「聖女失格」と追放された私が、辺境で始めたのは癒しのごはん屋でした。
私の仕事は聖女だ。
といっても人々が想像するような、きらびやかなものではない。私が祈りを込めて生み出す水――【聖水】は、なぜか傷を癒す力が極端に低かった。だから王宮では「出来損ないの聖女」と呼ばれている。それが十九歳になった今の私の全てだった。
おかげで私が聖女として神殿の式典に出ることはない。魔物討伐の遠征に帯同することもない。私の主な仕事場は王宮の第二厨房。兵士や下働きの者たちのための大きな厨房だった。
「ユリア様、今日のスープも最高ですな」
「ええ。これを飲むと体の疲れがすっと抜けるんですよ」
屈強な騎士たちが木の椀を片手に嬉しそうに話している。その顔を見るのが私の唯一の喜びだった。
私の【聖水】は傷を癒す力は弱いが、なぜか料理に使うと食べた者の活力を高める効果があった。食材の味をぐんと引き上げてもくれる。だから私は来る日も来る日も大きな寸胴鍋をかき混ぜてシチューを作り、パンを焼いた。それが私の役目だった。
はぁ……。まあ、仕方ない。
誰かの役に立てるだけまだマシだろう。私はそう自分に言い聞かせ、野菜の皮を剥く作業に戻った。
その日も私は夕食の準備に追われていた。
今日のメインは猪肉を香味野菜とじっくり煮込んだシチューだ。厨房の中に食欲をそそる香りが満ちている。
「あらユリア。まだそんな場所で食事作りをしているの?」
不意に背後から聞こえた声に私は手を止めて振り返った。
そこにいたのは王子の婚約者である、もう一人の聖女リリア様だった。プラチナブロンドの髪を揺らし、宝石のような青い瞳が私を見下ろしている。その隣にはもちろんアルベルト王子殿下の姿もあった。
「リリア様、アルベルト王子殿下。ごきげんよう」
私が頭を下げると、王子は不快そうに鼻を鳴らした。
「リリア。このような薄汚い厨房に長居は無用だ。君の体が穢れてしまう」
「でもアルベルト様。わたくし気になっておりましたの。兵士たちがユリアの作る食事ばかりを褒めるものですから」
リリア様はそう言うと扇で口元を隠した。その仕草は可憐だが、瞳の奥には冷たい光が宿っている。
彼女の【聖水】は強い治癒の力を持つ。まさに「本物の聖女」。私とはなにもかもが違う。家柄も美しさも、そして聖女としての価値も。
「ふん。出来損ないの作る料理などたかが知れている。それよりリリア、君のために用意した新しいドレスを見に行こう」
「まあ、嬉しいですわアルベルト様」
二人は私をまるで道端の石ころのように無視し、楽しげに言葉を交わしながら去っていった。
私はその背中をただ黙って見送ることしかできなかった。胸の奥がちくりと痛む。
大丈夫。慣れているはずだ。
私は寸胴鍋の前に戻り、味見のために木匙を手に取った。うん、美味しくできている。これを食べれば皆きっと喜んでくれる。それでいいのだ。
◇ ◇ ◇
事件が起きたのはその翌日だった。
昼食を終えた兵士たちが次々と体調不良を訴え始めたのだ。腹を押さえてうずくまる者、力が入らないと訴える者。厨房内は騒然となった。
「どうしたんだ、いったい……」
「今日の昼食はユリア様の作った鶏肉のクリーム煮だったが……」
そんな兵士たちの声が私の耳に突き刺さる。
まさか。私の料理が原因だというのか。そんなはずはない。私は誰よりも心を込めて安全に調理したはずだ。
そこへ衛兵を引き連れたアルベルト王子とリリア様が姿を現した。
王子は苦しむ兵士たちを一瞥すると、真っ直ぐに私を睨みつけた。その瞳には凍てつくような軽蔑の色が浮かんでいる。
「ユリア・クローバー。貴様、兵士たちに何を食べさせた?」
「わ、私はいつも通りに鶏肉のクリーム煮を……」
「嘘をおっしゃらないで!」
私の言葉を遮ったのはリリア様だった。その目には涙が浮かんでいる。
