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Dear. Your Darkness  作者: 神衣舞
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4

 これは長大な物語。

 全ては神を────世界を欺くための物語。

 正しく語られてはならない。

 語ることは他者に伝える事。

 だが、同時にそれは嘘という名のヴェールを広げる儀式でもある。

 ゆえにこの話は長く一人の男と三冊の本、二人の息子とその繁栄を語る物語であった。


 その裏が今、浮き彫りになる。


 雌伏の時は終わった。

 これより、物語は世界に戦いを挑む。

 『壊れて育った力』と『空っぽのイレモノ』

 『全てを失った姫』と『全てを求める魔女』

 ──そして『望まれぬ破綻者』と『望まない調整者』

 登場人物は踊る。

 因果の網目は広がり、あらゆる者を絡め取りながら。




 リリー・フローレンス。

 名前に勝る可憐な少女は『表裏』という言葉の体現者である。

 人は彼女を『お嬢様』と呼ぶ。

 莫大な財産を持つフローレンス家の娘なのだが無理もない。

 人は彼女を『悪魔の子』と呼ぶ。

 その莫大な財産は数多の血と嘆きと屍から作られた物だから。

 またある人は彼女を『清楚でおしとやかな女性』と称する。

 いつも微笑みを絶やさぬ丁寧な商売人であると。

 またある人は彼女を『残虐で慈悲を知らぬ悪鬼』と罵る。

 ありとあらゆる手を惜しみなく使い、金を奪い去る詐欺者だと。


 彼女は定められた日、定められた時に生まれた子である。

 一族から『白の洞』と呼ばれる場所で産声を挙げた。

 立ち会うは『緑』と『黒』の両頭首。

 そして『白の本』。

 産まれる前から生きる意味を定められた、そんな存在の誕生。

 一族にとっては呪縛からの開放を託すための子であった。


 彼女の両親は『黒』に属する。

 ただし生まれてすぐに彼女は『緑』の家に引き取られた。

 『黒』と『緑』。

 元は対等であるはずの両家だが、次第に汚れ仕事専門の『黒』は『緑』から蔑みを受けるようになっていた。

 だが『黒』は『黒』であることをやめられない。

 その反逆への代償は両家の知るところだ。

 そんな状況の中、公然と『緑』に引き取られた彼女は苛烈な環境に叩き込まれた。

 子供の純粋な悪意。

 大人の過度の期待。

 そして堆積したヘドロのような思い。

 形作られる前の人格にそれは容赦なく襲い掛かり、彼女は自己を破綻させた。


 壊れた少女が心の残骸で創り上げたのは世界を呪う事で傷を舐め、噛み付くことで傷を隠し、笑顔という壁紙で全てを覆い尽くしたガラクタ人形。


 ある日『緑』の子が行方不明になり、次の日に心神喪失状態で見つかった。

 外因的な傷はほとんどなく、しかし心は完全に破壊し尽くされ、発見されたときには糞尿と、己でかきむしった傷で見るに耐えない有様だった。

 原因はすぐに究明された。

 その『緑』の子は同年代の筆頭格であり、かつてからリリーを苛めては悦に浸っていた。

 行方不明になった日も二人が一緒に居たのが目撃され、そして彼は『そう』なった。

 大人が問いただすと、彼女はどきりとするような自然で美しい笑みを浮かべて歌うように語った。

 それは茶番劇。

 小道具は絵の具とスコップ、そしてナイフ一本。

 足を挫いた少年が『毒の付いたナイフ』に怯え、壊されていく話。

 言葉───英才教育で培われた話術は年上ゆえの腕力で威張ることしか知らない子供には未知の猛毒だった。

 動けない。

 そして死の恐怖。

 暮れ行く景色、目の前の狂気。

 黒いナイフと見る間に『黒く、壊死していく皮膚』

