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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

『302号室は、水の部屋』

(※ホラーです!苦手な方はご注意下さい!m(__)m※)


――水道の水が異様に冷たく、美味かった。


「・・飲みすぎないで。水は、欲しがる人にこそ、牙を向くから」


“水の部屋”は、ただ喉を潤す場所ではない。

それは、心のひび割れに染み入り、

記憶の穴に滲みこみ、

痛みの下にあるものを濡らすためにある。


でも――水に触れすぎれば、

人はやがて形を失い、

溶けて、戻れなくなる。


だから、巫女が必要なのだ。


見守る者。

境界に立ち、渇いた者を沈めすぎないようにする者。


そして、美羽は今日も部屋の前に立つ。


「・・お水、出ますよ。

ちょっとクセはありますけど。

気をつけて、使ってくださいね」

――梅雨の雨は止む気配もなく、洗濯物は湿気を含んで生乾きの臭いがした。


エアコンの調子が悪く、結露が壁をつたう。


それでも、智也は不思議と落ち着いていた。


この部屋に来てから、よく眠れるようになった。


食欲は減ったが、()()()()()()()()()()()()()()()



――東京の片隅、ひっそりとたたずむ老朽アパート。


『コーポ朝霧』


そこに越してきたのは、大学生の片瀬かたせ 智也ともや


身なりに無頓着で、細身の身体にダボついた白いシャツ。


眼差しはやや伏しがちで、どこか人と距離を取るような、静かな気配をまとう青年だった。


ある曇りがちな午後、智也は引っ越しの手続きをしようと、アパートの管理人室のチャイムを鳴らした。


数秒後、奥から細やかな足音が近づいてきた。


扉が開く。


現れたのは、制服姿の少女だった。


「こんにちは、お話は伺っております。新しく入居される方ですね?」


少女は柔らかく微笑んだ。


黒髪は濡れたように艶やかで、切り揃えられた前髪から覗く青い瞳は、湖面のように静かで澄んでいた。


「わたし、管理人代理のたちばな 美羽みうです」


少女の声は水のように澄んでいて、光を孕んでいた。


その瞬間、智也の胸に波のような感情が広がった。


「・・あっ、こ・・こんにちは・・」


智也は自分の声が、緊張に震えているのに気づいた。


その肌は透き通るほどに白く、朔は思わず目を逸らした。


「今度、ここに越してきます・・片瀬・・ 智也・・です・・」


見たこともない程の美少女に、智也の胸が特異な鼓動を打つ。


美しく神秘的な美羽の前で、自分が固く小さくなっていくのを感じた。


「・・片瀬さんのお部屋は、三階の奥の部屋になりますね」


少し間をおいて、少女が部屋の鍵を手渡しながら、静かに告げた。


ほとんど反射的に、智也は鍵を受け取りながら、慌てて尋ねた。


「え?・・あっ、駅チカでこの家賃って、ほんとにいいんですか?」


少しだけ触れた少女の指は、冷たい水に指先を浸した感触。


「・・それに()()()()()()()()()()()()()()


――建てられてから、かなり経つが、あまりにも”好条件な物件”


 ダメ元で不動産会社に連絡したが、すんなりと話は決まった――



美羽は静かに頷いた。


「ええ、そうです。水道代はこちらが全額負担させていただきますよ」


ゆっくりと語る声は、どこか奥底に染み入ってくるものがあった。


初対面なのに、信用できる女の子・・そう智也には思えた。


「・・智也さんは、水はよく飲む方ですか?」


その可憐な唇から、予想外の問いがこぼれる。


「えっ?・・ま、まぁ、普通ですけど・・」


突然の質問、名前を呼ばれ、戸惑いながらも智也は答えた。


「そう・・”普通”・・ですか・・まぁ、すぐ慣れますから・・」


質問の意図を量りかねる智也は、「はぁ・・」と気が抜けた返事しか出来なかった。



「・・わたしのことは、どうぞ、” 美羽みう”と呼んでくださいね・・」


――管理人室の扉が静かに閉まった瞬間、かすかな清らかな水の匂いが空気を満たした。


しばらく、その場から動けずにいた。


智也は特に深く考えず、入居を決めた。


ただ、最後に美羽が言った言葉・・その言い方が気になった。



―「ここの水道、ちょっとクセがありますけど

    気をつけて、使ってくださいね』―



心の中に疑問が湧いたが、智也は深呼吸し、ぎこちなくポケットに鍵を入れた。


アパートは鉄骨三階建て。


階段は錆び、足を踏み出すたびに金属のきしむ音がする。


三階の外廊下は異様に静まり返っていた。


(な、なんだろう・・この感じ・・)


