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現在①―1

 ずいぶんと久しぶりに訪れた病院は、そこ特有の消毒剤の匂いが鼻についた。

 わずかに顔をしかめてみたが、そんなことで匂いがどこかへいくわけではない。ぼくは、気を取り直すために、息をひとつ吐いた。

 目的の病室に向かってリノリウムの床を歩いていると、不意に視線を感じた。ぼくは視線の方に顔を向けた。清掃スタッフの女性と目が合った。女性はぼくを不審に思ったのか、手を止め、淀んだ目で、ぼくを審査するかのように視線を這いつくばせた。ぼくはとっさに会釈をし、足早にその場を立ち去った。

 ぼくの心臓は今までにないほど早鐘を打っている。

さきほどの女性に、怪訝な視線を向けられたからではない。

 ぼくが病院を訪れたのには、明確な理由がある。

 先日、珍しい相手から電話がかかってきたからだ。  

 スマートフォンのディスプレイに表示された名前を見て、ぼくの鼓動は軽く鳴った。

 普段のぼくなら電話に出なかっただろう。そのときは、なぜか、スマートフォンの画面に引っ張られるように、通話ボタンをタップした。


「もしもし、菅本里香と申します。結城健さんの番号で間違いないでしょうか?」


「えっ、あっ、はい。間違いないですけど……」


「よかった。あの、私のこと覚えていますか……? 天野美音の友達の――」

 ぼくの心臓はその名前を聞いて勢いよく飛び跳ねた。魚が水の中から飛び出すように。


「覚えてるよ。天野さんに、なにかあった?」

 ぼくは動揺を隠すために、なるべく平板な声で言ったが、菅本さんにはかえって動揺が伝わったようだった。


 彼女は、しばらくの間、無言だった。ぼくに心の準備をさせるために、気を遣ってくれたのだろう。その沈黙は穏やかなものだったから。


「美音が目覚めたの。目覚めはしたんだけど、またすぐに眠ってしまって……」


「そうなんだ……」

 ぼくはそう言った後、俯いて奥歯を噛みしめた。


「美音が目覚めたときに、あることを言ったんだけど、そのまま伝えるね。『健を連れてきて。そう言えば彼には伝わるから』って、美音はそう言ったの」


「そう……」


「来てもらえる?」


「もちろん」

 ぼくにはそう答える以外になかった。


 恩人である彼女がそう言ったのならば。

 彼女が入院したのは二年ほど前だ。彼女は現代の医学では治すことのできない病に冒されている。

 深淵病。

いつの頃からか、世間では、そう呼ばれるようになった。

 その病は、一度眠りにつくと、次に目が覚めるのはいつになるのか分からない。目が覚める保証もない。原因はまだ解明されていない。ここ数年で患者が増え始めた謎の病だ。

 彼女の病室の前につくと、菅本さんと女性看護師が部屋の前で待っていた。菅本さんは丸眼鏡をかけていた。当時、眼鏡はかけていなかったはずだ。髪の毛も最後に彼女を見たときは、肩よりも長かった覚えがある。今は彼女の顔の輪郭に沿って髪型でずいぶん短くなっていた。ぼくが菅本さんだと認識できたのは、彼女が極端に小柄で華奢な女性だったからだ。その部分がぼくの記憶の奥にしまってあった。

 女性看護師は長身で手足がスラリとしていた。小柄な菅本さんより頭二つ分は背が高い。


「お久しぶりです」


「久しぶり」

 ぼくがそう言うと、菅本さんは深いお辞儀をした。ぼくは会釈した。


「私は外にいるね」


「わかった」


 ぼくは彼女の病室の前に立った。

 部屋の中には彼女がいる。二年ぶりに会う彼女が。

 ドアを開けようとすると、女性看護師がすっとぼくのそばに寄ってきた。


「今回の面会は特例です。くれぐれもご内密にお願いいたします」

 女性看護師はそう言うと、鋭い視線をぼくに向けて、ほとんど音も立てずに元の位置に戻った。


 今回の面会の件で、ぼくは誓約書にサインした。情報漏洩を防ぐための誓約書だ。

 深呼吸をして、ドアを三回ノックした。


「失礼します」

 ぼくは小声で言うと、ドアをゆっくりと開けた。


 病室の中は驚くほど簡素だった。

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