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秒針だけが燃えない

作者: 葵鳥

 前編「時計回りの地獄」

 

 かたつむりの殻が秒針にじゃらじゃら結ばれた時計が、今でも私の部屋にある。

 まずはこれを作った経緯を話そう。

 当時小学生だった私は、どうしようもない傾奇者で、あらゆる社会的営みに於いて不適合を起こしていた。空想に生きて空想に死ぬつもりで日々を暮らしていた。休み時間は絵を描き、授業中は本を読み、家に帰ったら工作をする。好きな教科は図画工作で、得意な教科は国語。そんな奴と友達になりたがる物好きは、残念ながら居なかった。「君はここに居ないみたいだね」と同級生に言われた。集団下校の班からも大人の目を盗んでハブられる始末。

 故に、その梅雨の日も私は黄色い傘を差して、一人でぼーっと空を見ながら帰っていた。くだらない駄洒落を思い付いて、一人でくすくす笑う。

 雨催い。しかし、「雨も良いな」と思わせてくれるくらいの雨催い。

 くすくす。

 今でもちょっと面白いのだから、当時の私はそんなのでも幸せは幸せだったのである。

 道中、雨に打たれる紫陽花を可哀想に思った私は、花に傘を差した。好奇心で蹴飛ばしたくなる程に小さなかたつむりが、のっそのっそと這う紫の花。そいつは私と同じように、重そうなランドセルを背負っていた。ただし、そのランドセルには私のと違って、反時計回りの渦巻き模様が描かれている。

 ぱらぱら。

 ぱらぱら。

 花の匂いは雨に掻き消され、しかしそんな雨音も、渦巻き模様を目で追うことの楽しさの前には遠のくばかりであった。

ちく、たく。

 ちく、たく。

 それでも、私がかたつむりの迷路に迷わなかったのは、ひとえに耳に木霊するこの音が原因であった。

 渦巻き町三丁目。私が生まれて育った場所。

 そこにこの町の象徴とも言える時計塔はある。一際目立つ煉瓦造りの建築物で、曰く世界標準時計に対する誤差が極めて零に近く、一秒ズレるために百年を要するらしい。それ故に、この時計塔は正式名称そっちのけで、「世界標準時間を観測する」みたいな意味合いで、「時の天文台」と呼ばれる。

 しかしここで白状すると、かねてより、私は冷酷無比に時を刻むこの秒針の音が嫌いだった。空想の邪魔をされるからである。規模の所為で必要以上に秒針がうるさい。何か急かされているようで落ち着かない。かたつむりに迷いたくても迷えない。厭でも現実に引き戻されてしまう感じが、余りにも白けて、美しくない。

 その鬱憤が閃きを生んだのである。

 私はかたつむりを手で拾って、じめじめしたナメクジの部分を近くにあった石で叩いて捻り潰し、それと同じ事を他のかたつむりにもやった。ただし、甲羅の模様が「反時計回り」のものだけが対象である。そうして出来上がったかたつむりの死骸を一つに集めて、筆箱にあったセロハンテープを全て使い切ってぐるぐる巻きにし、大きな塊を作った。私は飛んでいくようにして家へと帰った。

 ちく、たく。

 ちく、たく。

 うるさい壁掛けの古時計。私は常々、リビングにあるこいつの息の根を止めてやりたいと画策していた。ぼーんと低く響く鐘の音や、硝子越しに見える振り子は好きだったが、秒針だけはやはりどうしても気に食わなかった。しかしそれを無力化する手段が無かった。こいつはゼンマイ仕掛けなので、電池を抜くなんてことは出来ないし、何だか私の美学として、粉々に破壊するのは、美しくないのでなしだった。

 そこへ一縷に差した希望の陽光こそ、かたつむりである。

 私は秒針にかたつむりの塊を紐で括り付けた。

 固唾を呑む。

 ちく、たく。

 ちく、たく。

 ちく……、がらん。

 秒針が俯いた所で、様子が変わった。中身の歯車が動く音はするのだが、秒針が一秒も進まないのである。

「勝った」と思った。破壊するとか、ゼンマイを回さないとか、そんなものとは訳が違う。私は秒針と同じ土俵に立ち、ルールに則った上でこれを止めたのである。これを勝利と言わずして何と言うか

