灯が途絶える時
夜はやけに静かだった。
月は雲に隠れ、村を包む闇は重く、湿っているように感じられる。
虫の声すら聞こえず、代わりに遠くから、低くうなるような音が耳に届く。
「……天真、起きとるか」
戸口の向こうから、じいの低い声が響く。
天真は寝床から身を起こし、戸を開けた。
じいの顔は土色に沈み、手には古びた槍が握られている。
「じい、どうしたんだ……?」
返事の代わりに、じいは天真の肩を掴み、声を潜めた。
「紅葉を連れて逃げろ。すぐにだ。……影鬼が来る」
胸が一気に冷たくなる。
影鬼――あの日、里を滅ぼした黒い影と同じ名。
鼓動がやけに大きく響き、耳の奥で鳴る。
「紅葉の家は村はずれじゃ。お前ならあの子を引っ張って逃げられる」
天真は唇を噛み、うなずくと駆け出した。
子供のころから紅葉は足が遅く、怖がりで、泣くと動けなくなる。
あの夜――炎の中で誰かに抱かれて逃げた自分と同じだ。
守らなければ。そんな思いが、足を速めさせた。
紅葉の家に着くと、戸は開け放たれ、中から悲鳴と呻き声が漏れていた。
踏み込むと、血の匂いが鼻を刺す。
紅葉の父が壁際に倒れ、母がその胸にしがみついている。
その前に、影のような巨体がうごめき、白くのっぺりした仮面がこちらを向いた。
「……ッ!」
体が凍りつく。
あの夜と同じ。
赤子の頃、母の腕の中から見た景色――黒い霧、赤い光、耳を裂く咆哮。
「天真!? 来ちゃだめ! 逃げて!」
紅葉が泣き声まじりに叫んだ。
「お父さんが、まだ……お母さんも……!」
「紅葉! 来い!」
天真は手を伸ばす。
「いやだ! 置いていけない!」
紅葉は父の腕を握りしめ、必死に首を振った。
「お父さん、起きて……! お願い……!」
その瞬間、影鬼の腕が振り抜かれ、茜の母の身体が宙を舞った。
紅葉の悲鳴が家中に響く。
父の目はすでに焦点を失い、返事はない。
――間に合わない。
考えるより先に、天真の身体は動いていた。
「離して! やだ! いやぁ!」
紅葉の叫びを無視し、天真は彼女を抱き上げ、肩に担ぐようにして戸口へ飛び出す。
「天真! 降ろして! お父さんとお母さんが――!」
「今は生き延びるんだ!」
天真は歯を食いしばった。
外に出ると、村の中央ではすでに複数の影鬼が暴れ、家々が燃え始めている。
泣き叫ぶ声、割れる瓦、炎の爆ぜる音が夜を塗りつぶしていく。
「天真!」
じいが駆け寄ってきた。その手には血に濡れた短刀。
「紅葉も一緒か……よし、井戸の裏から裏山へ回れ。お前らは――」
「じい、あんたは?」
「儂らは残る。時間を稼がねば、お前らもやられる」
「そんなの……いやだ!」紅葉が天真の腕の中で暴れた。
「一緒に行こうよ! じいちゃんも、ばあちゃんも!」
ばあが無理やり笑みを浮かべる。
「紅葉や……お前たちには生きてもらわないかん。この世の未来がかかってる」
言い終えるより早く、一体の影鬼が屋根を飛び越えて降ってきた。
じいは槍を構え、ばあは護符を口にくわえながら天真たちを押しやった。
「行け! 天真!」
背を押され、振り返った瞬間、影鬼の腕がじいを地面に叩きつけるのが見えた。
ばあが護符を影鬼の顔に叩きつけ、白い仮面が一瞬だけ焼けるようにひび割れる。
だがその反動で、ばあも黒い爪に胸を裂かれた。
「じい! ばあ!!」
「やだ……やだぁ……」紅葉の声は嗚咽に溶けた。
足が勝手に戻ろうとする。
だが次の瞬間、目の前に別の影鬼が立ちはだかり、天真の心臓が締めつけられる。
白い仮面、赤い光――その瞳が天真をじっと見据える。
耳の奥で、声がした。
――“見つけたぞ、神人の血”。
頭の奥に雷が落ちたような衝撃。
途端に視界が反転し、赤子だった頃の記憶が溢れ出す。
母の腕の温もり、父の叫び、炎に包まれる神殿、迫る黒い影。
「……あまね……」
ぼろぼろになったじいが、血に濡れた手を伸ばしていた。
「おまえの本当の名じゃ……天音……」
「え……天真……天音って……」
紅葉が涙で濡れた顔を上げたが、言葉はそこで途切れた。
その瞬間、影鬼の腕が振り下ろされ、じいとばあの姿が炎と影に飲み込まれた。
「やめろぉぉぉ!!」
喉が裂けるほど叫び、天真は紅葉を抱きかかえて井戸の裏へ走った。
「お父さん……お母さん……じい、ばあ……」紅葉は天真の背中で何度もつぶやく。
背後からは炎の熱と、影鬼の咆哮が追ってくる。
涙で視界が滲み、地面が揺れているように感じた。
裏山の手前で、宗介が待っていた。
その手には見たことのない長刀、腰には護符の束。
「こっちだ!」
短く言い放ち、二人を引き寄せる。
天真は荒い息を吐きながら、問わずにいられなかった。
「宗介さん……あんた、何者なんだ……」
宗介は一瞬だけ目を細め、燃える村を振り返った。
「――影鬼を狩る者だ。お前が“何”なのかも、全部知ってる」
その言葉は、天真の胸に重く沈んだ。
炎の向こう、黒い影がゆらりと揺れる。
あの夜と同じ匂いが、再び鼻を刺していた。