前編
久々に定時退社し自宅へ向かう阿那青年が最後に見たのは、夕焼けの空を覆い街を飲み込む灰色の渦だった。
グレイグーである。
こんなことなら、積んでおかずに、もっと早く読んでおくべきだった。アパートを埋め尽くす古書に思いを馳せながら、阿那は迫る死を受け入れるしかなかった。
そして羊膜を破り、阿那が暗黒の中で目覚める。
悪臭に咽る阿那。
冷たい深淵の世界に無数の光る瞳が浮かぶ。それは人体の数倍の巨躯を持つ異形の獣たちであった。
獣の群れは阿那に襲い掛かる。阿那は何もかもが理解できず、その巨大な牙が迫る様を見上げるしかない。
牙がその首に届く間一髪、銃声が響いた。獣たちは身を翻し、その巨体からは想像もつかないような素早さでその場を逃げ去る。
そして、入れ替わりに闇の中から現れたのは、銃を携え、防護服を纏った探索者の男たちであった。
探索者たちは、里長の命により、地底でさ迷っているはぐれ者の天人を探していたのだという。
男たちの話す言葉は、かなり変形しているが日本語の系統であり、阿那はこの地域がかつての日本国内であることを察する。
阿那は男たちに連れられ、長大な昇降機を用いて地上へ上り、クスミの里へ赴く。そこは地底世界ナラカで活動する潜道士が集まる宿場町であった。
そして阿那は男たちに、里長へ技術奴隷として献上される。
阿那は大崩壊以前の生き残り「原人」であり、スティグマウイルスに汚染されていないその遺伝子符号は値千金で取引されるのだと里長は語った。
地球全土で荒れ狂うグレイグーはアカシャの海と呼ばれ、大洪水から四世紀を経たこの時代においても未だに人類社会を蝕んでいた。
しかしアカシャの海も不滅の存在ではない。大洪水時代末期、アルマゲドンの最終局面にて降臨した示現者により、アカシャの種子には寿命が与えられ、古い海は砂状に硬化し機能を停止するようになっていた。
死んだアカシャの海は堆積し、この世界に残された貴重な可住地「娑界」となった。
そしてナラカは娑界の地下に広がる大迷宮である。複雑な空洞内には有害な汚染物質や病原菌が蔓延し、危険な自動機械「ラークシャサ」や恐ろしい牙獣が徘徊しているが、その深奥には大洪水以前の時代であるアルファ・ユガの遺宝や原人が繭玉に包まれ眠っていることもある。
娑界というごく限られた可住地に生きるしかない人々は、僅かな資源と技術を秘める繭玉を求めてナラカに潜るしかないのだ。
阿那は里長の私兵である潜道士たちに連れられ、再びナラカへ降りる羽目になる。
目的はクスミの里の直下に眠る大洪水の時代の古い浮船であり、これを原人の遺伝子で開錠することができれば、里長に莫大な富をもたらすことができる。
この長征にあたり、スティグマによるナラカ耐性遺伝子を持たない阿那は、抗生物質を山ほど打って、クスミの里で最も高精度な被甲で全身を覆っていた。心もとなさを拭うには不足が過ぎるが、それでも潜道士たちより数段上等な装備ではあった。
道中、潜道士たちが牙獣の巣を見つけ、皆殺しにする。あまりに凄惨な光景に阿那は嘔吐する。吐瀉物を被甲が回収し、内部を自動洗浄する。
わけもわからず自由を奪われた上で再び危険な場所に戻されることとなった阿那は、潜道士たちに抗議するが、威圧で黙らせられる。お前のような愚図を守って探索することの危うさが分からないのか、と屈強な潜道士が吠え、それを痩身の潜道士がなだめる。
鬱々と歩むしかない阿那に、痩身の潜道士が声をかけた。
痩身の潜道士はアシハラ朝の皇都に居を構えていた学徒崩れであり、式部省の政争に巻き込まれてこの町まで落ち延びてきたという。
痩身の潜道士が言うには、屈強な潜道士には融合疫に罹患した歪み人の家族がおり、延命治療のために高額のアムリタ薬を買い続ける必要があった。そのため、このような危険で実入りの良い仕事を請け負っているのだと語る。
屈強な潜道士が仕事をしくじれば、その家族は死ぬことすら許されない苦しみを味わうこととなる。だから気が立っているのだ、許してやって欲しいと阿那に語った。
