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過去――1

 ぼくが天野美音と出会ったのは、桜の花びらが春の柔らかな風に乗って、気持ちよさそうに虚空を舞っている季節だった。

 彼女との出会いがなければ、今のぼくは存在していない。それほどに、彼女の存在は、ぼくに大きな影響を与えた。それは、揺るぎようのない事実だ。

 あの春の出会いは、ぼくにとって、あまりにも衝撃的なものだった。

 そのとき、書店内では、隣接しているCDショップから、デビューしたばかりの女性アイドルグループの曲が流れていた。そのアイドルグループは、テレビのオーディション番組から生まれたグループで、デビュー前からの過程をドキュメンタリー風に追っていったのが好評を得て、瞬く間にトップアーティストの仲間入りを果たした。

 だが、ぼくは既存のアイドルグループと大差がないように感じた。甘ったるい声に、どこかで聴いたことのあるようなメロディと歌詞。特に差別化が図ってあるようには感じられなかったからだ。

 ぼくはパーカーのポケットから有線のイヤフォンを取り出し、スマートフォンに繋いだ。毎日聴いているアーティストの大好きな一曲をリピート設定にした。

 DEEP in BLACKのバース・デイ。

 ぼくにとって、このアーティストのこの曲は、どんなときでも気持ちを駆り立ててくれる。初めて聴いたときの衝撃は凄まじいものだった。心どころか魂までも揺さぶられたような気がした。今でもそのときの衝撃を忘れることはない。

 これで落ち着いて、今日の目的を果たせそうだ。

 当時、ネタ集めのために、この書店にはほとんど毎日と言っていいほど顔を出していた。ただ、CDショップから流れてくる音楽の音量が気になっていた。そこだけが難点だった。

 ネタとは詩を書くためのネタだ。ぼくは密かに詩を書いていた。本当に誰にも知らせずに。母親でさえ気づいていなかっただろう。

 ぼくは迷うことなくあるコーナーに向かった。音楽雑誌が陳列してあるコーナーに。この書店の配列は頭に入っている。そのコーナーは今を煌めく様々な有名アーティストが表情を決め表紙を飾っている。 

 目的は、ロックバンド・DEEP in BLACKのボーカル担当のRYOが出した詩集の試し読みだった。そのバンドは、知名度こそまだ全国区ではないが、確実に熱狂的なファンを獲得して、ブレイク寸前のバンドだ。

 メロディの良さもさることながら、何よりもファンから評価されていたのは、ボーカルのRYOが自ら手掛ける歌詞だった。

 ぼくもその歌詞の虜になった一人だ。

 詩集の発売が告知されてから、発売日を心待ちにしていた。

 詩集は二冊、入荷されていた。ぼくは逸る気持ちを抑え、詩集を手に取ろうとした。

 ふいに、左耳から音が消えた。

 とっさに首だけ左にひねる。制服を着た少女がイヤフォンを手にして微笑んでいる。制服は地域でも有数の女子校のものだった。

 ぼくは瞬時に状況が理解できなかった。目をしばたかせる。

 彼女は細い首を傾げ、なにか問題でも、というような顔をしている。

 ぼくは呆気にとられ、言葉を発することができなかった。見かねたように彼女が先に言葉を発した。


「かりるわよ」

 一言だけ。


 彼女はそう言うと、さっきまでぼくの左耳にすっぽり収まっていたイヤフォンを、何の躊躇いもなく自分の右耳に収めた。


「あの」

 ぼくは息を吐き言った。


 ぼくなりに勇気を出して。だが、その勇気は無駄に終わった。ぼくの声は彼女に全く届いていたかったからだ。

 彼女はすでに自分の世界に入り込み、リズムに乗っていた。

 ぼくはもう一度息を吐いた。今度はさっきより深く長く。

 横目で何度か彼女を見た。直視していないのではっきりとは分からなかったが、彼女はとても華奢で小柄な女子だった。

 このままの状態は気まずい。距離が近い。だが、イヤフォンを取り返す勇気は出ない。

 仕方なく、現状維持のまま、ぼくは詩集を読み始めた。周りの目が気にはなったが。

 詩集の装丁はシンプルだった。バンドのイメージカラーである黒を基調にして、帯も明度の違う黒だった。帯には過剰な惹句は何一つ書かれていない。

 読み始めてすぐ、ぼくの心は熱くなった。言葉が生きているようだった。比喩でなく本当に。言葉が意志を持っているように感じた。

 一語一句が胸の奥底にある近しい人たちにですら触れられたくない場所まで、てらいなく迷いなく遠慮もなく入り込んでくる。

 難しい言葉は何一つ使っていないのに、言葉が大きなうねりとなって。

 最後のページをめくるまでにそれほど時間はかからなかった。

 即決。購入することにした。

 早く自宅に戻り、もう一度ゆっくり読み返したい。

 そのためには、解決しなければいけない問題がある。

 横目でちらりと彼女を見やる。自分の世界に入り込んだままだ。

 ぼくはなけなしの勇気を出すことにした。詩集を早く読み返したい気持ちが勝ったのだ。イヤフォンから流れる曲がサビに入る直前。その勢いにも頼って。

 心を奮い立たせ、首だけでなく全身を彼女の方に向けた。

 互いのイヤフォンが耳から外れる。イヤフォンは床に落ちると微かな音を立てた。

 音が消えた。

 ぼくは暗闇のトンネルの中で、唯一頼りにしていたろうそくの火が消え、真の暗闇に陥った感覚になった。

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