智也が案内されたのは、三階の最奥――302号室だった。


雨が降ったわけでもないのに、手すりには水滴が残っており、空気が重い。


先ほどまで雨が通り過ぎたような湿気。


廊下の突き当たり、最も奥まった位置にある302号室のドアは、全体が古びて錆びていた。


が、なぜか『302』の番号札だけが新しい。


濡れているような鈍い光沢を放ち、まるで“そこだけが時を止めている”ようだった。


ドアノブに手をかけたとき、智也は一瞬、掌がじんわりと濡れたような感触を覚えた。


(・・見たことのない高校の制服だった・・あんな歳で、ひとりで管理人・・?)


しかし、それ以上に、あの少女の存在が妙に心に引っかかった。



*******************



その日からだった。


変化は、静かに訪れた。


水道から出る水は、異様に澄んでいた。


飲んだ瞬間、体がすっと軽くなった気がした。


そして数日後から、大学での智也の様子が変わり始めた。


以前は口数も少なく、教室の隅でノートを取るだけだった彼が、ゼミで堂々と意見を述べるようになった。


討論で教授の意見を言い負かし、学内掲示板でも名前が挙がるようになる。


サークルではイベント企画を次々と成功させ、「運営のキーマン」として周囲に頼られ始めた。


SNSのフォロワーも増え、講義後には女子学生から声をかけられることも多くなった。


「片瀬・・智也くん・・だよね?・・なんか雰囲気変わったよね」


「・・最近の片瀬くん・・すごくいい顔してるよ?」


その中心にいたのが、同級生の『白川しらかわ さき』だった。


入学当初から、咲は大学でもひときわ目立つ存在だった。


大人しく、どこかはかなげで、優しさをにじませる笑顔。


柔らかな茶色の髪は肩にふんわりと落ち、春の光を受けてまるで金の繭のようにきらめいていた。


その穏やかで思いやり深い性格から、誰からも慕われ、“文学部のマドンナ”と呼ばれることもあった。


智也は、ずっと彼女に憧れていた。


咲が自分に視線を向けてくれることなど、以前なら考えられなかった。


――だが今は違う。


智也は自信に満ちていた。


目を見て話せるようになり、自然に笑いも返せる。


「・・智也くん・・よ、よければ、わたしとお付き合いして下さい!」


そして、智也は咲と付き合い始めた。


誰もが自分を見ている気がした。


美人で優しい咲が、さえない容姿の自分の横にいる。


世界が自分を中心に回っている。


ふと心の中に浮かぶ。


(・・あの水のおかげだ)


