表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

過去――4

「プロの歌手……」

 ぼくは漠然とつぶやく。彼女にはそのつぶやきは聞こえていたようで、すぐに反応があった。

「そうよ。プロの歌手。必ずなるの。夢じゃないわよ。目標。夢なんて、眠っているときにだけみればじゅうぶんよ」

「なれないときのことは考えないの?」

「ええ、もちろん。必ずなってみせるから。健は私には無理だと思うの?」

「無理かどうかはわからない。ただ、君なら、なれそうな気がする。でも、ぼくの言うことなんて当てにしないほうがいいよ」

「ううん、そう言ってもらえるだけでも、うれしい。でも、まだ歌を聴かせていないから、ほんとのところはわからないよね。ねえ、今度、お互いに発表しあわない? 健は歌詞を。私は歌を」

「えっ、でも。ぼくの歌詞は他人に見せられるようなものではないんだよ。ほんとに。ただの落書きみたいなもんだよ」

「もう、うじうじして。こんなかわいい子がお願いしてるのになあ」

 彼女はそう言うと、上目遣いで、ぼくを見つめてきた。ぼくの心臓が思わず跳ね上がる。確かに彼女は可愛い部類に入る女の子だろう。綺麗な二重に強気な性格をそのまま表したような上向きの長い睫毛。小さな顎に、それぞれのパーツが嫌みな主張なくバランス良く正しい位置に配置されている。

 ぼくは数秒間も彼女の視線を受け止めることができなかった。

 彼女はそれを面白がってか、椅子から体を乗り出し、ぼくの視線の先に自分の顔を持ってくる。それから、様々な表情をして、ぼくを追い詰めてくる。

 ぼくは少し意地を張ってみた。彼女のペースに振り回されるのは決して嫌ではなかったが、ぼくなりの小さな反抗を試みることにした。

 ぼくは彼女の視線から逃亡することをやめた。思い切って、目を閉じたのだ。両拳も握りしめ膝の上に置く。彼女の存在を視界から消し去った。

 すると、ふーん、とだけ彼女が言った。

 次は彼女が困る番だ。ぼくは聴覚を頼りに彼女の動きを読もうとした。 

 だが、彼女はぼくの想像を上回る行動に出る。椅子を引く音がした。目の前から彼女の気配が消えた。

 そう思った次の瞬間。

 鼻腔を甘い香りが通過していった。彼女はぼくのすぐそばまで来ていた。

 それから、耳元で、お願い、とだけ言った。

 ぼくは椅子から飛び上がりそうなほど驚いた。思わず、目も開く。

 彼女は、ぼくの右側に中腰の姿勢で、小首を傾げている。薄い唇の片方だけを上げて。思い切り勝ち誇った表情をして。

 お手上げだった。ぼくは首を左右に振り降参の意志を示す。

 すると、彼女は、それでいいのよ、といわんばかりに大きく頷いた。

 茶番に過ぎないことだった。だが、ぼくはどこかで満足していた。彼女に相手にされていることに。

「わかったよ。ひとつだけ、条件を出してもいい?」

「なにかしら?」

 彼女は、女優にでもなったかのような口調で、そう言った。

「君の歌を先に聴かせて。それが条件」

「もちろん。じゃあ、いつにする?」

 彼女のペースは変わらない。彼女は今までも、こうして生きてきたのだろうか。いつも、他人の顔色を窺って生きてきたぼくにはとうてい真似できそうにない。

「そうだね。平日は学校があるし、土曜日か日曜日はどうかな?」

 ぼくは同じ学生なら、土日が一番都合がよいのではないかと思い、気軽に提案したつもりだった。だが、彼女の顔を見ると、急に表情が曇ってしまった。

 ぼくは心配になり、彼女に訊ねる。

「どうしたの? 大丈夫?」

「……ごめん、土日はダメなの。ちょっと外せない用事があってね……。私から言い出したことなのにほんとうにごめんなさい」

 彼女は深く頭を下げて言った。ぼくは彼女の突然の変化についていけず、思わず目をしばたかせる。

「そんなに謝らないでよ。土日がダメなら、学校が終わった後でも大丈夫だから」

「ありがとう。その方が助かる」

 彼女は弱々しい表情をして言った。

「うん、ぼくはかまわないんだけど」

 彼女の表情と土日の用事が気になった。だが、これ以上は追求していけないような気がして、ぼくは口を噤んだ。

「じゃあ、今日はそろそろ帰りましょうか」

 沈んだ表情のまま、彼女は言った。それから、立ち上がり、ため息をひとつ吐いた。

「う、うん。そうだね」

 ぼくと彼女のドリンクは、氷がすべて溶け、薄くなっていた。そんなドリンクを彼女は一気に飲み干す。

 ぼくは薄くなったドリンクは苦手だったので、残すことに罪悪感を抱きつつ、ごめんなさい、と小さな声で言った。

 彼女はそんなぼくのことを見ていたようで、えらいわね、とだけ言い、出口に向かいあるき始める。彼女は早くこの場所から立ち去りたいようにぼくには感じた。やはり、何か気に触ることを言ってしまったのだろうか。

 ぼくは慌てて残ったドリンクを片付け、手に持ったままだった詩集を購入して、彼女の後を追った。

 店内には、まだ入店したときと同じアイドルグループの曲が流れていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