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過去――5

 外に出ると、夏特有の体にまとわりついてくるようなぬるい風が吹いていた。夏は苦手だ。

 スマー卜フォンで時刻を確認すると、十八時前だった。空はまだ明るい。空には月が出ている。空の色は絵の具のオレンジを原色のまま用紙に塗りたくったような色をしている。

 彼女はどこに行ったのだろうか。ぼくは彼女の機嫌を損ねてしまったのかもしれないと思って、さきほどまでの話はなかったことになったのだろう、と思い直していた。

 辺りを見回しても、彼女の姿はない。やっぱり、冷やかしだったのだろう。そう思い始めたときだった。

 彼女の姿を駐車場の隅にある自動販売機の近くに認めた。

 彼女は壁に背を預けて、何かを飲んでいるようだ。カフェのコーヒーは残したのに。

 ぼくは車に注意しながら彼女のもとに小走りで向かった。

 彼女がぼくに気づくと、彼女は苦笑いを浮かべた。ぼくは彼女に向けて、軽く手を上げて応える。

「大丈夫?」

「どうかな」

 彼女は、ぼくから視線を逸らして言った。

「いったい、どうしたの?」

「健に言っておかないといけないことがあるの。きっと驚くだろうけど」

「なんだろう?」

 ぼくの心臓がドクンと脈打つ。

「あっ、詩集、買ったんだね。その詩集に関係あることなんだ」

「えっ?」

「私の兄なの。リバースのボーカルの亮……。まあ、兄と言っても血縁関係はないんだけどね。義理の兄……」

「えっ?」

 ぼくは、もう一度反応をした。だが、先ほどとは違って、少しだけ声が裏返った。動揺を悟られないように言葉を紡ごうとしたが、彼女にはそんなことはお見通しだろう。

「驚いたよね。健には、知っていてほしいと思ったんだ。誰にもいってないんだけどね」

 彼女はそう言うと目を伏せた。睫毛が長く太いので目元に影ができる。

「ぼくに言って大丈夫なの? まだ知り合ったばかりなのに」

「うん。健は信用できるって感じているから。大丈夫だよ。それより、こんな話をいきなりされて信じるの? 新手の詐欺かもしれないよ」

「それはそうだけど、ぼくからだまし取れるものなんてなにもないから」

「ふーん、健は卑屈なのね」

「そうかもしれない・・・・・・」

「それじゃあ、健の歌詞、たのしみにしてくるから」

 彼女はぼくを真っ直ぐに見て言った。

 ぼくは思わず視線を逸らしそうになる。でも、逸らさなかった。ここで視線を逸らせば、彼女の期待に背いてしまうことになると思ったからだ。

「がんばってみるよ」

ぼくは今言える精一杯の言葉を彼女に言った。

「じゃあ、またね」

「あっ、次はどこで?」

 ぼくがそう訊くと、彼女は、うーん、と考えるような仕草をして言った。

 毎回、カフェを使うとお金がかかるので、彼女はとある公園の名前を口にした。その公園はぼくも知っている公園だった。自宅からは自転車で十分とかからない距離にある。

 ぼくは、その公園で問題ない、と返事をした。

 すると、彼女は、ごめんね、と突然言った。

 どうして謝るの? ぼくがそう訊くと、彼女は、本当は連絡先を教えたいんだけど、と言った。本当に悪いことをした、というような顔をして。

 ぼくは口約束だけでも十分だと思っていたので、彼女のそんな表情を見て心が少し痛んだ。

「ちょっと事情があってね」

 彼女は呟くように言った。

「気にしないで。その公園なら自宅から近いし、何度か行ったことあるから」

「それならよかった」

 彼女が言った。

 それから、次に会う日時を決めて、彼女は帰路についた。

 ぼくは彼女の姿が見えなくなるまで、視線を定めず、漠然と彼女とオレンジ色に染まった空を見ていた。

 彼女の姿がぼくの視線から完全に消えて、ぼくは自動販売機でブラックコーヒーを初めて買った。

 初めて飲んだブラックコーヒーの味は、思ったよりも悪くはなかった。だが、もう二度とブラックコーヒーを飲むことはないだろうとも思った。

 ぼくは半分以上残ったブラックコーヒーを捨てて、ため息をひとつ吐いた。

 これから何か大きなことが始まりそうな予感がする。

 心は今まで感じたことがないほどに弾んでいたが、彼女の陰のある表情が頭から離れなかった。

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