彼は、302号室の台所で、あの冷たい水を口にするたび、脳が冴えわたり、言葉が滑らかになるのを感じていた。



************



蛇口をひねると、一瞬ゴボ・・と空気を吸い込む音がしてから、やや白く濁った水が流れ出す。


だが、それも数日で慣れた。


炊事も洗顔も、風呂も、その水で済ませた。


喉が乾けば、水ばかり飲んだ。


「・・美味い・・美味すぎる・・・」


その水を飲むたび、舌の奥から背骨まで、ひやりとした快感が駆け抜けた。



――ある晩、智也は、共用廊下でふいに美羽に声をかけられた。


「・・あなたは、もう、気づいているんじゃないですか?」


「何をだよ?」


「このアパートの“水”が、ただの水じゃないことを」


智也は一瞬、言葉を失った。


「・・お前・・俺のこと、見張ってんのか!?」


完全に舞い上がっている智也は、以前の自信のない口調ではなかった。


荒々しい口調がアパートの共用廊下に響く。


「そうじゃなくて、ただ・・」


美羽は一歩下がった。


それを見た瞬間、智也の胸に訳の分からない苛立ちが走った。


「だったら放っとけよ! お前、なに様なんだよ。管理人って肩書きだけで、偉そうに・・」


「・・わたしは管理人じゃありません・・あくまで、わたしは・・・」


美羽は青い瞳を震わせて、智也を見つめる。


「わたしは・・この場所に“縛られている代理”なんです」


美羽はそっと微笑む。


「この部屋に来る人たちは、みんな、心に深い渇きを抱えています・・」


「・・水はそれに応える・・」


「・・でも・・満たされるほど、溺れてしまう」


その顔には深い悲しみと後悔が混じっていた。


「縛られてる?、水?・・なんで、それを俺に・・?」


少女の様子に並々ならぬものを感じて、智也の口調から荒々しさが消える。


「もうすぐ、あなたが“境界”を越えてしまうから」


「境界・・?」


「水に取り込まれる一歩手前。まだ、戻れるなら・・」


「ふざけるな・・何をワケがわからないことを・・」


智也は震える声で、美羽の言葉をさえぎった。


「今の俺があるのは、この水のおかげだ!全部うまくいってる!成功してるんだ!」


智也の頭の中は、今までの輝かしい日々が満ちていた。


「でもそれは、“あなた自身”じゃない」


美羽の澄んだ瞳が、智也の姿を映し出す。


あの自信のない『片瀬かたせ 智也ともや』に戻れ、と言うように。


「今なら、まだ間に合いますから・・」


「うるさい!今更、戻ってたまるもんか!」


しかし、今の『片瀬かたせ 智也ともや』は、激しい拒絶の意を示した。


あの栄光を失うことなど認められない。


(あいつは、俺から“水”を遠ざけようとしている!)


