7
午後。大学の講義を一本終えたあと、俺は寄り道をせず、そのまま歩いて帰路についた。
ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見ると、松林凛からだった。
「進捗どう? 残り五日」
それだけの、素っ気ないメッセージ。
文字に焦りも煽りもなかったのに、なぜか心臓のあたりがぐっと締めつけられた。
「……残り、五日」
口の中で繰り返す。
小さく呟いたその言葉に、ようやく実感が伴ってくる。
“あの依頼”の期限まで、あと五日。
十件の話を集める約束。今、俺の手元にあるのは六件。
このペースじゃ、到底間に合わない。
あと四件、どうしようか。
ここで投げ出すのもアリ。だけど、せっかく半分まで来たんだし最後まで頑張りたい。
それに、報酬。大学4年間の授業料分だって待っているんだ。
気がつくと、俺は目的地もなく歩いていた。
自分のアパートを通り過ぎて、住宅街の奥の細い道へ入り、見覚えのある路地へと導かれていた。
その先には、公園がある。
団地の裏手。駅からも遠くて、近所の子どもしか来ないような、小さな公園。
色が剥げているカラフルな滑り台。そしてブランコとベンチ。
ここには、昔よく来ていた。
気づけば、ブランコの前に立っていた。
風が鎖を揺らし、チリン、と小さな金属音が鳴る。
目の前の光景に、記憶がゆっくりと再生を始める。
断片的だった幼い記憶が、風の中でかき集められて、ひとつの物語になる。
それは、小学五年生の夏の終わり。
俺は、ここで一人、ブランコをこいでいた。
友達が少なかった俺にとって、公園は唯一気楽にいられる場所だった。
「お兄ちゃん、ここでひとり?」
声をかけられて顔を上げると、そこに女の子が立っていた。
年は、俺より少し下だったかもしれない。
白いワンピースに、赤いリボン。
その色だけが、妙に鮮やかだったのを今でも覚えている。
「この公園ね、夜になると誰もいなくなるよ。だから、秘密をしても、大丈夫」
彼女はそう言って笑った。
無邪気なようで、どこか含みのある笑い方だった。
彼女はブランコの裏にある古い倉庫の扉に手をかけると、ギィ、と音を立てて開けた。
中は真っ暗で、埃っぽい空気が流れてきた。
「中、見たい?」
そう言われた瞬間、なぜか強烈な拒絶反応が起きた。
見てはいけない。直感的にそう思った。
俺は何も言わず、首を横に振った。
彼女は少しだけ口を尖らせて、ぽつりとつぶやいた。
「お兄ちゃん、きっと忘れるタイプだね」
その瞬間、記憶はぷつりと途切れる。
気づけば、彼女の姿は消えていた。
それから数日後、町内で「赤いリボンの女の子が行方不明になった」という話がニュースで流れた。
母は「うちの近所よ」と心配そうにテレビを見ていたけど、俺は何も言えなかった。
いや、言わなかったのかもしれない。
そのときの俺は、あれが現実だったのか夢だったのか、はっきり分からなくなっていた。
ずっと、忘れていた。
なのに今になって、なぜだろう。
ブランコの前に立ったこの瞬間、あの赤いリボンが風にひらめく映像だけが、異様にくっきりと蘇ってきた。
記憶じゃない、誰かの話として書けないか。
俺はスマホを取り出し、メモを開いた。
第七話:「赤いリボンの女の子。団地裏の公園で出会った少女。夕暮れ、倉庫の中へ誘われたが拒否。
数日後、似た少女が行方不明に。今でも公園で赤いリボンを見たという噂が……」
書き終えると、何気なく顔を上げた。
そして、目の前のブランコに、風にたなびく赤い“何か”が、一瞬見えた気がした。
でも、それは視界の端で揺れた木の葉かもしれないし、夕陽の反射だったかもしれない。
誰もいない公園に、俺はしばらく立ち尽くしていた。
もう、他人の話だけじゃ、足りないのかもしれない。
俺自身が持っていた“何か”に、手を伸ばすときが来ているのかもしれない。
風が止み、あたりは静まり返っていた。
俺は小さく深呼吸をして、帰路に着く。