家族。阿那は自分の親兄弟を思い出し、郷愁で沈む。もう何百年も過去の出来事となった、家族の団欒。家族だけではない。友ももう誰もいない。自身の孤独に、ただ打ちひしがれる。
そんな男をみて、屈強な潜道士は気まずい思いをする。
他の潜道士たちは、阿那に対し、貴重な原人は町の大切な資産であり、仲間や家族のためにも守ってやると励ます。
阿那はこの世界の過酷さと、人間の暖かさに触れ、気を持ち直す。
そのとき、隣町を縄張りとする潜道士たちが現れる。阿那の身柄を奪いに来たのだ。
クスミの里の潜道士たちは劣勢になり、危険なナラカを逃げ惑う。屈強な潜道士が阿那をかばって犠牲になり、それを皮切りに次々とクスミの里の潜道士たちが命を落とす。
最終的に原人の身柄を敵に渡すくらいなら、と痩身の潜道士が阿那の背中に発砲し、回廊の亀裂から深層へ投げ捨てる。
深層には浮船が横たわり、阿那はその桟橋に叩きつけられた。
死ぬなら、薄汚い迷宮の底ではなく、せめて屋根のある場所で死にたい。その一心で、半死半生の阿那は最後の力を振り絞って浮船の戸にすがる。戸の鍵板に血まみれの指がかかり、遺伝子が認証される。
古船の戸が開いた。
袋小路に追い込まれた痩身の潜道士は、手榴弾で自爆を決意する。
その時、猛烈な銃声が響き、隣町の探索者たちが次々と倒れた。
硝煙の向こうから、異形の巨躯が現れる。
それは倍力甲冑を纏った阿那だった。
浮船はアルマゲドン時代の揚陸艇であり、その中には治療装置と倍力甲冑が積まれていたのである。
阿那は痩身の潜道士を連れて地上へ帰還する。
命からがら帰還した二人を見て、里長は自分の戦力だけでは原人を有効活用するのは難しいと判断し、阿那を天人に売り払うと語った。
天人とは大洪水時代に軌道都市アルファ・クシェートラへ逃げ延びた権力者たちの末裔であり、今も世界の管理者として君臨する特権階級であった。
あまりにも身勝手なことを言う里長に、完全に頭に血が昇った阿那は、彼を叩きのめし、取り巻きや護衛も血祭りにあげた。困窮する里の住民を危険なナラカへ遣わせ、一方で自分は豪邸に住まい、いい加減な思惑で弱者の命を浪費した挙句、容易く方針をひっくり返す。あまりにも他者を軽んじる振る舞いに、阿那の怒りが収まることはなかった。
浮船の治療装置によって、阿那の膂力は理論上における人間の生物学的な限界水準に達していた。そして、その洗練された容赦のない身のこなしに、痩身の潜道士はアルマゲドンの老兵たちの面影を見る。命の危機を感じた里長は、天人たちの搾取に耐えるためにはこうするしかなかったと釈明する。
娑界の人々は資源を納めることで天人たちの武威の庇護を得ることができるが、課された量を納めることができなければ、それは反逆と捉えられてうち滅ぼされるという。
滅ぼされた町は、アルファ・クシェートラの直轄領となるか、町の外にいくらでもいる放浪者が住み着いて新しく居留地を築き上げるか、場合によってさまざまな行く末を辿るが、なんにしても今いる住民の命は無いだろうと語った。
実際のところ、クスミの里はアシハラ朝の構成国なので、直接的に天人たちから制裁されることは無いのだが、そのことを阿那が知る由もなかった。
阿那は里長に対し、天人を呼びつけるように言う。天人の奴隷になるつもりはないが、彼らと協力関係を結ぶことで、身の安全と富を得ようと考えたのだ。
そうすることで、阿那自身も、里長も、里の住民も、誰も損をすることなく、今より多少マシな生活ができるようになるかもしれない。
里長は、天人が直接姿を現すわけではなく、その使いである徴税人が遣わされると語り、手配をした。
かくして天人の遣いである徴税人たちが陪都ヒラニヤプラより訪れてきた。
徴税人たちは、探索を命じていたはぐれ天人ではなく、原人を引き合わせたことに対し、里長をなじる。
阿那が事情を説明すると、徴税人たちは倍力甲冑を引き渡せば彼を天人たちに紹介すると語った。
阿那は里長の屋敷の蔵に徴税人を招き、保管されている倍力甲冑を見せる。
徴税人たちは自分たちの船へ倍力甲冑を載せると、阿那を拘束した。