あの美人で優しい咲が、他の男と付き合うなんて認められない。


輝かしい未来を手放すことなどできないと。


「いいか!これ以上、俺に関わるなよ!」


悲しそうにたたずむ少女を置いて、青年は足早に去っていった。


「・・智也さん・・・」


――独り残った美羽は、ただ静かに空を見上げる。


空が割れ、雲が満ちて、雨が降り始める。


「また、始まった。

また、流れていく。

すべては、水に還る。

わたしはただ、器となる。」


口元に、かすかな微笑。



その夜から、智也の水への執着は一層強まり、美羽との間には決定的な溝が生まれた。


――気づけば、智也は”水”を水筒に詰めて大学に持っていくようになっていた。



**************



ある日から、味覚が鈍るようになった。


特に「水」の味がわからない。


いや、“水しか感じない”というべきか。


コーヒーも、カップ麺も、ジュースも、すべて同じ「無味の液体」になった。


水を飲む量が異常に多くなり、持ち歩く水筒が大きくなっていった。


舌を疑った。


歯を磨いた。


病院にも行った。


医者は言う。


「異常なし」だと。


「まあ、いいか・・市販の水なんかより全然うまいんだよな」


笑って言う智也の手元には、ペットボトルに詰めた水道水。


遂に水筒だけでは足りなくなって、空の容器に詰め替えていた。


講義中にも、喉が渇くたびに飲む。


昼食もそこそこに、無意識に水ばかりを口に運んでいた。



――ある日、咲が智也のペットボトルの水を見て、眉をひそめた。



「ねぇ・・その水、なんか変な匂いしない?」


咲が言ったのは、智也が研究室で嬉しそうにボトルの水を飲んでいた時だった。


「は?、普通に美味いけど?」


「でも、私には・・ペットボトルの底、ほら見て?・・これ、なんか濁ってるみたいだよ?」


「お前、バカか? すげぇ澄んでるじゃん」


智也には透明で冷たく、美味い水にしか見えなかった。


「・・お前もアイツと同じこと言うのかよ・・今の俺から水を取り上げようって言うのか・・」


智也は苛立ったように睨みつける。


「それにお前には関係ないだろ! 俺の勝手だろ!」


その視線に怯えた咲が目をそらすと、智也は水を仰ぎ飲んだ。


喉を鳴らして、何度も何度も。


「・・智也くん・・変わっちゃったね・・」


少し傷ついた顔を咲は小さな声で呟いた。



*****************



今は誰からも慕われ、“文学部のマドンナ”と呼ばれることもある、白川 咲。


だが、咲が智也に好意を抱いたのは、大学での再会よりもずっと前――高校三年の冬。


大学受験の会場へ向かう途中、冷えた駅のホームで、咲は急に具合が悪くなった。


その頃の彼女は、今よりずっと目立たず、強い度の入った眼鏡をかけ、黒髪を無造作に結わえた地味な少女だった。


ベンチで顔を伏せ、呼吸を整えようとしていた時、ひとりの少年が声をかけてきた。


「大丈夫か?」


制服姿の少年は、やや控えめな声をかけ、その手にはペットボトルの水があった。


「まだ口も付けてない新しいやつだから・・これ、飲める?」


少年は新しいボトルのキャップを緩めて、咲に手渡した。


「・・あっ・・ありがとう・・」


咲は驚きながらも水を受け取り、震える手でキャップを開けた。


冷たい水が喉を通る。


その途端に、スッと締め付けられていた胸が楽になった。


「・・えっ・・すごい・・楽に、なりました・・美味しい水・・」


今まで息をするのも苦しかった咲の顔色が戻る。


どこにでも売っているミネラルウォーターのペットボトル。


(不思議・・まるで、魔法の水みたい・・・)


しげしげと不思議そうに、ラベルを見つめる咲。


「気をつけてな。緊張しすぎると、倒れるぞ」


それだけ言って、見知らぬ少年は足早に去っていった。


言葉は少ないけれど、そこには確かに相手を思いやる気持ちがあった。


咲はその背中を、呆けたように、しばらく見送っていた。


「・・あっ!・・ありがとう・・ござい・・ました・・」


お礼を言わなければならない・・


そう気付いた時には、既に雑踏の中に姿が消えていた。


「・・お礼・・言えてないのに・・」


少女の胸が、伝えられなかった言葉で熱を持った。


咲が、彼――”片瀬 智也”を好きになった最初の記憶だった。



(それがまさか・・同じ大学だなんて・・こうして、また出会えたのも運命・・なんだよね・・?)


咲の気持ちは、最初から、智也へと向いていたのに。


――智也は、まるで中に何かを押し込むように、胃の奥まで詰めるように、水を飲んだ。


咲の本当の気持ちも気付かないままで。



*****************



――その日の夕方、智也は帰宅してすぐに蛇口をひねった。


ゴボッぼぼっゴボッ・・・


激しく咳き込むような音がしてから、大量の混濁した水が蛇口から流れ出す。


両手で水をすくい、顔を洗い、口に含み、うっとりと喉を鳴らす。


ペットボトルに詰めた水をいくつも並べて、部屋の中で眺める。


それだけでは足りず、智也は風呂の中に大量のペットボトルを浮かべる。


裸の胸に水を垂らし、それを舐め取る。


「冷たくて・・綺麗で・・」


彼の目は焦点を失い、空のペットボトルを抱きしめるように、風呂の中で眠った。


喉が渇いて、渇いて仕方がなかった。



──季節は春を越え、初夏の湿り気を帯びた風が街を包む頃。



咲は、最近ますますせていく智也のことを心配していた。


食欲が落ち、連絡も短く、口数も減った。


このままではいけない。


咲は慣れない手つきで台所に立ち、自分なりに弁当を作った。


何度も包丁で指を切り、そのたびに小さな絆創膏を貼った。


ご飯は少し柔らかすぎたかもしれない。


卵焼きは焦げ目が強く、味付けも甘すぎた。


でも、彼のために、という思いだけは込めた。


その昼休み、大学の学食の片隅。


咲はおずおずと、智也の席へ近づいた。


「・・これ、よかったら」


少し照れながら、弁当箱を差し出す。


智也は伏し目がちに咲を見る。


「・・食欲、ねぇよ・・」


「でも、最近ろくに食べてないって聞いたし・・ほら、ちょっとだけでも」


弁当箱の中には、不格好な卵焼きと少し崩れたおにぎり。


その傍らで、絆創膏を貼った指が震えている。


智也の目に、一瞬だけ揺らぎが走る。


(・・何だろう、妙に・・おいしそうに見える)