「わたくし、昨日から申し上げておりましたわ。ユリアの作る料理は栄養がないばかりか食べると力が抜けてしまう、と……。アルベルト様、きっとユリアはわたくしを妬んでこのようなことを……」
彼女はそう言ってアルベルト王子の腕の中に崩れ落ちた。見事な演技だった。
周りの者たちが私を疑いの目で見ている。
違う。私は何もしていない。しかし私の声は誰にも届かない。
王子はリリア様を優しく抱きとめると、私に向かって判決を言い渡した。
「聖女ユリア・クローバー。貴様を我が国の秩序を乱した毒婦として断罪する」
その声は驚くほどに静かだった。何の感情も乗っていない。だからこそその言葉の持つ冷たさが私の心臓を凍らせた。
「貴様のような出来損ないはもはや王宮に不要だ。本日をもって貴様を王宮から追放する。二度と王都の土を踏むことは許さん。辺境の地へ行き、そこで朽ち果てるがいい」
追放。
その言葉の意味を私はすぐには理解できなかった。
頭の中が真っ白になる。私が積み上げてきたものは、私のささやかな誇りは、たった一言でこうも簡単に崩れ去ってしまうのか。
弁明の機会など最初から与えられていなかった。
私は衛兵に両腕を掴まれ厨房から引きずり出された。最後に見た厨房の光景は、床にひっくり返った寸胴鍋と無残に散らばったクリーム煮の残骸だった。
わずかな着替えとなけなしの金貨数枚を渡され、私はたった一人で王都の門をくぐった。
これからどこへ行けばいいのか、どうやって生きていけばいいのか何も分からない。ただ涙だけが頬を伝って落ちていった。
どれくらい歩いただろうか。
街道脇の木陰に座り込み、私は膝を抱えた。悔しさと悲しさと、そして自分の無力さがごちゃ混ぜになって胸を締め付ける。
もう料理を作ることもできない。私の存在価値はもうどこにもないのだ。
その時ふと、幼い頃の記憶が蘇った。
病気がちだった母に私が作った不格好なスープを飲ませてあげた時のことだ。
『まあユリア。美味しいわ』
『ほんと?』
『ええ、とっても。これを飲むとなんだか体の奥から力が湧いてくるみたい。あなたの料理は人を幸せにする力があるのね』
そうだ。母はそう言って笑ってくれた。
私の力は出来損ないなんかじゃない。私の料理は人を幸せにできる。王宮や王子やリリア様がそれを認めなくても、その事実だけは変わらないはずだ。
……よし。
私は涙を拭いゆっくりと立ち上がった。
追放されたのならそれでいい。辺境へ行けというのなら行ってやろう。
王宮でなくたって料理は作れる。私を必要としてくれる人が、世界のどこかにいるかもしれない。
私は自分の力で生きていく。
料理人として。
辺境の地で私の新しい人生を、今度は自分の手で始めるのだ。
私は空を見上げた。西の空が夕焼けで赤く染まっている。それはまるでこれから始まる私の人生を、静かに祝福してくれているかのようだった。
私はもう振り返らないと心に決め、辺境へと続く道を一歩、また一歩と踏み出した。
◇ ◇ ◇
辺境の街は想像していたよりもずっと活気があった。
けれど行き交う人々の顔には、どこか深い疲労の色が浮かんでいる。厳しい自然、絶えない魔物の脅威。ここで生きていくのは決して楽ではないのだろう。
私は街の隅に長く使われていなかった小さな空き店舗を見つけた。なけなしの金貨でそこを借り、埃まみれの店内を必死に磨き上げた。そして小さな木の看板を掲げる。
『陽だまりの食堂』
私の新しい城だ。
開店初日。私は朝から市場へ出向き、少し傷んで安くなっていた野菜や、硬くて誰も買いたがらない猪の塊肉を仕入れた。普通の料理人なら頭を抱えるだろう。でも私には【グルメ聖水】がある。
祈りを込めた水に食材を浸すと野菜は瑞々しさを取り戻し、硬い肉は見るからに柔らかく美味しそうな肉質へと変化した。これこそが私の聖女としての本当の力だった。
店の看板メニューは王都でも作っていた「ごろごろ猪肉の野菜シチュー」。コトコト煮込むうちに店の外まで芳しい香りが漂い始めた。
