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松林にA4のコピー用紙を貰ってから、3週間ほどたった。
周りの人たちのおかげで、なんとか半分まで書くことができたが、それでもあと5枚紙が残っている。
ネタ不足……そんな言葉が頭をよぎる。
松林も、もしかするとこういう気持ちで俺に頼んだのかもしれない。
締め切りまで残り1週間弱。
いつも授業のレポートを締め切り日に出すクセがついているせいか、危機感や焦燥感はなかった。
そんな金曜日のバイト終わり、俺は更衣室で着替えていると店長が部屋にやって来た。
「あ、お疲れ様です」
俺が挨拶すると、「お疲れい!」といつもと変わらない挨拶をしながら頭に巻かれているバンダナをほどき始めた。
第一印象50歳。
白髪とシワが少し店長という立場の大変さを語っているようだが、こう見えてまだ35歳らしい。
店長は、自分のロッカーを開けて着替え始める。
油ぽい厨房の香りが部屋に広がる。
「あの、店長。最近……いや、最近じゃなくてもいいんですけど、店長が体験した不思議な話とか、怖い話とかありますか?」
なんで、店長に聞いたのか自分でも分からない。
無意識に聞いていたんだと思う。
店長は俺の方を向き、一瞬何かにためらう様子を見せた。
そして、ゆっくり口を開く。
「なあ、沖山。お前、怖い話とか好き?」
時計はすでに深夜0時を回っている。ドリンクマシンの清掃をしていた手の匂いが、まだ指先に残っていた。
「……まあ、嫌いではないですね」
「ふーん。じゃあ、ちょっと聞いてくれよ。最近、ちょっと気味悪いことがあってな。俺さ、ちょっと前に家で変なもん見ちまってさ」
「……変なもん?」
「鏡、だよ。洗面所の。あれで、妙なもん見たんだよ」
店長はそう言って、口元にうっすらと苦笑を浮かべた。おどけてるように見えなくもなかったけど、目の奥だけは笑っていなかった。
「夜中の三時ごろだったかな。トイレに目が覚めて、ついでに台所で水飲んだんだよ。で、その帰りに洗面所の前を通ったとき、ふと鏡が視界に入ったんだ。電気は消えてた。部屋も真っ暗でさ。でも、鏡が……ぼんやり明るかった」
「え、電気ついてないのにですか?」
「そう。月明かりでも反射してたんじゃねえのって思ったけど、窓なんてないしな。でさ、その鏡の中に映ってたんだよ。俺が。はっきりと」
俺は、ズボンをはきながら、無意識に手を止めていた。
「そりゃ、鏡なんだから映るんじゃ……」
「違うんだよ。俺、止まってないんだ。歩いてたはずなのに、鏡の中の“俺”はもう立ち止まって、こっち見てたんだよ。先に、こっちを見てた」
店長は、そう言いながらゆっくりとシャツのボタンを留めていく。
普段は冗談を交えて話すタイプなのに、今は違う。どこか、確認するように、自分の記憶をなぞるようにして話していた。
「しかもさ、そいつ、笑ってたんだよ」
「笑ってた?」
「ああ。俺はそのとき、眠気で半分ぼーっとしてたのに、鏡の中の俺は、ニヤニヤって笑ってて。しかもその笑い方が……全然、自分じゃない。口元は笑ってるのに、目がぜんぜん笑ってないんだ。あれは、俺の顔じゃなかった」
「……怖いですね、それ」
「怖いっていうか、気味悪いんだよ。背筋がゾワっとして、すぐに部屋の明かりつけて見直したんだけど、そんときにはもう普通の俺だった」
「夢、ってことは?」
「そう思ったよ。でも、翌朝になってさ、鏡にタオルがかけてあったんだよ。俺がやったらしい。でも記憶にない。無意識のうちに、あれを見た“俺”が怖くて、隠したのかもしれない」
俺は、かすかに鳥肌が立つのを感じた。
「……他にも、似たようなことあったんですか?」
「最近一回だけ。仕事から帰ってきて、鏡の前でシャツ脱いでるときにさ、チラッと見えたんだよな。そいつが。鏡の中の俺が、俺より半テンポ早く動いてた気がして。……俺より、先に、シャツ脱いでた」
しばらく、二人の間に沈黙が流れた。
「店長」
「ん?」
「もしかして、そっちが“本当の”店長だったりして」
冗談っぽく笑って言ってみたが、店長は苦笑したまま、鏡のないロッカーに向かっていた。
「だとしたら、俺って、けっこうヤバい奴だな」
俺も同じように笑ってみせたが、心の奥では別のことを考えていた。
俺の家の姿見。朝、出かける前に見たとき、前髪が乱れていた。
でも、鏡の中の俺は、ちゃんと整っていた気がする。
俺はスマホを取り出し、メモ帳アプリに手短に書き留めた。
「第六話:鏡の中に“自分”がいる。だが、何かが違う。目線、笑み、動き。その存在は、こちらを監視しているようで……」
その夜。家に帰って歯を磨いたあと、ふと、洗面所の鏡を見た。
俺の顔が、わずかに口角を上げた気がした。
でも、それはきっと、気のせいだ。