ゆっくり箸を取り、一口を口に運んだ。



──瞬間、彼の顔が歪んだ。


ぐしゃ、と咀嚼音とともに、舌に広がったのは、酸味と苦味と臭気の混じった得体の知れない風味。


「・・っ、うっ!?」


口元を押さえ、智也は弁当箱を見た。


「・・こんな腐ったモンを食わせやがって!?」


咲が息を呑む。


「えっ・・?そんな・・まさか・・」


「・・ああ、そうか、そういうことか・・」


立ち上がった智也の声は震えていた。


「別れるために、わざとこんなもん作ったんだな!?」


「俺が水飲んでるのが気に食わねえってか? それで、俺から水を奪うために・・っ!」


口から唾を吐きながら、智也が怒り狂ったように叫ぶ。


学食のざわめきが止まった。


「ち、違うよ! 私は・・ただ、心配で・・っ!」


「いいぜ、別れてやるとも!」


怒鳴り声と共に、弁当箱がテーブルから弾き飛ばされ、床に散乱した。


大勢の学生が驚き、二人を見つめる。


咲は唇を震わせた。


「そんな・・どうして・・? 私、そんなつもりじゃ・・」


涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。


だが、智也は一瞥もくれず、背を向けて去っていった。



──その背中はもう、誰の声も届かない場所に向かっていた。



その夜、智也はふと、美羽がアパート裏手へ向かう姿を見つけた。


月もない夜だった。


彼女は制服のまま、懐中電灯も持たず、まっすぐに裏の茂みに消えていった。


智也は少し躊躇ちゅうちょしたが──追いかけた。


(・・まさか、あの水を取り上げられるってことか?)


美羽が“何か”を隠していると確信していた。


怒りと恐怖と、そして不安が混ざり合いながら、美羽を追っていった。


アパート裏の茂みを抜けると、濡れた草と土の匂いが一気に鼻を突いた。


見つけたのは、古ぼけた”井戸”だった。


ぽっかりと闇が口を開けていた。


蓋は半ば外れ、石の輪郭は苔と泥に覆われていた。


近づくと、下からかすかに冷たい風が吹いてくる。


「・・やっぱり、来てしまいましたか・・」


ゆっくりと振り向いた美羽の声が静かに響いた。


「なあ、美羽。お前、何をしてるんだよ・・この井戸はなんだ?」


「これ以上はダメです・・戻ってください、智也さん」


彼女の澄んだ青い瞳が、再び男の姿を映し出す。


それは元の『片瀬かたせ 智也ともや』に戻れと言うことか、それとも・・


しかし、その時の彼は、すでに水の虜だった。


「お前さえ、いなけりゃ・・っ」


「・・?」


衝動は、直ぐに行動に結びつけられた。


「この水は、俺のもんなんだ・・っ」


智也はゆらりと井戸へ歩み寄り、美羽の華奢な手を掴んだ。


「この水があるから、俺は上手くいったんだ! 咲に振り向いてもらえたんだよ!」


「それは、あなたの中にあったもの・・水は、それを映しただけ・・」


「嘘だ! お前が邪魔した! 全部壊しにきたんだろ、お前なんか・・」


「やめて・・ください・・っ!」


美羽が必死に身を引こうとする。


「なあ、その年で管理人なんて大変だろ?・・お前はここに縛られてるんだろ!? 」


可憐な美少女が身悶えする姿に、智也のどす黒い部分が広がっていく。


「だったら、俺と一緒にいろよ!・・俺が、養ってやるよ」


言い合いは激しくなり、手が触れ、押し返し、引き戻す。


「ちがう・・私は、ここに残るから、あなたには・・」


もみ合いの末、智也の手が美羽の腕を強く引いた。


「や……やめて、ください!・・あっ・・・」


美羽の身体がバランスを崩し、足元の石がずれる。


次の瞬間、美羽の身体は宙に浮き、


───ごぼんっ───


水音だけが、あたりに残った。


智也は呆然と立ち尽くした。


静寂。


木々と草の揺れる音。


両手は濡れていた。


腕には細い指の感触が、まだ残っていた。


「・・美羽・・あいつが・・邪魔しなければ・・」


何かが、取り返しのつかないところへ落ちていったのを、確かに感じていた。



──それから数日間、智也は部屋に閉じこもった。



水だけを飲み、咲にも連絡せず、講義にも出なかった。


彼の思考は混濁し、水がなければ何もできない状態になっていた。


鏡に映る自分の顔は青白く、唇は紫がかり、目はぎらつき、どこか焦点が合っていなかった。


夜になると、浴室では、水を全身に浴びながら、何かを呟き続けていた。


シャワーの音にかき消されるように、口を開けて何度も何度も叫んでいた。


「お゛れ゛が、こ゛れ゛か゛ら゛、み゛ず゛を、か゛ん゛り゛し゛てや゛る゛……っ、す゛べ゛て゛の゛み゛ず゛は、お゛れ゛の゛も゛の゛だ……っ」


ガバガバと口にシャワーの水を含みながら、もはや言葉にならない唸り声と共に。


目を見開いたまま、歯を剥き、身体を反らせて水を浴び続けるその姿は、祈るようでもあり、狂っているようでもあった。


(・・この水のなかに・・おいで・・)