 じわじわと、まるで秒針が刻むように、魂と心を刻んでいく行為。

 淡々としているのに人を牽きつける話術を用いて語る話に、数人の大人は顔を蒼白にしてその場を後にした。

 最後に大人は聞いた。


「何故このようなことをしたのか」と。


 すると少女は一本の瓶を取り出して微笑んだ。


「本物も用意したのに、殺すだけの価値もなかった」


 それは『黒』でも滅多に使われない、暗殺毒。

 秘伝とも言うべきそれを持ち出していることがまずありえない。

 それをどうやって入手したのか。問いただす大人たちをすまし顔で無視した彼女は最後に完璧な微笑を添えてこう、言った。


「情報は財産。

 聞かれたからと喋っていては身に付く金はどこにもない」


 商人であり、彼女の教師たらん大人たちはそれ以上の言葉を失い、同時に戦慄した。

 それと同時に、これが『白』を持つべき者、果てしない鎖から開放する者と感嘆した。


 リリー・フローレンス──────百合の花。

 白く凛々しい一輪の花はその日、初めて『白の本』を開いた。




「この森はこんなに化け物だらけなのか?」


 思わず聞いて、「んなわけねーか」と吐き捨てる。


 もしそうなら当の昔に討伐隊がこの森に踏み込んでいるし、このあたりの生態系は破綻しているだろう。

 そう確信させる程に、出くわす『森の番兵』一つひとつが弱肉強食のトップに立てるだけの凶悪な能力を秘めていた。

 その全てを撃退して何だが、未だ『森』ではないとすれば戦慄も少なからず走る。


「魔女様の熱烈な歓迎ってところか。

 まぁ、つまり『森』から出る方法があるってこったなぁ」


 にやけ笑いを浮かべながら一閃。

 狐に似た化け物は紫の毒液を撒き散らしながら命の炎を吹き消された。


「っ!?」


 不意に女が悲鳴を上げて左腕を抑える。

 見ればその毒液のしぶきがまだらに飛び散ってしゅうしゅうと皮膚を焼いている。


「じぇ、ジェフ!」

「きぃつけろや」


 欠片の興味も持たず一言。

 続く余りにもぞんざいな扱いに顔を真っ赤にするが、逆らう術など女にはない。

 と、不意に痛む腕への感触に心臓を掴まれたように顔を引き攣らせる。

 咄嗟に腕が動きかけて────それが発端の少女だと知り、今度は八つ当たりも含めた怒りが爆発する。


「強酸毒。

 放っテおけバ、骨まデ穴が開ク」


 不穏な一言。

 沸点に達していた感情が一気冷まされた。

 そんなことは微塵も気にした風でないクルルは丁寧に処置を続けている。

 塗りたぐられたのは白いクリーム状のもの。

 手際よく塗りつけ、包帯が見る間に捲かれていく。

 まるで他人事のように、目の前で行われている行為を眺め、同時に深い安堵を覚えている自分に気付いて視線をそらす。


「終ワり」


 薬を手際よく片付け、再び先頭を歩こうとする少女。

 女は揺れる瞳で睨みつけ、それから視線を落とす。

 一瞬のうちにいろんな感情が脳裏を巡ったためか、妙に冷めてしまったのだろうか。

 腕の痛みはかなり和らいだが、動かそうにも重い。

 傷のせいではない。

 心のせいだ。

 叫びたい衝動が喉元まで込み上がり、やはり飲み下す。

 今、何を言ってもその言葉は彼には届かない。

 自分の言葉は、自分の価値はそれっぽっちのものなのだ。

 それをこの数日間で嫌と言うほど見せ付けられた。

 今も時間が勿体無いとばかりに歩を進める巨体がある。

 その更に前を歩く『魔女』は案内する道具でしかないのだろう。

 だがその顔に目立った表情が浮かぶことはない。

 あれだけ嫌悪を露にして接している自分に、本当に『必要だから』だけの理由で手当てをした。

 自分もあの女のように道具になりきれば楽なのか。

 そもそも、そうまでして自分はあの男の傍に居なければならないのか?