 一秒刻もうとする秒針を、「反時計回り」のかたつむりがマイナス一秒刻んで相殺する。常に零秒を刻み続ける時計。かたつむりのじゃらじゃした音が鳴る度に、私はうっとりした。これはマイナス一秒を刻む音。巻けて巻けて負け。

 時計の負ける音。それ即ち勝利の音。

 私が勝って、時計が負けた。

 嗚呼、何と美しいのだろう。

 これが多分、「芸術家」を志すきっかけであり、言うなれば私の処女作であった。 


 ○


 当たり前だが、私は大成しなかった。芸術の才はあったのかも判らない。しかし、余りにも趣味が悪かった。自覚はある。

 そもそも、アートなんて今の御時世向かい風だ。嘆かわしいが現実だ。この醜態を見よ。アートの道の途絶えた私は今や、四畳半のアパートでその日暮らしだ。

 何を隠そう、時代はからくり。それに拍車を掛けたのは、「人形(ドール)」である。

 感情を学習するからくり人形。

 一体どんな技術が使われているのか、皆目見当も付かない傑作である。

 普及の早さは瞠目ものであった。こいつが身の回りの世話から公衆には言えないようなことまで、何から何までやってくれるのである。

 見た目は人間と変わらない。寧ろ、人間よりも整っているかもしれない。意思疎通に従来の不自然さが一切介在しない。故に「不気味の谷」も起こらない。人間と遜色ない完璧な自立型からくり人形。

友達。そんなものは「人形」で良い。

 恋人。そんなものは「人形」で良い。

 人間関係の希薄化が社会問題に発展するほど、「人形」は現代社会に浸透した。

 一家に一人「人形」の時代。

 しかし私は「人形」に懐疑的である。「人形」は美しくないからだ。

 美は不完全なものにこそ宿る。

 正確無比に時を刻む秒針然り、こういうものは私に言わせれば美しくない。

腕の欠けた石像。桜の枯れる花吹雪。朧雲に隠れた満月。誰も知らない深夜の雨。人の喧噪に隠れた烏の唄。

 美しいとは、そういうもののことを言う。

 だからこそ、「人形」は美しくない。美しくないから、私は「人形」が嫌いだ。

 つまり、そういうことである。

「人形」のアナウンサー。朝の報道ニュース。四畳半に鎮座するブラウン管テレビ。珈琲を啜りながら私はそれを見ていた。いつもよりも不味い。絶対、朝っぱらから「人形」特有の完成されすぎたが故の醜さを目の当たりにしたからだ。

カーテンを開くと日光が眩しくて、窓を開くと小鳥が囀って挨拶をしてくれる。冬の寒さに身を震わせて窓を閉め、顔を洗って、珈琲を淹れて、今日読む分の文庫本を開く。しかし本に珈琲を零してしまって、静かな苛立ちが募る。それで囀る小鳥がうるさくなって、夕飯は焼き鳥にしようと心に決める。そういう人間然とした一日を私は送りたいのだが、「人形」の所為で台無しだ。

 嗚呼、美しくないな、本当に。

 確かに「人形」は人間と違って原稿を噛むことはないし、笑顔が崩れることもないけれど、人間臭さを全く感じない。

人間性はあるけれど、人間としての味が無い。

 善があっても「アク」が無い。

 苦みの無い珈琲みたいなものだ。珈琲は、苦みがあって成り立つ美味だろう。

 激しく陳腐。「人形」の人格には、深みや豊かさがない。

 ついでに、読み上げている「放火魔」のニュースにも聞き飽きた。もう何度同じ文言を聞いたことか。そんなだから、取り留めの無い思考に拍車が掛かってしまう。

「犯人は愉快犯。どうしようもない人格破綻者」

 と、概ね要約するとそのようなことを「人形」が述べたところで、私はテレビを消した。気持ちとしては、リモコンを投げつけてやりたいくらいだった。からくり人形如きが知ったような口を利くなよ。

 もののあはれを知れ。

 壁掛けの古時計を見る。秒針が凍っていて、時は全く進まない。故にこいつは時計としての機能を全く果たさないのだが、これを見ると私の心は落ち着きを取り戻してくれる。かたつむりの渦巻き模様。反時計回り。渦巻き町。