抗議する阿那を、徴税人の護衛たちが暴力によって黙らせる。
徴税人たちは、阿那を天人に引き合わせるつもりは毛頭なく、自分たちの奴隷として使役するつもりだと語った。
阿那は倍力甲冑を遠隔起動し、徴税人たちを惨殺した。
数か月の時が流れた。
阿那は町を離れ、浮船をねぐらとして荒んだ生活するようになった。
ナラカを徘徊し、大洪水以前の遺構を暴き、潜道士を殺害して装備品を奪い、それで生計を立てるようになっていた。
阿那は工具の使い方もわからないが、大洪水以前の兵隊用の指示書を読むことができたので、倍力甲冑などの資材を維持することはできた。
最近、アルファ・クシェートラのあり方がより抑圧的になってきており、反抗勢力の台頭や、滅ぼされた街から逃れた流浪者が武装難民と化すなど、ナラカはますます血なまぐさい空気を強めている。そこかしこで戦争の機運も高まったことで、アルマゲドンで投入されていた倍力甲冑や架夫などの高度な兵器の需要が倍増し、繭玉を求めて流離う潜道士の数も増えた。
何の希望も見いだせない世界に阿那の精神はすり減っていく。
心身の疲弊によるものか、頻繁に悪夢を見るようにもなった。
「裏切り者!」「俺たちを騙したのか!」
見知らぬ男たちに罵られる夢だ。男たちは満身創痍で、半壊した倍力甲冑を身に纏っていた。
眠りにも逃げ場を失った阿那は、やがて過去に希望を見出すようになっていった。自身の記憶を頼りに、大洪水以前の文化や物語を記し始めたのである。そしてそれを市に売り、いくばくかの収入とした。
それだけが、阿那の精神の慰めとなっていた。
ある日、阿那が出先から浮船へ戻ると、扉の前に見たこともない倍力甲冑を纏っている人物が背を向けて立っていた。
阿那は即座に銃を向け、ここに現れた目的を問う。
その次の瞬間、横から飛び出した影が阿那を襲った。ひっくり返り、抵抗する阿那。
それは牙獣の幼体だった。融合疫に罹患し、複数の耳が生えている。牙が阿那の倍力甲冑の表面を削り、火花が散る。
「やめなさい、サラマー!」
正体不明の倍力甲冑から放たれたのは女の声だった。牙獣の幼体が阿那から離れ、慎重に距離をとる。
相手は倍力甲冑の兜を脱ぎ、阿那を見つめ返した。明らかにアジア人ではない。白人の若い女だった。顔の半分はプラチナブロンドの髪に隠れている。阿那は狼狽した。
「ハ、ハロー」
阿那は文系だったが英語は苦手だった。若い女はもっと苦手だった。
「ないすとぅーみーちゅー」
「この本はあなたが書いたの?」
女は手にした冊子を阿那に見せた。それは阿那が記憶を頼りに書いた「永訣の朝」だった。阿那は首肯する。
「これってアルファ・ユガの頃の物語だよね。つまり、あなたは原人ってことだよね?」
アルファ・ユガ。大洪水の前の、人類の黄金時代。阿那が生まれ育った時代だ。
「私はアートレーヤ家のトリシャ。力を貸してくれる原人を探しているの」
トリシャと名乗った女は天人だった。彼女はアカシャの卵なる存在を求め、娑界の極東に単身降り立ったという。
アカシャの卵はアカシャの種子の制御コンソールであり、原人にしか操作することは出来ない。かつて示現者がアカシャの種子に定命の理を与え、アカシャの海の拡大を抑制したのも、このアカシャの卵を用いての業であるという。
あまりに突拍子もない話に困惑する阿那は、トリシャの言葉を遮って浮舟の前の彼女に歩み寄る。
「あまり私に近づかない方がいいかも」
トリシャは顔の半分を覆う髪を持ち上げた。髪に隠されていた彼女の顔の半分は、半ば崩れ、小さな複眼が発生していた。彼女は融合疫に侵されていたのだ。
阿那はトリシャに害意がないことをひとまずは信じ、浮舟の甲板に設けた作業場に招く。二人は空箱に腰かけて対面した。傍らにサラマーなる牙獣の幼体が控える。
トリシャは、地球を蝕み続けるアカシャの海に対して何の手立ても打たないアルファ・クシェートラを見限り、地底に残された示現者の遺物に未来を求めて流離っていたのだという。融合疫に侵されている以上、長生きは望めない。だから大罪である堕天を冒してでも、未来を求めてナラカに挑んでいるのだ。