最初は誰も見向きもしなかった。けれど昼時を過ぎた頃、その匂いに誘われて一人の猟師風の老人がおそるおそるドアを開けた。
「シチュー、一つお願いできるかい」
「はい、喜んで」
私は笑顔でシチューを差し出した。老人はそれを一口食べると驚きに目を見開き、そして夢中になって椀を空にした。
「うめえ……なんだこれ。体の芯から力が湧いてくるようだ」
老人は代金を払うと満足げな顔で帰っていった。
その口コミのおかげか一人、また一人と客が増え始めた。皆、私の料理の美味しさと食べた後に体が軽くなる不思議な効果に驚嘆した。
◇ ◇ ◇
そんな日々が何日か続いたある日のことだった。
店のドアが今までになく勢いよく開けられた。そこに立っていたのは全身からただならぬ威圧感を放つ一人の男性だった。
漆黒の髪に鷲のように鋭い灰色の瞳。顔や腕には無数の古傷が刻まれ、身にまとった黒い鎧はあちこちが傷ついている。まるで嵐そのものが人の形をとったかのような人だった。
彼の後ろには同じように疲弊しきった様子の騎士たちが数名控えている。
その威圧感に店にいた客たちが息を呑んだ。私も思わず体をこわばらせた。
男性は店内を見回すと、空いていた一番奥のテーブルにどかりと腰を下ろした。
「……シチューを。全員分」
低く地の底から響くような声だった。私はこくりと頷き、急いでシチューを用意する。
おずおずとテーブルに運んでいくと、彼の灰色の瞳が私を捉えた。その瞳の奥に信じられないほどの深い疲労が澱んでいるのが見えた。この人はきっとずっと戦い続けているのだ。心も体ももう限界に近いのかもしれない。
なんだか放っておけなかった。
私は厨房に戻るとシチューとは別に、小さなカップに特別なスープを注いだ。メニューにはない安眠効果と疲労回復に特化したハーブを煮出したものだ。私の聖水をほんの少しだけ多めに加えた。
「あの……」
私がそのカップを彼の前に差し出すと、彼は訝しげな顔で私を見た。
「これはサービスです。メニューにはないのですが、とてもお疲れのように見えたので……。いつもこの街を守ってくださってありがとうございます」
私は精一杯の笑顔でそう言った。
彼は一瞬だけ目を見開くと、何も言わずにスープのカップを受け取った。そしてシチューを一口、スープを一口と黙々と食べ始めた。
彼らが帰った後、店の客がこっそり教えてくれた。
あの人はこの辺境を治める領主にして騎士団を率いる、アレクシス・シュヴァルツ団長その人であると。
私はとんでもない人にとんでもないことをしてしまったのかもしれないと少しだけ青くなった。
◇ ◇ ◇
その日からアレクシス団長は店の常連になった。
任務の合間を縫ってほとんど毎日、一人で店にやってくる。そしていつも同じ席に座り、黙って私の料理を食べるのだ。
私たちはあまり言葉を交わさない。でも不思議と気まずくはなかった。
ある日、私が新しいパイの試作をしているとアレクシス団長が店に入ってきた。
「あ、団長さん。よかったらこれ、味見していただけませんか?」
私は思い切って声をかけた。彼は少し驚いた顔をしたが、こくりと頷く。
焼きたてのキノコのパイを差し出すと、彼は大きな手でそれを掴み一口食べた。そして難しい顔で何かを考え込んでいる。
「お口に合いませんでしたか……?」
「……いや。美味い。だがもう少し塩気があってもいいかもしれん。戦いの後には塩分が欲しくなる」
ぶっきらぼうな口調だったが、それは驚くほど的確なアドバイスだった。
「ありがとうございます。参考にします」
私がお礼を言うと彼は「ふん」と鼻を鳴らして顔をそむけた。その耳が少しだけ赤くなっているように見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
また別の日には、彼が狩りで獲れたという珍しい鳥の肉を持ってきたことがあった。