「外でも行こうかな」

 珈琲を排水溝に捨てて、私は支度を始めた。

珈琲が儚くて美しいのは、ぬるくなった途端に世界一不味くなるからだ。


 ○


深夜。冬の寒さと雪の白さ。

 私は山を登っている。

 朝に四畳半の城を出て、美術館に行って教養を深め、水族館に行ってシャチと戯れ、古本屋でジェンダー論を立ち読みしていたら日が暮れた。場末のこぢんまりとした居酒屋に入って一人でお酒を飲んでいたら、終電を逃した。行く当てが無かったのと、酩酊によるおかしなテンションで、私は山を登ることにした。そこまで大きな山ではなく、山頂には子供の遊べる公園があるような渦巻き町の小さな山ではあるのだが、早くも後悔し始めている。夜風と標高の高さが余計に寒さを際立たせて、酔いが醒めてきたのがその一因だ。何をしているのだろうという虚無感が募るが、しかし、ここで引き返そうと登り続けようと、距離にしてみれば同じである。丁度半分くらい。それに、どうせ降りようとも帰れない。ならば登るだけだ。

口から漏れ出る白い息が、一歩踏みしめる毎に増えていく。その度に、登り始めた時にはあった高揚感が減っていく。

 山頂に着いた頃には疲労困憊であった。それに喉も渇いている。なので、自販機で温かい缶珈琲を買った。ごとん、という自販機から落ちてくる音。かちゃっ、ことっという缶を開ける音。鼓膜に響くごくっという喉の鳴る音。一口目の後に感じる缶の温もり。少し零れてしまったので、顎の辺りを手で拭う。

 私が好きなのはこういうのである。

 見上げると雪。冬銀河。あれが何とか何とかだよと、星の名前を言ってみたいものだが、私には全部同じに見えるので無理である。しんしんと降り頻る雪が星屑と重なって、時折不思議な反射を見せてくれる。その蛍のような雪は、ベンチに座って黄昏れる女の髪に落ちた。珈琲の缶と丁度同じような色をした髪に、白い雪はよく映える。

 不思議だった。こんな深夜に、どうして女が一人で夜景に黄昏れるのか。しかも、彼女の身なりは特徴的で、一言で表すなら酷く見窄らしい。年季の入った麻布のコート。手入れの行き届いていない癖っぽい髪。足に吐いている雪駄。片目を隠す眼帯。私の好奇心をくすぐるには十分すぎた。

 私は少し離して彼女の隣に座った。身なりとは反して、息を呑むほどに綺麗な横顔だった。特に亜麻色の瞳が素敵だ。

 何だか変に照れてしまって、私は珈琲を口に運んだが、急すぎて噎せてしまった。口に入れたはずの珈琲の香りが、鼻の辺りで匂う。

 彼女は全くの無反応であったが、私はこれを良いことに「ごめんなさい、何か拭うものを持っていませんか」と声を掛けた。先は手で拭ったにもかかわらずである。口実とはまさしくこのことだ。

「いいよ」

 と、雪よりも冷たい嗄れた声で、彼女はハンカチを貸してくれた。四つ葉のクローバーの意匠が施された、緑の愛らしいデザインである。しかし生乾きの匂いがする。

「左利きなのかい」

「え? あー、はい。まあ昔は右だったんですけれど……」

「珍しいな。左に矯正するなんて」

「事情がありまして」

 お礼を言って口元を拭ってから彼女にハンカチを返した。すると、彼女はがさごそとコートの懐を漁り始めて、やがて何かを取り出した。

 それは酷く古典的な、銀色のオイルライターであった。喫煙かと思ったが、しかしそれは的外れも甚だしかった。

きん、かちっ、しゅっ、ぽっ、かちゃ――耳触りの良い金属音の後、緑が灰になっていく。焦げた匂いが充満する。正方形だったそれが、くるくると渦を巻いていく。

 彼女はハンカチを燃やした。

「いい匂いだと思わないかい?」

 私は何も言えなかった。当たり前である。誰が一体、初対面の女が前触れ無くハンカチを燃やすと思うものか。こうなると話が変わってくる。どうやら私は、とんでもない女に声を掛けてしまったらしい。

先までの冷たい顔が嘘のように、炎の橙色に照らされる彼女の顔には笑みがあった。

「面白い顔だね」

 それはそうだろう。鳩が豆鉄砲を食らったような、ドラゴンがバズーカを食らったような顔をしているに違いない。

「それはどっちの意味でだい? 『びっくり』しているのか。それとも『感動』しているのか」

 前者だ――と胸を張っては言えなかった。私は少し「綺麗だ」と思ってしまったのである。ハンカチの燃える様を――完成された形が不定型になっていくというその過程を、私は些か好ましく思ってしまった。

