兆し
昼下がりの集落は、ゆったりとした空気に包まれていた。
天真は畑の仕事を終え、桶いっぱいの水を井戸から汲み上げると、額の汗をぬぐった。
夏の盛りに差しかかるこの季節、村人たちは日の高いうちに作業を終えてしまうのが常だ。
「お疲れさん、天真」
背後から低い声がして振り向くと、村長の宗介が立っていた。
六十を超える年齢だが背筋はまっすぐで、日に焼けた肌と鋭い眼光が印象的な男だ。
彼は天真が物心つく前から、この村を治めている。
「宗介さん、今日は見回りですか」
「ああ。……山の様子を見てな。近頃、森の獣が妙に少ない」
「獣が?」
宗介はうなずき、村の北にそびえる山を指差した。
「あの稜線の向こうから、風が変わった。……嫌な匂いがする」
そう言うと、わずかに眉をひそめた。
天真も目を凝らすが、昼の山はただ静かで、木々が風に揺れるだけだった。
「気のせいだといいんだがな」
宗介はそうつぶやき、ゆっくりと歩き去った。
⸻
天真は紅葉の家へ向かっていた。
ばあから「おすそ分けを届けてきな」と頼まれ、竹籠を片手に歩く。
中には山菜のおひたしと、さっき焼いたばかりの団子が入っている。
「紅葉ー、いるか?」
戸口から声をかけると、奥からぱたぱたと足音が近づいてきた。
「お、天真。来てくれたの?」
笑顔を見せる紅葉は、同い年で、村でも数少ない天真の友人だ。
「これ、ばあから。……団子、熱いうちに食べろよ」
「わぁ、ありがとう! でも、急にどうしたの?」
「ばあが、紅葉にも食わせてやれって」
そう言いながら竹籠を渡すと、紅葉が少しだけ真顔になった。
「ねぇ……今日、森で変な音がしなかった?」
「音?」
「うん、なんかこう……風じゃない、低い唸りみたいな。お父さんも聞こえたって言ってた」
天真は一瞬、宗介の言葉を思い出す。
「……気のせいだろ」
そう答えたが、胸の奥に小さな棘のような不安が残った。
⸻
村は闇に包まれ、虫の音が規則正しく響いていた。
じいとばあはもう寝ていて、天真は寝台に横たわっている。
しかし、なかなか眠れなかった。
耳を澄ますと、遠くで何かが軋むような音がする。
風に乗って、湿った匂いが漂ってくる。
――あの夜と、同じ匂いだ。
まぶたを閉じると、記憶が勝手によみがえる。
炎の中で、泣き叫ぶ人々。
黒い霧を纏い、仮面をかぶった巨影が歩み寄ってくる。
その足元で兵たちが次々と倒れ、光の柱が砕け散る。
誰かの腕に抱かれ、必死に逃げる自分。
背後で響く咆哮――。
「っ……!」
息を荒くして起き上がる。
額には冷たい汗が流れていた。
窓の外を見やると、山の向こうで一瞬、赤い光が上がった。
まるで炎が弾けたかのように、空がわずかに染まった気がした。
翌朝、天真は早くから畑に出ていた。
夜の出来事を、じいやばあには話さなかった。
ただ胸の中に、言葉にできないざわめきが残っていた。
畑仕事の合間に、水を汲みに村外れまで足を運ぶ。
その帰り道、ふと足を止めた。
森の入り口に、小さな黒い染みがあった。
近づくと、それは焦げ跡だった。
周囲の草は枯れ、地面がじんわりと黒ずんでいる。
まるで何かが這ったように、細い筋が森の奥へと続いていた。
「……」
風が吹き、森の中から低い唸りが聞こえた気がした。
次の瞬間、首筋に冷たいものが走る。
そこには、形を持たぬ黒い影がじっとこちらを見ていた――。