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その日、俺はゼミ終わりにキャンパス内のカフェで、山川と話していた。
「でさ、お前、あの松林って作家に気に入られたってマジ?」
「うん、まあ……そういう話にはなったけど。まだよく分かんないけどね」
松林とのことは誰にも言ってないのだが、あの日、研究室で俺が出て行ったあとに、松林が部屋を出たところを同じゼミ仲間の高橋が見たらしく、そこから俺は松林に気に入られたという噂が広まっている。
実際は気に入られたというより、割のいいバイトをしている気分なのだが、一応秘密厳守なので俺は適当に誤魔化している。
「すげえなあ、俺もサインとか貰えばよかったわ」
山川は、僕の中では数少ない“話の合う”友人だ。
彼の話はくだらない時もあるけど、妙に印象に残ることが多い。
先週話してくれた、山川の友人・田村さんの話も、A4用紙に書けるネタになったし。
「そういえばさ、沖山。最近、携帯に無言電話かかってきたりしない?」
「無言電話? ……いや、ないけど。なんで?」
山川は、突然不安そうな表情をする。
「俺、今週に入ってから三回くらいあったんだよ。番号は全部非通知。で、出たらさ……“呼吸音だけ”なんだよ。なんか、電話口でずーっとスゥ……ハァ……って。三分くらい」
「え、キモすぎる。いたずら電話じゃなくて?」
「そう思ったんだけどさ、内容が全部違うんだ。
一回目はスピーカーっぽい感じで、距離感があったんだけど、
二回目は……近い。ほんと、耳元でされてるみたいな息遣いだった」
山川の表情が少しだけ固くなる。
「三回目のときは、電話の向こうで、ガタンって音がして、小さく“……見てるよ”って聞こえた気がした。気のせいかもだけど、俺、本気でゾッとしたよ」
「録音とかは?」
「録ってない。パニくってすぐ切っちゃったし。
でも、その後、俺の部屋のポストに“黒い封筒”が入ってたんだ。宛名も差出人もなし。開けたら、中は空。何も入ってない」
「……それ、警察とかには?」
「行くほどでもない気がしてさ。
でも、変なことに……その封筒の紙、どっかで見たことある気がするんだよな」
「どこで?」
「うーん……分かんない。でも、なんか“知ってる紙”って感じがして、妙に気味悪くてさ」
彼の話は、少し大げさなところもあるけど、今回は珍しく本気に聞こえた。
それに、呼吸音だけの電話というのは、妙に生々しく、想像するだけで背筋が寒くなる。
「最近はかかってきてないの?」
「うん。三回目以来ぱったり。でも、また来るんじゃないかって思って、夜、寝付き悪くなってる」
山川はコーヒーを一口飲んだあと、少しだけ間を置いた。
「俺、思うんだけどさ……あれ、“誰か”がちゃんと聞いてるんだよ。
俺が出るのを待って、呼吸だけ聞かせて、反応を試してるみたいな……無言だけど、向こうの“意志”を感じた」
「なるほど……それ、創作のネタになりそう」
俺は思わずそう漏らしてしまった。
山川は苦笑いをして、「お前、まだ創作のネタ探してんのかよ」と肩をすくめた。
俺が部屋に戻ったのは夜の九時過ぎだった。
コンビニで買った冷めかけのチキンと、冷蔵庫から取り出したビール缶をテーブルに並べる。
大学生の夜なんて、大体こんなものだ。
テレビもつけずに座って、さっきの山川の話を頭の中で反芻する。
非通知の着信。呼吸音。黒い封筒。
山川の話はいつもどこかオチが曖昧だけど、今回ばかりは妙にリアルだった。
あの、「……見てるよ」という言葉だけが、耳の奥にこびりついて離れない。
──そのとき。
スマートフォンが震えた。
【松林 凛】
着信画面に表示された名前に、俺は反射的に背筋を伸ばす。
「──はい、沖山です」
『ああ、出た? よかった。今、時間いい?』
この前と同じく低く、どこか芝居がかった声だった。
「大丈夫です。……こんばんは、先生」
『先生じゃなくていいよ。松林で』
電話越しの声は、相変わらずこちらの調子を探るように、間を挟んでくる。
『進捗、どう? 例の“十枚”の件』
「ええと……まだ二つ目まで書いてます。今日、三つ目のネタは聞いてきたところで……」
『ふん。なるほどね。思ったより遅いけど、まあ、初回にしては悪くない。』
その言い方が、褒めてるのか試してるのか分からない。若干腹が立つ。
俺は言葉を探しながら訊ねた。
「やっぱり……この話って、どこかに載るんですか? 小説に?」
『うん、使うよ。もちろん。ただし、どこにどう使うかは──僕が決める』
少し笑うような声音で、松林は言った。
『君が今集めてる話は、君のフィルターを通している。
それが面白いんだ。つまり──“君が何をどう受け取るか”を見たいわけ』
「俺が、どう受け取るか……」
『そう。僕の仕事って、世界をどう捻じ曲げて描くかだから。
でもね、それには“素材”が必要で、そこに君がちょうどいい』
なんとなく言葉の奥に含まれている“気味の悪さ”を、俺は感じ取っていた。
けれどそれ以上に、この仕事は妙に僕の心を刺激していた。
「……あの、松林さん。最初に言ってた報酬って、ほんとに、授業料くらいもらえるんですか?」
『もちろん。約束は守るよ。むしろ、お金が目的じゃないんでしょ?』
「え?」
『君はきっと、“誰かに自分の内側を見せたい”タイプだ。
でも、自分では気づいてない。違う?』
質問のように言うが、答えを求めていない。
そういう言い方をするところが、松林という人物の一番嫌なところだ。
「……どちらかというと、人に見られるのは苦手です」
『だろうね。けど、不思議と、文章は“見られたがってる”んだよ。──ま、いいや。ちゃんと十枚、仕上げておいで。期限は動かさないよ』
そのまま一方的に通話は終わった。
スマートフォンの画面を見つめたまま、俺はさっきの言葉を、もう一度だけ頭の中で繰り返していた。
「君はきっと、“誰かに自分の内側を見せたい”タイプだ」
──そうだろうか。
俺はただ、不思議な話を拾ってきているだけのつもりなんだけど。