「……これ、やる。どう使うかはお前に任せる」
そう言って無造作にカウンターに置かれた包み。どうやら私へのプレゼントのつもりらしい。不器用な優しさに私の胸は温かくなった。
非番の日には鎧ではなく簡素なシャツ姿で現れることもあった。いつもと違う雰囲気に私はどうしようもなくドキドキしてしまった。
言葉は少ない。けれど私が重いものを運んでいるといつの間にか後ろにいて黙って奪い取っていく。店の周りをうろつく柄の悪い輩がいると、店の入り口に立つだけで追い払ってしまう。
その無骨で不器用で、けれど確かな優しさに、私は少しずつどうしようもなく惹かれていった。
私のこの気持ちはなんだろう。
ただの感謝だろうか。それとも……。
答えの出ない問いを胸に抱えながら、私はアレクシス団長のために料理を作り続けた。彼が「美味い」と一言だけ呟いてくれる、その瞬間を心待ちにしながら。
穏やかで温かい日々。
この幸せがずっと続けばいい。私は心の底からそう願っていた。
けれど運命は、私たちにそれほど長く平穏な時間を与えてはくれなかった。
◇ ◇ ◇
その日、辺境の空は不気味なほどの静寂に包まれていた。
突如、街中に警鐘が鳴り響く。それは最大級の災厄を告げる音だった。
「魔物の大発生だ! しかも様子がおかしい!」
騎士団の伝令が血相を変えて街を駆け抜けた。
私も店の外へ出た。森の方角を見ると黒紫色の不気味な霧が、ゆっくりとこちらへ広がってくるのが見える。あれはただの霧ではない。濃密な魔力の瘴気だ。
「ユリア殿、店の中にいろ。絶対に外へ出るな」
いつの間にか隣にいたアレクシス団長が低い声で言った。彼は既に完全武装している。その表情は鋼のように硬い。
「団長さん……」
「今回の敵はこれまでとは違う。いいな、絶対にだ」
彼はそう念を押すと騎士団を率いて霧の中へと駆けていった。その背中を見送りながら、私は自分の無力さに唇を噛んだ。
戦いは熾烈を極めた。
霧の中から現れたのは、生命を蝕む亡霊と名付けられた実体を持たないボス級の魔物だった。その魔物が放つ黒紫色の霧は人々の生命力を直接吸い取る呪いの効果を持っていたのだ。
霧の中で戦う騎士たちは傷を負わなくとも、みるみるうちに気力を失い倒れていった。ポーションも治癒魔法もほとんど効果がない。
騎士団は絶望的な状況に追い込まれていた。
街の臨時救護所にも次々と兵士たちが運び込まれてくる。誰もが青白い顔で虚ろな目をしていた。
その中にアレクシス団長の姿を見つけた時、私の心臓は凍りついた。彼は側近の騎士に肩を担がれ、その左腕からはおびただしい量の血が流れている。霧の呪いのせいで傷が全く塞がらないのだという。
「……団長さん」
「ユリア殿……なぜここに……。来るなと言ったはずだ」
彼は苦しげに息をしながら私を制した。
「でも……」
「我々のことはいい。君は安全な場所へ……」
その時、私の中で何かが決壊した。
ここでこの人を死なせるわけにはいかない。
この街を守ってくれている、この優しい人を失うわけにはいかない。
「嫌です」
私ははっきりとした声で言った。
アレクシス団長が驚いたように私を見る。
「私の料理を食べればきっと元気になります。だから私が最前線の野営地へ行きます。そこで皆さんのために料理を作ります」
「馬鹿を言うな! 危険すぎる!」
彼が声を荒らげた。彼が感情を露わにするのを私は初めて見た。
「死んでしまったら、もう私のシチューを食べられなくなってしまいますよ。団長さんがいなくなったら私の食堂、寂しくなってしまいますから」
私の目から涙が一筋こぼれた。
それは悲しみの涙ではなかった。決意の涙だった。
アレクシス団長は私の言葉に一瞬息を呑んだようだった。そして何かを諦めたように深く息をついた。
「……分かった。だが無茶はするな。俺が必ずお前を守る」
◇ ◇ ◇
私は街の人々から分けてもらった食材を山のように積み、騎士団の護衛と共に最前線にほど近い野営地へと向かった。