「ふふーん。なるほどね。気に入った」

 私の心を見透かすような目。にやにやとした、厭な笑みが口元に浮かんでいる。彼女は目の前の夜景に目線を映しながら、ぽんぽんとベンチの空いた空間を叩いた。

「まあ座りなよ。先生」

「ま、待って。先生?」

「違うのかい?」今度は煙草に火を付けながら彼女は言う。「その格好を見る限り、お兄さん、画家か何かかと思ったんだけど」

「概ね当たってるけれど……」

「やったね。先生」

 正確には「芸術家」、もっと言えば「芸術家に憧れちゃった凡人」だけれど、訂正する気も起きなかった。深く息を吐いて、ベンチに腰を下ろした。一方の彼女は、煙草の先っぽを何度も火で炙っているけれど、一向に煙の立つ様子が無い。

「吸いながらじゃないと付かないよ」

「知ってるさ、それくらい。でも無理。何度やってもね」

 彼女はその雪駄で、煙草をくしゅっと踏み潰した。

「ポイ捨ては良くないな」

「じゃあこうしちゃえ。えいっ」

 彼女はあろうことか、私の缶珈琲に吸い殻を放り込んだ。

 絶句した。

「あはは、面白い顔」

 蹴り潰してくれようかこの女。

「すまないね。ちょっとおふざけが過ぎたよ。後で奢るからさ、許してよ」まあそれならと、私は許した。「とにかくね、物理的に不可能なんだよ。吸うのは。何せわたしは息が出来ない」

「えーと?」

「わたしは『人形』なのさ」

 驚いた。これには素直に。確かに言われてみれば、ずっと彼女からは、全く白い息が上がっていなかった。しかし、私の知る「人形」の人格とは大分異なっている。大抵、奴らは主従関係を弁えた言動を取る。その徹底ぶりは凄まじく、例えば煙草なんてそもそも吸おうとさえしない。煙草を吸おうとしているこの時点で、この「人形」は異常である。それに、学習しないのも気になる。「人形」は不可能なことに何度も挑戦する程阿呆じゃなかったはずだ。いや、これは違うな。彼女の言動からして、学習はしているのだ。しかし、ならばどうして。

「どうして煙草を吸おうとするのか? はぁ。雰囲気だよ雰囲気。先生には解るでしょ、そういうの」

 腹が立った。「人形」がもののあはれを語るのか。唯のからくり如きが、からくりなんかで――理論なんかでは片付けられないこの感覚を、まるで理解したように振る舞うのか。

「わぁ怖い怖い。止めてよそういう顔」

 わざとらしく戯けてみせる彼女に、尚むかついた。

「穏やかじゃないな。わたしは先生となら気が合いそうだと思っているのにさ」

「だとしたら酷い誤解だね」

「へえそういうこと言うんだ」

 落ち込んだような素振りは全く無く、不気味で不敵な笑みは健在である。

 彼女は夜景に目を遣って「じゃあ証明するよ」と零した。

「先生。ほら、見たまえよ綺麗でしょ、ここの景色は」

 渋々眺めてみると、確かに綺麗である。先から視界に入ってはいたけれど、改めて眺めてみると違った趣がある。

 白い息が撓垂れた枯れ木に重なる。それは登り坂の道路にはみ出していて、きっと昼には影を落とす。しかし今は深夜。車の通りは無く、実に閑散としているが、それ故に時折小動物のかさかさした物音が聞こえる。トカゲみたいな生物が木を這い、三日月と並んだ。月明かりに照らされる渦巻き町の町並み。点々と灯る人工の灯り。こうして高所から眺めると、本当に渦を巻くような町並みであることが一目瞭然である。目が慣れてくると、私が昼間に行った美術館や水族館も見えた。その中で一際目立つのが、やはり「時の天文台」である。流石にここまで秒針の音が聞こえることはないけれど、もう幻聴さえ聞こえてくる程に見飽きた。