 浮かぶ葛藤が視界を狭める。

 じりじりと嬲るような痛みが辛うじて現実を失わせないでくれる。

 強風に煽られる風車のように羽根の一枚一枚が荒れ狂う思いとしてくるくる回る。


 私は──────

  私は──────

   私は ──────


 不意に男が立ち止まり、振り返る。

 前後不覚になりかけていた女は慌てて立ち止まり、苛立ちから悪態を付こうとして、小さく聞こえる声に同じく振り返る。


「面白いな」


 男が獰猛な笑みを浮かべた。

 心の底から、愉快そうに。

 その声は確実に大きくなり、そして誰の物か十分に判断できるものとなる。


「おい、この森には順路があるんじゃねえのか?」

「『森』に入ルには」


 何の戸惑いもなく、さらりとした答えに男は肩を竦めた。


「つまり、このまま進めばあいつだけ『森』に入れないと?」

「同行すレば入れル」

「は、大したインチキだな、小僧」


 まだ姿の見えぬ小僧を仰ぎ見てジェフは周囲を見渡す。恐らく自分が剣を振り回すのに十分かを確認しているのだろう。

 幸いと言うべきか、大きく移動しなければ問題はない広さがある。

 そしてあの力量差からすれば、そこまでの手間は必要ないだろう。


「随分と気に入ったみたいだね」


 思わず悪態ともつかない言葉がこぼれた。

 しかし気にする風でもなく男は「ああ、それなりに」と笑う。


「多分あいつは死んだろうからな。

 その気があるなら連れ回すのも面白い」


 一瞬何のことだろうと考え、途中でわかれた仲間の事を思い出す。


「なんだ、気付かなかったのか。

 奴ら、逃げたんじゃなくて恨めしそうに見てたんだぜ?」


 インジブルなんとかとかいう見えないヤツの事だと気付き、血の気が失せる。

 反応すらできず腰を抜かしたあいつが一人で何かできると思えない。


「見殺しにしたのかい?」

「残ると決めたのはヤツだ」


 一転、つまらない事を聞くなとばかりに顔をしかめる。

 迷いの森と言われるこの地であの声は真っ直ぐにこちらへ向かってくる。

 自分達はかなりうろうろとこの森を進んでいたはずだ。

 それを一直線に走って遭遇するなどどんな偶然か。


「くるるー!」

「ん」


 頭の悪い呼びかけが明確な言葉に聞こえる。


「そういえば、小僧は付いてきたら死ぬ、と言っていたな」

「……ん」

「お前も何食わぬ顔で底意地が悪いらしい」


 確かに、力量に劣るシリングがこれまでの工程に同行した場合、生きていられたかは謎だ。

 だが、それは同時に『この侵攻』に対してのみ、『森の番兵』と会敵すると知っていたということだ。


「で、てめぇは小僧に『逃げろ』とも『来るな』とも言わないのか?」

「無駄だカら」


 迷う事なく、しかし感情の篭らない一言。


「は、」


 一息だけで笑い、剣を握った。


「くるるっ!」


 がさりと茂みをかきわけて、不恰好に草木を絡み付けた少年が転がる勢いで走りこんでくる。


「くるる!

 って、うぉ!」


 容赦の一切ない一撃が迎撃。

 天性の勘でそれを潜り抜けた少年は、転がりながらもタイミングを見て手を突き、体勢を立て直す。


「見つけたぞ!

 てめぇ、くるるを返せ!」

「いいぜ」

「だめって言ってもっ……って、はい?」


 拍子抜けするシリングにジェフがクルルを突き飛ばすように押し付ける。

 抱きとめたシリングはクルルが妙な体の捻り方をするのに気付き、開いた視界の向こうを見た。


「だが、また奪うがよ」


 彼女がそのまま突き飛ばされていたら完全に死角であっただろう必殺の斬撃。


「くるる、ごめんっ!」


 言いながら背中の後ろへと突き飛ばし、一歩退いて死線から体を逃がす。


「ぐ」


 剣圧が飲み込んでくる。

 まるで自分が剣に向かっていくような感覚がコンマ一秒を細分化して迫り来る。


「うぉ」


 力は外から。

 倒れざまに掴んだシリングの鞘。

 クルルはそのまま後ろに引っ張り込む。

 力に任せ、しかし倒れないようにぎりぎりの足捌きを見せて彼はようやく抜剣。


「やるねぇ」


 追撃はない。

 それを見てシリングは振り返らずに叫ぶ。


「くるる、逃げろ!」

「やダ」


 小さくずっこける。


「即答ですかっ?!」

「シリンじゃ、こコを抜けラれなイ」

「大丈夫だよ!

 なんとかするよ!」

「無理」


 容赦の欠片もない言葉に唸るだけの少年。


「くく、さて、話はそろそろいいか?」

「っく!」


 どれだけ警戒を解いていたのやら、慌てて構えなおし、大男を睨む。


「なら、こっちの話にも付き合え」


 歯を向く子供を相手にするように、構えすらとらないままシリングを見やる。


「なんだよ」

「俺の下に付け」

「はぁ?」


 訝しげに問い返すが、言い直す事はない。

 視線だけが回答を要求する。


「な、なんでお前の子分になんなきゃいけねーんだよ!」

「面白いからだ」


 唯一の事実とばかりに言い放つ。


「お前も、そいつも十分に面白い」


 足が動く。

 弾き飛ばされた石がクルルの手を打ち、いつの間にか抜き出していた瓶を砕いた。


「てめぇがもう少し俺の気を惹いていたら、そいつにやられていたかもな。

 まだ未熟だが、お前らは俺を存分に楽しませるくらいに強くなる」

「……だからって、お前に教えてもらおうなんて思わないぜ!」


 男は肩を竦め、二度剣を揺らす。


「それに俺は青になるんだ!