そこはまさに地獄だった。
黒紫色の霧が立ち込め、あちこちで兵士たちの呻き声が聞こえる。
けれど私は怖くなかった。
私はすぐさま大きな鍋を火にかけ料理を作り始めた。特別なハーブと私の【グルメ聖水】をたっぷりと使った「超活性化スープ」。生命力を直接呼び覚ます私の全霊を込めた一品だ。
スープの温かい香りが、絶望的な空気に満ちた野営地に少しずつ広がっていく。
スープを飲んだ兵士たちの顔に、ゆっくりと血の気が戻り始めた。
「……力が湧いてくる」
「傷が……痛まなくなってきたぞ」
奇跡のような光景だった。私の料理はこの呪いの霧に対抗できる唯一の希望なのだ。私は休むことなくひたすら料理を作り続けた。
「ユリア殿!」
スープで回復したアレクシス団長が私のそばへ駆け寄ってきた。
「君のおかげで皆戦える。だが大元のボスを叩かねばきりがない」
「はい」
「俺が行く。奴を仕留めてくる」
彼の灰色の瞳が真っ直ぐに私を見据える。その瞳にはもう迷いはなかった。
「団長さん……」
「君はここで俺のために祈っていてくれ。……いや、最高のスープを作って待っていてくれ。必ずそれを飲みに戻ってくる」
彼はそう言うと剣を抜き、亡霊のボスが潜む霧の最深部へと一人で突撃していった。
私は彼の背中を見送りながら、彼のためだけの一杯を作るべく再び鍋に向き合った。
これは二人の戦いだ。
彼は剣で。私は料理で。
絶対に彼を死なせはしない。
私は持てる力の全てを、目の前の一杯に注ぎ込んだ。
私の聖女としての全ての力を。
◇ ◇ ◇
霧の奥深くでアレクシス団長は死闘を繰り広げていた。
生命を蝕む亡霊は実体を持たず、剣による攻撃はほとんど効果がない。逆にその身から放たれる呪いの霧は、じわじわとアレクシス団長の生命力を奪っていく。
野営地で戦況を見守っていた私も彼の苦戦を肌で感じていた。胸が締め付けられるように痛い。
大丈夫。団長さんならきっと……。
私は祈るような気持ちで、彼のためだけの一杯を完成させた。
黄金色に輝く澄み切ったコンソメスープ。私の持てる力の全て、聖女としての祈りの全てを注ぎ込んだ【生命の光のコンソメ】だ。
「副団長さん、これをお願いします!」
「分かった!」
私が託したスープの椀を、副団長が決死の覚悟で霧の中へと運んでいく。
どうか、届いて。
◇ ◇ ◇
アレクシスは膝をつきそうになるのを必死でこらえていた。
体の感覚が鈍くなり視界がかすむ。これが生命力を奪われるということか。もはや剣を振るう力も残ってはいない。
ここまでか。そう思ったその時だった。
「団長! お持ちしました!」
副官が傷だらけになりながらも一つの椀を差し出した。中には黄金色に輝く液体がなみなみと注がれている。ユリアの作ったスープだ。
アレクシスは最後の力を振り絞りそれを受け取ると、一気に飲み干した。
瞬間、体の内側からまるで太陽が昇るかのような熱い力が迸った。
失われた生命力が急速に満ちていき、霧の呪いが浄化されていく。それだけではない。力が以前よりも、いや、これまでの人生で最も漲ってくるのを感じた。
これが彼女の本当の力……。
「うおおおおっ!」
アレクシスは雄叫びを上げた。彼の黒い鎧がスープの光を受けて白銀に輝き始める。剣に聖なる力が宿り、まばゆい光の刃を形成した。
彼は地を蹴り亡霊へと突進する。実体のないはずの敵に聖なる刃が、確かに斬撃を与えた。
亡霊が断末魔の叫びを上げた。
アレクシスは渾身の力を込めて光の剣を振り下ろす。
一閃。
世界が白く染まり、黒紫色の霧がまるで夜明けの光に溶けるように綺麗さっぱりと晴れていった。
◇ ◇ ◇
霧が晴れた戦場に朝日が差し込み始めた。
生き残った騎士たちが勝利の雄叫びを上げる。野営地も歓喜に包まれていた。
良かった……。本当に良かった。