「ねえ先生、あそこ判るかい?」

「あそこって言われてもな」

「あの芸術的な造形をした建物のことさ。デザイナーのエゴとしか思えないあれ」

 その説明で理解した。それは多分、例の美術館のことを指している。この町で前衛的なデザインの建物と言ったら、あれくらいしかない。

 彼女は携帯電話を取りだした。からくりがからくりなんて滑稽である。

「せっかくだし先生にやらせてみようか」

「何を?」

「ん。この電話に今から私が言う番号を入れて」

 一体何をしようとしているのか、皆目見当が付かないけれど、私は言われるがままに、言われた通りの番号を入力した。

「じゃあそれに電話を掛けてみるんだ」

 ぷるるるるる。ぷるるるる。

 発信音はするけれど、全く出る気配は無い。

「これは一体――」

 と、彼女に尋ねかけた次の瞬間。

 私は豆電球を見た。夜の町の中で淡く灯る豆電球を。ゆらゆら光が揺曳して、茜が差す。

 見ていてと言われた建物が、何かしらで蛍のように灯っている。

「そういえば自己紹介がまだだったね、先生」

 焦げ臭い匂い。ハンカチの灰。銀色のオイルライター。蒼と茜の火柱。

 彼女が眼帯を外す。そこにあったのは、見るも痛ましい酷い火傷。

「わたしは(かがり)。『人形』。趣味は放火。巷を賑わせている『放火魔』とはわたしのことさ」

 篝は。

 この女は。

「これで証明出来たよね。わたしがそっち側だって」

 私の目の前で。

 美術館を燃やした。


 ○ 


「人形」が何かしらの犯罪に走ったという事例は無い。「人形」は人間に対して従順で、主従関係を弁えた言動をするからくりだからである。しかし篝は違う。私を「先生」と呼ぶことを除いては大変無礼で――逆に言えば、それが数少ない彼女に遺された「人形」的な要素の顕れなのであろう――人類に対して反逆的な行動を取ることを全く厭わない。即ち、彼女は「人形」として異常なのだ。自ら犯罪に走り、あまつさえそこに美学を見出している傾奇者。こんなもの、人間であっても異常者だ。

 そんな逸脱的存在を前にして、私はどうするべきだっただろうか。

 警察に通報すべきだったか。「人形」の開発元に問い合わせるべきだったか。

 そういう、善とされる行動を取るべきだったか。

 否。断じて否。

 私は「倫理」という善の型を考え無しに当てはめて、それからはみ出たものを無条件に悪とする程、浅はかではない。情状酌量の余地は考慮するべきだし、そもそも善悪の判断というものは、自然に委ねるべきじゃなく、それぞれ独立して考えるべきだ。「これ故に善」「これ故に悪」と論理立てると、却って誤った結果を招くことがある。これは物事を平面で見てしまっている為に起こる。現実というのは、もっと多面的な形をしている。サイコロを論理立てて「立方体である」と判断する人間なんて居ないように、こういうのは瞬間的な感覚で判断するべきだ。

 単純な話、私は篝を美しいと思った。

 欠陥だらけの「人形」。美が不完全にこそ宿るなら、こんなに美しいものはない。

 故に私は、警察に通報することはしなかった。

「人形」の大本に問い合わせることもしなかった。

 燃え行く美術館もそのままに、倫理さえ捨てて。

 私は篝と一緒に、ドミノ倒しのような日の出を見た。


 ○


 半々年が経った。晴れ風に桜舞う春。

 やり始めて気付いたけれど、私の感性と放火は奇しくも相性が良かったらしい。「不完全なものこそ美しい」という思想と、放火という「あらゆるものを不完全に帰す」行為――最初は篝の異常性に魅せられて始めたことだったが、いつの間にか私は放火そのものにも惹かれていた。けれどこれは、篝の思う放火とは真逆であった。