それは阿那には理解できない話だった。どうせ融合疫で先が長くないのであれば、未来などどうでも良いのではないか、と考えた。
「そもそもあなたに力を貸して、俺に見返りはあるのか」
「天人の身分を手配する。これでどう?」
天人になることを夢見る者は数多い。飢餓と疫病、そして戦争に満ちた穢土である娑界は、弱者が生きていくにはあまりにも過酷すぎた。
だが衆人が天人になる手段は、普通はない。少なくとも阿那は知らない。
「どうやって天人にするんだ。身分を朋銭で買収できるものなのか」
トリシャは阿那に目を合わせようとし、ほんの一呼吸の間に視線が泳いだ。
この見返りは嘘だ。もしくは、全てを明かしてない、騙そうとする者の言葉だ。他人の言葉の裏を読むことが苦手な阿那でも、すぐに察することができた。
トリシャは融合疫によってもたらされた幻覚に踊らされている誇大妄想の狂人というわけでもないだろう。明らかに、彼女の態度には後ろめたさがあった。
「地球の未来なんて俺はどうでもいいし、あなたの言葉も信用できない。悪いが他所を当たってほしい」
そのとき、サラマーがけたたましく吠えた。浮舟に近づく者たちがいる。
それは里長の命を受けた痩身の潜道士とその仲間たちだった。
「あんたがはぐれ者の天人だな。原人の兄さんに張り付いていればいずれは見つかると思っていたが、この半年、長かったよ」
原人の協力者を探している天人の話は、一部の潜道士の間で知られていた。その天人はアルファ・クシェートラの機密情報を持ち出した反抗分子であり、潜伏先と見られる極東地域全体でお尋ね者としてお触れが出ていたのである。
痩身の潜道士は阿那に言う。トリシャの捕縛に協力すれば過去のことを水に流し、里長に口利きしてクスミの里で暮らせるように便宜を図ると。
確かにトリシャは倍力甲冑を纏っているうえにサラマーを連れているため、数に勝る潜道士たちでも捕縛には骨が折れるだろう。だから阿那に強力を求めるのは道理である。
阿那はトリシャを見た。
「できれば私に味方してほしいけど、もしそうしないなら、せめてサラマーは見逃して」
彼女の瞳はまっすぐに阿那へ向けられている。変な女と関わってしまった、と阿那は思った。
痩身の潜道士を見る。
「俺たちは、一度は背中を預けた者同士のはずだ。お互い、損にならない選択をしようじゃないか」
嘘くさい言葉だと阿那は思った。
阿那はトリシャを選んだ。
クスミの里の潜道士たちの中で最後に生き残った痩身の潜道士は、両手を挙げて阿那とトリシャの前に立ち尽くしていた。
「降参する。天人のお嬢さんの居場所は誰にも言わない。手持ちの朋銭もここに置いていく。それで手打ちにしようじゃないか」
阿那は横に首を振った。
「あの時の一発を返す。それを受け取ってくれるだけでいい」
阿那は痩身の潜道士の心臓に銃弾を叩き込んだ。
クスミの里の潜道士たちは全滅した。
アカシャの海は、地上どころか、地球の核をも侵しつつある。間もなく、地球は冷たい灰の塊と化しオメガ・ユガの時代を迎えるのだ。
娑界が生まれたのは、示現者の力によるものであるという。たびたび繭玉より原人が復活しては民衆に旧時代の恵みをもたらすのも、示現者がそのように手配したからだ
大洪水を引き起こしたアカシャの卵は、今のアヅマ王国のどこかにあったと言われている。アカシャの卵を封じた示現者もその地にいるはずだ。
アカシャの卵には旧世界の遺宝が多数眠っていると目されており、天界だけではなく、様々な勢力が探し求めている。
それをどうやってトリシャたった一人で探し出すのかというと、やはり原人の力を頼るつもりだったのだという。
原人の生体認証情報をどうにかして複製し、それを用いて極東周辺の遺跡を巡り、過去の記録を探るつもりだったと語る。原人であれば遺宝の古い記録にアクセスすることができるし、示現者ともコミュニケーションが取れるはずだ。
あまりにも無謀な計画に、阿那はめまいを覚えた。