私はその場にへなへなと座り込んだ。全身の力が一気に抜けてしまったのだ。疲労と煤で顔も服も真っ黒だった。
その時、一人の人影がまっすぐに私の方へ歩いてくるのが見えた。
アレクシス団長だった。
彼は私の目の前で足を止めると、ゆっくりと膝をつき私と視線の高さを合わせた。
そして次の瞬間。
彼は何も言わずに、私の泥だらけの体を力強く抱きしめた。
「え……団長さん?」
驚いて彼の顔を見上げると、その鋼のようだった表情が見たこともないほどに歪んでいた。
「……君を失うかと思った」
彼の声は今まで聞いたことがないほど切実に震えていた。
その声に含まれた感情の全てを理解してしまい、私の目からは堰を切ったように涙が溢れ出した。私も彼のたくましい体にそっと腕を回した。
もうこの気持ちに嘘はつけない。私はこの人が好きなのだ。
夜明けの光の中、私たちはしばらくの間ただ静かにお互いの温もりを確かめ合っていた。
◇ ◇ ◇
戦いが終わって数日後。辺境の街はすっかり平穏を取り戻していた。
私の「陽だまりの食堂」も営業を再開し、以前にも増して大繁盛している。私は今やこの街の英雄、「陽だまりの女神」などという少し照れくさいあだ名で呼ばれていた。
そんなある日、王都からの使者が店を訪れた。
「聖女ユリア・クローバー殿。アルベルト王子殿下がお呼びです。急ぎ王都へお戻りいただきたい」
使者は尊大な態度でそう言った。
王都では私が去った影響で国の活力が失われ、リリア様が偽聖女であることも露見し大変なことになっているらしい。自業自得だ。
私が返答に困っていると、店の入り口に大きな影が立った。アレクシス団長だった。
「断る」
彼は地を這うような低い声で言った。
「彼女はもはや王国の所有物ではない。この辺境の、そして……俺の宝だ。二度と彼女に関わるな。失せろ」
その凄まじい気迫に使者は悲鳴のような声を上げて逃げ帰っていった。
その夜。
店の片付けを終えた私に、アレクシス団長が改まった様子で向き直った。
「ユリア」
「はい」
彼は少し躊躇うようにポケットを探ると、一つの小さな木の箱を取り出した。
箱の中には指輪が一つ納められていた。王都で見るようなきらびやかな宝石ではない。けれど温かみのある銀色の金属に、辺境の夜空を思わせる深い青色の石がはめ込まれている。とても素敵な指輪だった。
「王都の宝石は買えん。だがこれは俺の土地で採れた一番硬い鉱石で作らせた。どんな魔物からもどんな権力からも、必ず君を守るという俺の誓いだ」
彼は私の手を取ると、その指輪を薬指にそっとはめてくれた。サイズはぴったりだった。
「ユリア。俺のために毎日食事を作ってくれとは言えん。君の料理はこの街の皆を元気にするものだからな」
彼は一度言葉を切ると、私の目をまっすぐに見て言った。
「だが……君のいない食卓はもう考えられない。俺の妻になってほしい」
不器用で飾らない。けれど彼の全てが詰まった言葉だった。
私は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、人生で一番大きく頷いた。
「……はい。喜んで」
アレクシス団長は安堵したように息をつくと、私を優しく引き寄せその唇を重ねた。
それはシチューのように温かくて、焼きたてのパンのように甘い味がした。
追放された出来損ないの聖女は、今、世界で一番の幸せ者だ。
「陽だまりの食堂」は今日も辺境の地でたくさんの人々のお腹と心を満たしている。そしてそのカウンターの隅の席には、妻の作る料理を世界で一番幸せそうな顔で頬張る、不愛想で優しい騎士団長の姿が必ずあるのだった。
★聖女ものの新連載始めました★
「追放された聖女は、森の奥で歴代最強の先代聖女たちに溺愛される ~お菓子作りしてたら王国が勝手に滅びかけてるけど、もう知りません~」
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