「どんなものもね、燃やして初めて『完成』するのさ。灰になって塵になって、それでやっと『完璧』になるんだよ」

 燃えゆく図書館で茜に染まる横顔で、篝はそんなことを言っていた。

 鏡映し。

 この半々年で判ったことは、私と篝は似た者同士であるけれども、しかしその本質は鏡映しであるということであった。私の対偶が篝であり、篝の対偶が私だ。

 私は放火をマイナスで考える。物の価値を損なわせる行為。

 篝は放火をプラスで考える。物に価値を付加する行為。

 しかし対偶だから、どちらも行き着く結論は同じなのである。

「その方が美しいから」

 面白いことに、これは放火以外の些末な所でも顕れた。

 私は珈琲を美しいと思う。それはぬるくなった瞬間に不味くなるという不完全性を持つからだ。

 篝は珈琲を美しいと思う。それは甘くても苦くても美味しいという完全性を持つからだ。

「すっかり有名人じゃないか、先生も」

 神社の境内のベンチに二人で座っている。

 先日の雨で散った桜の花吹雪。晴れ風が吹くと更に散り、紙垂が靡き、絵馬が裏返り、本殿の方向から線香の香りがする。烏が好奇心からか桜を突っついて、その拍子で花弁が落ちる。陽射しの加減によって白くも薄紅色にも見える、風にひらひら舞うその花びらを手で掴んでみて、篝の方を見た。しかし彼女は花も恥じらう純心な心を持っていない。そんなものには目もくれず、花より新聞と言わんばかりに、彼女は一つの見出しを指して言う。口元には初めて会った頃から変わらない薄ら笑み。

「どう? 嬉しいかい?」

「僕は花が見たい」

「ロマンチストめ」

 手に持っていた花びらが奪うようにして取られた。

「えいっ。こうしてしまえ」

 それを例のオイルライターで炙った。

 花は燃えると、焦げの奥に少し甘い匂いがする。煙の味は燃えるものによって若干違う。

「うん、綺麗だ。これが本当の花火ってね」

「うるさいな」

「やんのかよ先生」

 火花が散った。

「花を燃やすなよ」

「どうして? 綺麗だろう」

「美しいものを燃やすな」

「先生、解ってないな。燃やしてこそ美しいのさ」

 同じ穴の狢でも解り合えるとは限らない。

 経験で判っている。こうなったら平行線だ。ここは私が大人になろう。もとい、ここは私が人間になろう。大人云々の前に、からくりに目くじらを立てようものなら、人間としての沽券が失われる。

「篝。お前を燃やしてもいいんだぜ」

 駄目だった。

「やってみなよ先生。まあ無理だろうけど。それこそ先生の流儀に反するもの。先生はわたしを『美しい』と思ったから、ここに居るんだろう?」

 見透かしたような亜麻色の目。ミステリアスな雰囲気を助長する癖っ毛。にやにやした厭な笑み。

「ごめん。僕が悪かった」

「よろしい。大人しく――男の大人らしく、女の尻に敷かれていなよ」

 せめてもの仕返しと、篝が花びらを奪ったように、私は篝から新聞を奪って、先彼女が指していた記事を読んでみた。要約するに、「また放火事件が起きました。現在調査中です」であった。つまり、何も判っていないらしい。しかし、それが私と篝の知能犯的立ち回りのお陰かと言われたら、怪しい。正直言って運良く、警察の盲点を上手く突けているのだと思う。

 誰が犯人を「人形」なんて予想するものか。誰が放火を複数犯と思うものか。

 そもそも、「人形」が犯罪した場合、法で裁けるのだろうか。「人形」は法律の適用内なのか。「人形」に人権はあるのか。人で在る権利を持っているのか。

「しかし何と言うか、あれだね先生」

「何だよ」

「警察が判らなくても、名探偵には判るかもしれないね」

 実在して堪るかそんなもの。

 探偵なんて、幽霊も同然である。


 ○


「貴方がやったんですよね」

 困ったことになった。探偵にバレた。

 おっとりした雰囲気の丸眼鏡の女性が、我が四畳半を訪ねてきたと思ったら、開口一番に私の正体を言い当ててしまった。次に彼女は「申し遅れました。紙燭(しそく)です。探偵をやっています」と自らの正体を名乗った。

「何のことだかさっぱりなんですが」

「白を切らないでください放火魔さん。素性は割れています」

「……あの、とりあえず上がりませんか?」

 長話になると踏んだ私は、ひとまず紙燭なる女探偵を部屋に招いた。

「趣味の悪い部屋ですね」

「よく言われますよ」

 私の過去の作品ばかりが並ぶ部屋。まさしく、それを端的に表す言葉である。

「けれど、私は好きですよ。貴方の作品」

「はぁ……。それはありがとうございます」

「いやいや、これはお世辞ではありませんよ。本当なんです」

「えーと……。どういうことです?」

「私は貴方のファンなんです。昔から」

 どうも、私に取り入る為に嘘を吐いている訳では無いようだった。

 かつて私は、ちょっとしたアーティストとして活動していた。絵を描いたり、彫刻を彫ったり、よく解らないオブジェを作ったり、小説を書いたりとジャンルは全く定まっていなかったけれど、世界観は統一されていた。故に、確かにその時には、少数のファンが居た。それでも、ある事情で引退した。惜しむ声も少ないながらにあったけれど、振り向く理由にはならない。