原人の生体認証情報のコピーなど、今まで誰にもできなかったからこそ、これほどまでに様々な勢力に身柄を狙われているのだ。
それに、アヅマ王国のどこか、などと簡単に言うが、どれほど広大な地域であるか理解できているのだろうか、と阿那はいぶかしんだ。アヅマ王国は関東一帯を支配する大国であり、とても個人が徒歩で探索できるような規模ではない。天界育ちで地表の広さを感覚で理解できてないのではないだろうか、と考えた。
第一、示現者などという胡乱な存在を阿那は信じることはできなかった。そんなものが実在するなら、まず天界や他の国家が組織的に確保を試みているはずだ。アカシャの卵を血眼になって探していても、示現者に興味を持たないというのは、つまりそういうことなのだ。
しかし浮舟に籠って運命を呪いながら生が終わるのを待ち続ける人生にウンザリしていた阿那は、トリシャと旅立つこととした。ため込んだほとんどの財産は浮舟に捨て置き、食料を持てるだけ持って、記憶の中の物語を綴った冊子を携えて。
アカシャの卵が眠る遺跡がどこにあるのかはある程度の目星は付けてある、というトリシャの言葉を信じ、アヅマ王国を目指して東に向かうこととなった。ナラカの隧道からアシハラ朝の支配領域を脱し、ウチツクニの領土に足を踏み入れる。
国境を遮る隔壁はアルマゲドンの頃に築かれた要塞を転用したものであり、原人である阿那の権能によって素通りすることができた。
近隣の城塞都市ヤフキノ邑に立ち寄り、牙獣の肉や精製した真水と朋銭を交換する。
人込みというものに久々に触れ、阿那はこの時代の文化というものを初めてつぶさに見た。露店に並ぶ日用品。邑全体を監視する警備気球。変形した日本語。そして行きかう老若男女。
世界は、まだ人の営みに満ち溢れていた。
「楽しいね、地上は」
オメガ・ユガを迎え世界の滅亡を不可避のものとうたっていたトリシャが、無邪気に阿那へ笑いかける。
言葉にできない怒りが沸き上がる阿那は、ただ頷くしなかなかった。
その夜、ヤフキノ邑の直下にあるナラカの最下層、囂々とうねるアカシャの海を遥か眼下に仰ぐ岸壁の上にて、阿那とトリシャは野営を行う。
倍力甲冑を脱いで整備を行う阿那と、地図を広げて東に向かう貨車の乗降地点の確認をするトリシャ。
阿那はどうやってトリシャが天人でありながらこんな辺鄙な地まで旅をしてきたのか尋ねる。
トリシャが言うには、天界はモルディブ諸島近海のアースポートである陪都ヒラニヤプラに係留されており、そこから浮舟に密航して南方のイヤク国に降り立ったという。あとは一年以上かけてアメツチ群島中部のアシハラ朝にたどり着いたのだ。
「だいぶ時間をかけちゃったね」
トリシャの手持ちのアムリタ薬は持ってあと三か月程度。金をなんとか工面して売人から手に入れたとしても、いずれは行き詰まる。
三か月でアカシャの卵を見つけて、世界を救う。無謀な旅だ。
そして、世界を救ったとしても救わなかったとしても、トリシャは程なくて融合疫で物言わぬ肉塊と化す。
「でも、旅に出た甲斐はあったな。こんなものを食べるなんて、都にいたときは考えられなかった」
トリシャは穀獣の干し肉を齧りながら呟いた。ヤフキノ邑で購入した糧食だ。その風味は、精一杯オブラートに包んで言うならば、木片を口にするよりはマシ、という程度の代物だった。
「そりゃあ、天界でこんな体に悪そうなものがあるはずないだろうな」
阿那の言葉にトリシャは答えず、干し肉を加えたまま地図をにらみ続けた。
浮舟を発ってから久方ぶりの休息をとる阿那とトリシャ。サラマーは連日の強行軍で疲弊し、二人の傍らに横になっている。
そして、その気の緩みを突く者たちが現れた。
「お前ら、城壁を突破してきた原人だな」
ウチツクニの兵士たちに囲まれていることに気が付いた阿那とトリシャ。倍力甲冑を外しているため抵抗する術もない。
トリシャを拘束した兵士が、その素顔を見た。
「歪み人……!?」
「お前たち、常世道の信徒か。穢れ者どもめ」
後ずさる兵士たち。
「融合疫の罹患者なら生け捕りはできんな」