──その背後の鏡に、濡れた黒髪と青い瞳。


黒髪で白い肌の、ふやけた女の顔が一瞬、浮かんだように見えた。


それは笑っていた。


口を裂いて、歯を見せて。


──そして、智也の意識は


(・・・さ・・・き・・・・)


        ――水に沈んだ。



**************



智也からの連絡が途絶えて久しい。


咲のスマートフォンが震えた。


画面には、見覚えのない番号が浮かんでいた。


── 050-○○○○-○○○○


心当たりはなかったが、なぜか「出なければならない」と感じた。


恐る恐る通話ボタンを押す。


『・・咲さん、ですか?』


若い女性・・いや、少女の声。


「こんにちは、わたし、『コーポ朝霧』の管理人代理のたちばな 美羽みうです」


片瀬かたせ 智也ともやさんから、お話は伺っております」


「お付き合いされていた、白川しらかわ さきさんですね?」


透き通るようで、どこか冷たく、胸の奥を揺さぶる声だった。


「 智也さんがここ数日、顔を見せていないんです」


──不審な点も疑問も、この時の咲は抱かず──


「様子を見に行っていただけませんか?」


ひとりでアパートに向かった。



古びた階段を登るたび、錆びた鉄のにぶい音が足元から響き、どこからかしずくの落ちる音が聞こえる。


「・・あんな所に”枯れ井戸”があるなんて・・不気味なところね・・」


智也の住む部屋に向かう手前で・・何かに呼ばれている気がした。


咲は不安を抱きながら、アパートの奥に進み・・そこで”井戸”を発見した。


足が勝手に進むように井戸を覗くと・・


びっしりと石で塞がっていた。


「・・古い井戸・・いつから使われなくなったんだろう・・」


”井戸”を塞ぐ石は苔生し、ずいぶんと前に使われなくなった井戸だと分かった。


「・・あっ・・なんで思いつかなかったんだろう・・管理人さんなら・・」


それを確認したことが切っ掛けになったのか。


「智也くんの部屋も、自分でチェックできるんじゃないかしら・・?」


霧が晴れたかのように、咲の思考がクリアになっていく。



──自分が確認しにいく必要があるのか?──



階段を響く音が、咲の思考を更にクリアにしていく。


「・・でも、ケジメはつけないといけないから・・」


既に足は三階の共用通路に差し掛かっていた。


三階の廊下は異様なまでに湿っていた。


「・・私から先に智也くんに声をかけたんだから・・」


誰もいないはずなのに、空気は重く、まるで深い池の底にいるようだった。


302号室の前に立ったとき、咲の背筋が凍る。


水の匂い。


だがそれは決して清涼ではなく。


どこか濁って、古びた井戸の底のような・・沈んだ、記憶の匂いだった。


「智也くん・・?・・ひゃっ!?・・」


ドアノブに手をかけると、微かにぬめりがあり、咲は反射的に手を引いた。


不用心にも鍵はかかっていないようだったが。


部屋からは、水が止まらず流れている音が響いていた。


「智也くん・・いるんでしょ・・?」


それでも意を決して扉を開けると、部屋の中には異様な湿気が立ち込めていた。


「・・奥に・・いるの・・?」


水が流れる音が強くなる。


──智也がいた──


風呂の中で、白くふやけた状態で浮かんでいた。


その瞳孔は開いたまま、何も映していなかった。


だが、口元には笑みが残っていた。


「いやっ・・! いやあああああっ!!??」


咲の叫びが、静寂に沈んだアパートに木霊した。



***************



──悪臭と湿気が外まで漏れ出していたという。


智也の死亡解剖が行われた。


胃を開いた瞬間、検視官が絶句した。


次いで、腸、肝臓、肺――あらゆる臓器が液状化し、ただの腐敗した水に置き換わっていた。


血液の代わりに、澄んだ水が体内を巡っていたという。



・・・その夜、咲は眠れなかった。


瞼を閉じるたびに、水を含んで膨らんだ智也の姿が脳裏に浮かんできた。


──その水は、お前のものじゃない──


夢の中。


薄暗い水面の向こうに、智也が立っていた。


肌は青白く、髪は濡れたまま垂れ下がっていた。


瞳は深い底からこちらを見ている。


咲は最初、恐怖で動けなかった。


冷たい水が足元を浸してくる錯覚に、息が詰まった。


・・だが、冷たく息苦しい自分の状態が、どこか懐かしくて・・


何かを彼が訴えているように思えた。