 お前なんかと一緒にやってられるか!」

「……青?」


 男は心底どうでもいいような顔をして鼻で笑う。


「少しがっかりだぜ?

 国の犬、しかもよりにもよって堕落した騎士サマになりたいってか?」


 やめとけとひらひらと手を振り、


「名誉だ誇りだとかクソくだらねぇ。

 それが何になる?

 結局最後は腐って机の前で言葉遊びだ」

「青はそんなんじゃない!

 知らないくせに勝手な事を言うな!」

「『青は』か」


 男は小馬鹿にするような笑みを浮かべ地に唾吐く。


「小僧、やっぱお前は駄目だ」

 構えも何もない。

 腕を振るだけの行為に鉄の塊が追随する。

「っく!」


 怒りから、明らかな隙を作っていたシリングが対応できるものでない。

 少しも動けないまま、剣圧が唐竹に薙ぐ。

 ずん、と重い音に野鳥が驚き逃げる。

 剣は触れていなかった。

 だが、疼きは一瞬。

 灼熱感がそれだけで胸のところが弾け、血を吹く。


「消えろ。

 慈悲だ」

「なっ」

「消えろと言っている。

 これ以上俺を煩わせるな。クズが」


 動けない。

 少しでも前に動こうとすれば即座に自分の体は潰される。その確信が魂の底にまで響いた。

 圧倒的な力量の差など承知の上だ。

 だが、その覚悟があっさりと吹き飛ばされた。


「行くぞ」


 柔らかなそよ風がすり抜けていくように、ローブがシリングの横を過ぎた。


「く、くるる!?」

「は、お前は利口だよ、魔女。

 一番素直に状況を理解してやがる」


 それは、シリングが勝てないという意味。

 勝てない故に、そして未だに見逃す気があると見て素直に従った。

 単純な結論。

 単純な行動。

 期待も不安もなく、明快な問いに対する単一回答。

 男が無造作に背を向けた。斬り付けるなら今を措いて他にないほどの隙。

 だが、動けない。

 勝てない。今動いても返り討ちに遭うのは自分だとわかる。

 喉が引き攣り、空気が固体のように自分の体を束縛する。

 悔しくて、思いが頭の中でぐちゃぐちゃになる。

 動けと願っても動かないのは己の恐怖故。

 男が一歩踏み出す。

 自分から離れる一歩。それはクルルが自分から離れていくと同じ。

 「待て」と叫ぼうとして、歯がガチガチと不快な音を奏でている事に初めて気付く。

 この男よりも強い化け物とも渡り合った事があるはずなのに、死に直面したことすらあるのに。

 濃密な『死』───────

 自分はすでに二度、殺された。

 そして二度も見逃された。

 その事実が怒りや衝動を殺し、頭に冷静な部分を作る。

 勝つ方法を模索してはその体を引き裂かれる悪夢を見る。

 指一本動かせなくなる。

 それすらも死に繋がるイメージが駆け巡る。

 そんな事はない。

 太刀打ちできないはずがない。

 敗北の否定。

 勝利の否定。

 繰り返される悪夢が刹那のうちに精神を蝕む。


「シリン」


 気付けば、すぐ後ろに彼女は居た。


「どうしタい?」


 いつもと変わらぬ抑揚のない、妙なイントネーションの声。

 視線は男の一挙一動を恐れという呪縛で固められ、振り返る余裕すらない。

 だが、歯の根が合わぬ状態は脱していた。

 その勢いで声を絞り出す。


「くるると帰る」


 『勝ちたい』という言葉はどうしても出てこなかった。

 無意識がその言葉を選んだ。


「そウ」


 微弱な気配。

 男に声は届いているのか─────だが笑みを濃くして油断はない。


「なラ、そウする」

 気配が完全に断たれる。

 刹那、『後ろに誰かが居るということを明確に感じた』


「シリン。

 前へ」

「え?」

「勝たセる」


 振り返る前に追撃の声。


「だかラ、前へ」


 恐怖を消す。

 元より自分の剣は守る剣だと思い出す。

 それは同時に、後ろに誰かが居てこその剣だと再認識する。

 体に刻まれた傷跡が一斉に疼いた気がした。

 だから、前へ。