「お気に入りは『暗黒板』です」

 黒板を黒で塗りつぶしただけの代物である。

「探偵さんもいい趣味してますね」

「よく言われます」

 紙燭は汚らしい座布団に厭な顔一つしないで正座した。人が出来ている。

 客人はもてなすべきだろう。

 私はコップ一杯の水道水を出した。

「何ですか、これは?」

「水ですが」

「水道水でしょう?」

「ええ。逆立ちしても何しても、これはどうしようもなく水道水です。文字通り」

「放火魔さん。これはどういう意味ですか? ぶぶ漬けみたいなことですか?」

「はい? ごめんなさい、意味が解らないです。単純にもてなしの意味で水を出しただけですが」

「ああ、なるほど。はいはい解りましたよ。そういう感じなんですね。そういう人なんですね、貴方は。だったら有り難く頂きます」

 一口に水を飲んだ。

 一体突っかかってきたのは何だったのか。

「さて本題ですが、私は貴方を糾弾するために来た訳ではありません」

「待ってくださいよ探偵さん。僕はそもそも認めていませんよ、放火魔なんて」

「嘘を吐きなさい。さっき自分で認めていたではありませんか」

「いつ?」

「私がどさくさに紛れて『放火魔さん』と呼んでも否定しなかったでしょう」

「否定しないことが、必ずしも肯定とは限らないんですが」

「じゃあどうして少し服が焦げているんですか?」

「え、待って嘘……?」

「嘘ですが」

「…………」

「引っ掛かりましたね。今の慌てようは犯人のそれでしたよ、放火魔さん」

 策士め。早々に万事休す。もうこれは潔く諦めよう。

 溜息を吐きながら、私も座布団に座った。

「火事の現場を見た時に思ったんです。あ、これ先生の犯行だって」

「怖いですって」

「でも、先生じゃないっぽい要素も散見されるんです。もしかして共犯だったり?」

「本当に怖いんですけど」

 もうそれは推理でも何でもない、名探偵の山勘ではあるまいか。

 警察の盲点を綺麗に突いてきた。名探偵に死角無し。

「でも私は貴方を法に裁かせようとは思っていません」

「じゃあ何ですか」

「お願いをしに来ました」

 私はお金でも強請り取られるのだろうか。

「これは探偵の私としての行動ではありません。誰からの依頼も受けていないし、お金も発生していない、完全に私的な事情です」

 紙燭はナイフでも突き付けるような鋭い眼差しで私を見つめた。

「もう一回だけで良いです。後一回、作品を作ってください。そうしたら、貴方のしたことを私は綺麗さっぱり忘れます」

 拍子抜けだった。豆鉄砲を食らう覚悟をしていた鳩が弾を外された時のような顔をしていることだろう。同時に、彼女は本当に根っから私のファンなのだ理解した。

 お金を強請られたり、命が関わったり。それらに比べれば、こんなものは易い願い出であろう。ここで「はい」と返事をすれば、私と篝はひとまずの安寧を取り戻せる。

だから私はその場では、適当に肯定の返事をして、探偵を帰した。彼女は随分嬉しそうで、感謝さえしてくれた。

 けれど、本当は。

 その願いは、私にとってはかぐや姫の子安貝よりも無理難題だった。

 それはちょっとした交通事故だった。

 命を脅かす程の事故ではなかった。

 ちょっとした後遺症を患う程度に済む事故。

 でも、その「ちょっとした」ことが、私にとっては命を失うも同然な程に致命的だった。

目を醒まして、知らない天井が見えて、周りの人間もカーテンもシーツも枕も頭の中も、何もかも真っ白な空間の中で、唯一つ奇妙な違和感があった。いや。感覚は無かった。そう、感覚が無いという違和感があった。

 事故の際、私は右上半身を強く打ち付けたらしい。

 それによって神経を損傷。

 私は右腕の感覚を喪った。

 利き手を喪ったことで、私の創作の腕は見るからに劣化した。私は創作をしなくなった。

 しかし誤解しないで頂きたい。

 私は不貞腐れて創作を止めた訳ではない。

 満足したから、止めたのである。

 繰り言になるが、未完成で不完全なものこそ美しい。

 利き手を喪った隻腕の芸術家。嗚呼何と美しいのだろう。

 追い求めていた理想に私自身がなってしまったから、私はもう創作をする理由を喪ったのである。

 紙燭は私のファンだと言う。

 今でも左手を使えば出来ないことは無いけれど、昔のような――例えば彼女の期待するような作品は作れないだろう。もうそこまでの情熱が遺っていない。燃え尽きてしまった。それではきっと彼女は納得しない。そうなれば、私と篝は名探偵の毒牙に掛かってお終い。