「・・智也くん・・」


咲は口を開いた。


「・・変わっていく智也くんが怖かった・・」


「でも・・私、智也くんのおかげで、大学生になれたの」


「高校三年の冬、駅で倒れそうだった私に、水をくれたこと、覚えてる?」


「・・あの時から、ずっと・・感謝してた」


「ううん、それだけじゃない。好きだったの・・ずっと」


智也の影が、かすかに揺れる。


その表情は、ほんの少しだけ、緩んだようにも見えた。


「私は・・あなたと付き合えて、本当に嬉しかった」


「楽しかった」


「いっぱい笑って」


「・・いっぱい泣いて・・・」


咲の声は涙で震えながらも、しっかりと前を向いていた。


「・・ありがとう」


あの時、言えなかった言葉が咲の心から出ていった。


「・・さよなら、智也くん」


終わりの言葉を告げたとき。


水面が、光に溶けるように波紋を広げた。


夢は、朝霧にとけるように、静かに終わった。



──数日後、警察による調査が入り、アパート裏手の井戸も確認された。


だが奇妙なことに、咲が見たはずの井戸は。


『存在していなかった』。


ただ、地面に大きく丸い窪みがあり、その中心には無数の小さな割れた陶器の破片が沈んでいた。


調査報告では『古い水甕みずがめが地盤沈下で崩れた跡』とされた。


しかし、咲は知っていた。


そこに確かに『何かがあった』。



***********



2029年、東京都。


『水の部屋』は、ひっそりとまだ存在していた。


だが、あの日以来、誰ひとりとして入居希望者が来ない。


巫女・橘 美羽は毎日、誰も通らない玄関前を掃除し、 誰も使わない台所の水音に耳を澄ましていた。


水は静かだった。


何も囁かない。


何も滲んでこない。


――渇きが、消えていた。


テレビでは言っていた。


『メンタルケアAIの普及』


『共感アルゴリズムによる孤独感の軽減』


『脳神経最適化による自己肯定感の平均値上昇』


都市が、個人の痛みを“予測し処理する”ようになった。


()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


美羽は台所の水道をひねる。


無音。


音すら、もう返ってこない。


「・・水の声が、消えた」


制服姿のまま、じっと見ている。



都市は変わり続けていた。


行政によって、『旧構造物の最終整理』が進められた。


耐震基準を満たさないアパートが、次々に取り壊されていく。


老朽化したアパートと”遺構”。


まもなく、行政によって取り壊しが告げられた。


そのすべてが、地図から消える日が決まった。



――同じ頃、匿名掲示板の片隅に、奇妙なスレッドが立った。


《302号室は、水の部屋》という名のサイト。


書き込みは少ない。



だが、ある日。


ひとつの書き込みが、静かな波紋を広げた。


「AIに管理される社会になったけど」


「みんな“渇いてないふり”してるだけ」


「心がカラカラなのに」


「データにも出ないから、誰も助けない」


しばらくして、別のIDから返信があった。


「水は、記憶の器」


「渇いた者を沈め、語らず、ただ受ける」


「でも、それが“必要ない社会”が本当に理想なのか」


「わたしにはまだ、わからない」


その書き込みの最後に、こうあった。





 

『今、誰が乾いていますか?』



――翌月、『コーポ朝霧』は取り壊された。

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じわじわじわじわと何かが近づいてくるような、この空気は正しくホラー! 少しずつ狂気に苛まれていく智也。 多分色んな事を知っているのに止めようとするだけで、理由を告げない美羽。 何も解らず翻弄される咲。…
じわじわとした恐ろしさが残る、それでも切ないお話でした。 本編もすごかったのですが、ここのご感想欄のやり取りもとても凄くて驚きました。 みなさまの様々な高い考証にかぐつち様の深いお返事。 そのやりとり…
∀・)おぉ~これが「水」を題材としたホラーですか。かなりの余韻が残ります。 ∀・)水に執着した怪異とみるべきでしょうか。智也くんの巻き込まれた感じ。 ∀・)ホラーですねぇ。怪談ですねぇ。 ∀・)…
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