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現在②―2

 病室に備え付けてあるものしかない印象だ。目についたものといえば、ベッド脇のテーブルに、ぽつんと置いてある写真立てぐらいだ。

 彼女は色味の薄い世界で静かに眠っていた。

 ぼくは備え付けの椅子に腰を下ろす。

 しばらくの間、彼女の眠っている姿を、ぼんやりと眺めた。

 彼女は二年間のほとんどの時間を眠りに費やしているせいか、最後に会ったときの印象とは少しだけ変わったように感じる。だが、彼女を形作るものは何も変わっていないし、何ひとつ損なわれていない。

 眠っていても、彼女のまつ毛の長さや、艶のある黒髪。そして、雪を想起させるような白い肌。それらを見ただけで、ぼくの体温は一瞬で上昇した。


「久しぶりだね。天野さん」

 ぼくの声が届いているか分からないが、ぼくは彼女の名前を呼んだ。


「今も聴いているよ。三人で作った曲。毎日、必ず聴いている」

 ぼくはそう言うと、椅子から立ち上がり、さきほどの写真を手に取った。


 透明な写真立てに収められているそれは、三人の人物が写っている。ぼくと彼女と親友の大峰海斗の三人。写真を撮ってくれたのは菅本さんだ。

 三人とも、それぞれが違う表情をしている。

 海斗が彼女の肩に腕を回して、それに照れた彼女はほんのり頬を赤くしている。僕はというと、驚いた様子で目を丸くして、そんな二人を見ていた。その瞬間が写真に切り取られていた。 

 ふいに視界の隅を何かが掠めた。ぼくはその何かに視線を合わせた。

 どこから入ってきたのか、見たこともないような色をした蝶だった。蝶の放つ輝きは、その蝶が持つ生命そのものに感じた。

 ぼくは病室の中を優雅に華麗にひらりひらりと飛び回る蝶に目を奪われた。

 吸いつくように蝶の動きを目で追っていると、窓際で羽根を休め始めたので、ぼくは窓を開けて蝶を元の自由な世界に放とうとした。

 蝶は外の世界に吸い込まれるように自然と羽ばたいていった。


「来てくれたんだね」


 ぼくは視線を外の世界から彼女に移した。


「うん」


「ありがとう、健。また眠りについてしまうから、お願いを聞いてほしいの。私を助けて」


「ぼくにできるかな……」

 ぼくは視線をさまよわせて言った。


「大丈夫。健なら」


「どうして、天野さんは、そんなにぼくなんかのことを……」


「信用しているし、信頼してるよ。わたしは。健とは、いろんな経験をしたもん」

 彼女は儚げな微笑みを浮かべて言った。


 そんな彼女を見て、ぼくの胸は急激に締めつけられた。


「できる限りのことはしてみるよ」


「ありがとう、健。きっと健にしかできないことだと思うから。私を夢の世界から連れ戻して。もう、あまり時間が残ってなさそうなの……」

 彼女は、二年前からは想像できないような、か細い声で言った。 


「わかった」


「ごめんね、健」


「どうして、天野さんが謝るの?」


「健には迷惑をかけてばかりだから」


「それは、ぼくのセリフだよ」


「健は変わらないね」


「天野さんこそ」

 ぼくがそう言うと、彼女は少しだけ口元を緩め、目を閉じた。


 数秒間ほど、そうしていた彼女が、ゆっくり目を開ける。その目には、少しだけ、人が生きたいと想う強さのようなものが感じ取れた。


「私には、何ができる?」


「天野さんには、手を少しだけ借りる」


「手?」

 彼女はそう言うと、横になったまま、両手を自分の胸よりも高い位置に挙げた。


 ぼくは露わになった彼女の手首を見て、息が止まりそうになった。ただでさえ細かった手首が、痛々しいほどに細くなっていたからだ。


「うん……」


「こんな手で、よければいつでもお貸ししますわよ」

 彼女はおどけた風に言った。


 彼女は、先の見えない状況でも、ぼくを気遣ってくれている。ぼくは、静かに拳を握りしめた。


「ありがとう。じゃあ、左手を借りてもいい?」


「もちろん」


「天野さんの手に、ぼくの手を重ねるんだけど……」

 ぼくは自分の手のひらを見てから言った。

 

 ぼくは手汗をかいていた。そんな手で彼女に触れることに抵抗があったし、何より、彼女に、ぼくの能力を使うことに抵抗があった。もし、ぼくの力が悪い方に影響して、彼女の身に万が一のことが起こったら。


「もしかして、今さら、手を重ねるぐらいのことを、ためらっているの?」


「まあね」


「あいかわらず、健は奥手なのね。でも、少し安心した。その様子じゃ、悪い虫はついてなさそう」

 彼女は柔らかな顔をして言った。


 彼女の言葉のひとつひとつが胸に響き渡る。ぼくは決意した。


「いまから、天野さんの夢の中に、入らせてもらう」


「それが、健の特別な力なのね」

 彼女は表情ひとつ変えずに言った。


「驚かないんだね……。それに、いきなりこんなことを言われたら、普通は信じないんじゃないかな?」


「健は、信じてくれたでしょう? 私と亮が兄妹だってことを」


「でも、それとこれとは……」


「わけが違う?」


「うん……」


「同じよ。私は私が信じたいものを信じる。ただ、それだけのこと」


「わかった。それなら、ぼくはぼくにできることを精一杯してみる」


「うん。お願いします」


「あと、夢の中に入るためには、歌を歌ってもらう必要があるんだ……」


「歌? 私が歌うの?」


「そう、鼻歌でもかまわないから」


「わかったわ。私からもひとつだけいい?」


「うん」


「亮に会ってきてほしいの。連絡先は里香に聞いて」


「亮に?」


「そう。彼に会えば何か病気についても分かるかもしれないから」


「わかった。じゃあ、そろそろ、はじめよう」


「無理を言ってごめんね」

 彼女はそう言うと、鼻歌を歌い始めた。


 ぼくは自分の左手を彼女の右手にそっと重ね、深呼吸をした。力みを抜くために。 

ぼくは意識を彼女の鼻歌に集中させる。

 少しずつ、意識が輪郭を失っていく。

 彼女の歌声は相変わらずだった。軽く歌っているだけなのに、心の深い部分に直接響いてくる。

 ぼくは、いつの間にか、眠りの世界に落ちていた。

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