兵士たちは銃を構え、阿那たちに向ける。阿那はあまりにもあっけない自分の死を前にし、抗うこともできず立ち尽くす。
その次の瞬間、破裂音と共に兵士たちがバタバタと倒れる。
阿那や兵士たちを無数の人影が囲んでいた。それは異形の人影であり、手には機関銃や小銃を携えていた。融合疫に罹患した歪み人たちだった。
「常世道!? やっぱりか、異端者どもが!」
凄惨な殺し合いが始まった。
阿那とトリシャはどさくさに紛れて逃げ出そうとするが、銃撃からトリシャをかばったサラマーが負傷して動けなくなってしまう。
程なくして兵士たちは潰走した。
常世道の集落に連行された阿那とトリシャ。そこはナラカでも隔離された辺境、工場跡地にあった。常世の隠れ里である。
「祖師様がお前の力を所望している。栄誉に思うがよい」
武装した歪み人に銃口で促され、常世道の集落を横切り、神殿に向かう。
阿那とトリシャは常世道について、巷に流布している噂は耳にしたことはあった。
常世道は示現者を造物主や救世主として崇め奉る宗教団体である。一般社会では不可触民として排斥されている歪み人をも受けいれている。表向きは穀獣の畜産で生計をたてていたが、実際にはアムリタ薬の元締めであるという。
神殿に着く。壁面には巨大な人面が鎮座している。融合疫患者の末路だ。
「教祖様がお待ちだ。急ぐがいい」
巨大な人面が一行を急かした。
教祖の間にはピアノの旋律が流れていた。ドビュッシーの月の光だ。
「示現者はなぜこんなものを我々に与えたんだろうね」
教祖の男が鍵盤を弾く手を止め、阿那たちに語り掛ける。一見すると、ただの若者に見えた。
「君は原人なのだろう。君の力を借りて、隠れ里の高炉を稼働させたい。頼まれてくれるかな」
阿那が答える前に、トリシャが口を開いた。
「あなたも原人のように見えるけど。なぜあなたがやらないんです?」
阿那がトリシャの顔を見る。
「これ、アルファ・ユガの鍵盤楽器ですよね。こんなもの、都でも見たことがない」
教祖の男は微笑んだ。
「僕は確かに原人だ。だが、遺宝にアクセスする手段を失ってしまったんだ」
教祖の男が上着の前を開く、その体はシリコン製の骨組みで出来ていた。
「昔、戦争でね。サイバネ化するしかなかったんだ。シンセティックって奴だよ」
全身を義体化したため、遺宝に遺伝子認証を行うことができなくなってしまったという。
「ウチツクニ軍に籍を置いていたんだ。今は裏切り者だけどね」
裏切り者。嫌な言葉だ。阿那の脳裏に悪夢の記憶がよぎる。
「高炉が稼働すれば、この隠れ里も少しは暮らしやすくなるだろう。もちろん、報酬は支払うよ。アムリタ薬を数年分でどうだろう」
トリシャを見ながら教祖は言った。
ヤフキノ邑の中央にそびえるメガストラクチャー。その最上階に位置する議事堂。
議会議長と、武装したシンセティックの兵士たちが対面する。
「アスラ諸王連合がこんな辺境に介入するのですか」
「ヴリトラ王はウチツクニとの協調を望んでいる。アメツチ群島の安定は我が国の利益にもなりますしね」
議長のなじりに、兵士たちのリーダーは全く動じず答える。
アスラ諸王連合は群雄割拠の亜州大陸国家の中でも反アルファ・クシェートラの急先鋒勢力である。
そんな勢力と繋がりをもち、天界との関係に無用な緊張をもたらすのは、ヤフキノ邑としては避けたい。そもそもヤフキノ邑の属するウチツクニは、隣国であるアヅマ王国と協調し、シン王朝などの大陸勢力からの圧力に対抗してきた。
この期に及んでアスラ諸王連合に肩入れするのは、内外から様々な反発を招くだろう。
「オメガ・ユガを前に、天界はもう全てを諦観している。統治者としての役割を放棄したのだ」
「サーガラ殿、それは」
議長の言葉を兵士たちのリーダーがジェスチャーで遮る。
「助力を頼んでいるわけではありません。我々の行動の邪魔をしなければそれでいい。ごく小規模な作戦ですしね」
サーガラなる兵士たちのリーダーは、胡乱な笑みを議長に向けた。
列強であるアスラ諸王連合、その尖兵であるナーガ戦士団の要望に、弱小国のヤフキノ邑は抗う術はない。議長に選択肢はなかった。