序章 ― 灯が消える夜 ―
その夜、山は異様な静けさに包まれていた。
春祭の前夜――本来なら、神人の里は篝火と笑い声に満ちているはずだった。
だが、空は重く曇り、月明かりさえ届かない。
奥の間。
若き母は、金糸のような髪を持つ赤子を胸に抱き、微笑んでいた。
透き通る肌、澄んだ瞳――この子こそ、神玉を守護する神人一族、待望の子。
名は天音。
「……元気に育て。お前は、この家の光だ」
父がその小さな額に口づける。
本来、神人の後継は男子と定められていた。だが、長く子宝に恵まれなかった二人にとって、天音は天の奇跡だった。
――その時、山裾から低く地を揺らす音が響いた。
「……何の音だ?」
外を見た侍女が、蒼白な顔で振り返る。
「……影鬼です! 数が……尋常ではありません!」
父の表情が一瞬で険しくなる。
「馬鹿な……神玉の結界を抜けられるはずが――」
言葉は雷鳴のような轟音にかき消された。
遠く本殿の方で、結界の光がひび割れ、黒い霧が溢れ出す。
その霧の中から、白骨の仮面を戴く巨影がゆっくりと現れた。
――古の災厄、影鬼。
母が天音を強く抱きしめる。
父は歯を食いしばり、短く告げた。
「偽報だ……! 影鬼が結界内に現れたと、外の守護兵を引き離したのだ。残る兵では防げぬ。……お前は天音を連れて山を越えろ」
「あなたは……!」
「行け!」
次の瞬間、影鬼の咆哮が夜を裂いた。
母は天音を護衛の腕に託し、振り返らず駆け出す。
背後で金属の衝突音と叫び声が重なり、炎が揺れた。
天音の幼い瞳に、その赤と黒の光景が焼き付く。
そして――その夜、神人の里は跡形もなく消えた。
⸻
数年後。
山間の小さな集落。
薄汚れた衣をまとい、黒髪を短く切りそろえた少年が井戸水で顔を洗っていた。
「……天真、朝だぞ。畑を手伝え!」
呼ばれた少年は短く返事をし、立ち上がる。
その胸の奥で、かつての名を呼ぶ者はもういない。
赤子だった天音は、生き延びるために名を捨て、男として生きる道を選んだ。
――影鬼が最後の神人を喰らい尽くすその日まで、追われ続けているとも知らずに。