「右上よリ斬撃。

 腰下ニて切り返シに変化」


 抑揚のない、だが自分には明確に聞こえる声。


「小僧。

 マシな顔になったな」


 迎合する野獣の笑み。

 荒々しさのみの斬撃。受けずいなして前へ進み─────


「だが、まだだ」


 圧倒的な筋力が鉄塊の慣性を全て殺し斬り上げに変化。

 肩から頭まで吹き飛ばしそうな剛の一撃を信じるままに腰を沈めて回避。男のまぶたがぴくりと震える。


「右ノ蹴り。

 そのマま踏ミ込み上段かラ斬りおトし」


 振り抜いた剣の勢いを利用した蹴り。

 後ろに飛びすざる暇はない。

 小さくジャンプして剣で受け、吹き飛ばされる。


「左から回リ込めば脇下に隙」


 体勢を崩さぬ事を第一に、そして着地の瞬間に左へ。

 一瞬遅れて雷撃を思わせる轟音が地面をえぐる。

 構わない。

 ステップからぐっと沈み込んだ左足を限界まで弾けさせる。

 一瞬見えたポイントに渾身の一撃───!

 まるで鉄でも殴りつけたような感覚にぞっとする。

 血は噴出し、しかし筋肉を切り裂けない。


「肘」


 はっとして頭を後ろへ。

 数本の髪が巻き込まれその勢いに頭が持っていかれそうになるのを辛うじて堪える。


「後ロへ。

 距離をとル」


 巨体が信じられない俊敏さで間合いを取り、シリングも姿勢を整える。

 もし追撃していたら、シリングの足では間合いまで達することができず、その首が飛ばされていただろう。


「小僧、何をした……」

「へっ」


 答えようがないのでとりあえず鼻で笑っておく。

 もう少しだけ間合いをとり、クルルを視界に納める。


「って、てめぇ!?」

「違ウ」


 クルルのオッドアイが翠に統一されていた。

 それは内に眠る存在が覚醒している事を示す。

 が、クルルは己の声でそれを否定。


「今ハ、前」

「……っ!」


 だが、正しい。

 一瞬の攻防にごっそり体力と、そして精神力を刈り取られた。

 いつの間にか胸が血で真っ赤に染まっていた。

 それも体力を著しく削る原因に違いない。

 恐ろしいほどの疲労感、荒い息を整えようとして、気を引き締める。


「小僧、いろんな意味でお前は面白い。

 人を背にして強くなる……か。

 どこのサーガだ」


 苦笑の中にどこか遠くを見るような物を感じて、しかしそれをかき消す爆音が、追随する粉塵が瞬き一つの時間で距離をゼロにする。


「上、下、上、旋回」


 か細い声はそれでも届く。

 初撃をいなし、地面をバウンドするように跳ね上がったニ撃目を体を反らして回避。

 すぐさま体勢を見極めた一撃を体を投げて回避すれば、低空を這うような旋撃に右手一本で地面を突き、飛び越えてみせる。


「上」


 休む間もない。

 剣を、体をぶん回す勢いを欠片も殺さずに連撃が繰り出される。

 息をもつかさぬとはこの事とばかり。

 最早クルルの声は間に合わない。


「こなくそっ!」


 だが、シリングはその全てをいなしきる。

 恐れも怯えも消し去り、相手の呼吸を読みきって受け流す。


「シリン」


 声が、届く。


「大振りノ一撃を、迎撃」


 理解するより体が動いた。

 僅かの、ミリ秒の間で男の筋肉がみちみちと音を立てて引き絞られる。

 連撃を捌き切って少なからず体勢を崩されたシリングだが、その後の全てを投げ捨てて風をなぎ払う鉄塊を迎え撃つ。

 衝撃は恐ろしく少なかった。

 ぞわりと背筋が震える。

 『失敗』の一言が脳裏を静かに走る。

 時間の感覚が失せてどうしようもない浮遊感が全身を支配する。


「前へ」


 その全てをさらに静かな一言が引き裂いて届く。

 視界が開けて男の驚愕と、諦めの入り混じった顔が見えた。

 迷いは不要。


 ───── 一閃


 渾身を秘めた横薙ぎの一手が男の腹部を駆け抜けた。

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