、確かなことが一つだけあった。
『無知は力なり』という絶対のスローガンに、ひびが入ったのだ。
エリアナの蒔いた種は、いま、芽吹き始めていた。それは、いつか必ず光を取り戻すための、小さく、しかし決して消えることのない狼煙だった。