 いやはや。

 どうしたものか。


 

 後編「反時計回りの天国」


「わたしを殺してくれないかい、先生」

 燃え盛る時計塔を前にして、篝は私に笑顔でそう言った。その笑顔は私の知る限りの、あの見透かしたような厭な笑みでは無い、ただ純粋な、少女のような笑みだった。

 とある梅雨の日であった。めらめら燃える火柱に散らかる火の粉。私と篝は二人で時計塔を燃やした。恥ずかしながら、私は名探偵を出し抜く策を思いつけなかった。唯一つ「時計塔を燃やしてそれを『作品』と言い張る」という苦肉の策を除いては。それに縋る他無かった自分を酷く恥じる。

 そんな陳腐な犯人にはなりたくなかった。建築物だって作品である。他人の作品を燃やしてそれを我が物顔で「作品」だと言い張るような恥知らずなんか御免だった。けれど仕方無かったのだ。こうすることでしか、私は迫り来る探偵の魔の手から身を守ることが出来なかったのである。

 しかし、現実はつくづく小説よりも奇怪である。

 篝はもう長くないらしい。

 からくりだって無限じゃない。篝は「人形」としては不良品であった。人間に言い換えれば、身体が弱かった。だから度々不調を来していたそうだけれど、その積み重ねによってもう取り返しの付かない所まで来てしまったらしい。

 修理に出たらどうだと提案したが、それは無理な話らしかった。

 というのは、修理の過程で記憶媒体を一緒に覗かれてしまえば、彼女の犯行が明るみの下に晒されてしまうからである。そうなれば、普通に死ぬより凄惨な事態が待っている。

 だから篝は私に笑顔で訴えるのである。

 殺してよ――と。

「無理だ」

「何故だい。放火で散々やってきたんだ、殺すのは初めてじゃないだろう」

「人を殺すのとからくりを殺すのとじゃ訳が違う」

「普通逆だよ」

 悪のキャンプファイヤーを前に、篝はアスファルトの地面へと座り込んだ。「まあ座りなよ先生」と、あの日と同じ台詞を吐く。

「わたしは嬉しかった」

 私は隣に座り込んだはいいものの、何も言えなかった。それは殆ど独白に近く、彼女の言葉は夜空へと昇り、儚く霧散する。まるで、煙のように。

「放火に理解を示してくれる人間なんて居なかったから、先生はわたしの初めての理解者なのさ。初めての共犯者なのさ」

 ちかちかと眩い、めらめらと薪を焼べる音。橙と黄に染まる篝の白い横顔。嗄れた声。

「だから唯殺されるのは厭だな。先生には後悔して欲しい。わたしを殺して、わたしが死んでも、わたしを覚えていて欲しい。そうしたらわたしは先生の中で燃え続けられる」

 秒針の音は久遠に止まる。

「よし。じゃあ、わたしの昔話をしよう」

 

 ○

 

 恥の多い生涯を送ってきました。

 そんな書き出しから始まってもおかしくない篝の生涯は、「人形」として失格していた。

 篝は普通の「人形」と同じように一般的な家庭に引き取られた。娘一人の三人家族で、家庭環境は至って健全――誰かが知れば刺される程に、幸せな毎日だったと言う。

 歯車が狂ったのは、奇しくも私が時計の歯車を狂わせた頃と同時期である。

 その一人娘が亡くなった。遺されたのは夫婦と「人形」。篝が「篝」と呼ばれるようになったのは、この頃からである。夫婦は「人形」に亡くした娘の面影を重ねて――いや、そんな甘いものではない――亡き娘そのものとして接した。それは例えば面と向かって「娘として振る舞ってくれ」と言った訳ではない。ただ、そういう空気だったのである。篝は「篝ちゃん」として振る舞わない限りは居ないものとして扱われた。そんなものはもう、存在否定も同義であった。

 篝の中には「篝ちゃん」の人格と、かつての幸せな日々で育った「自分」の人格が混在している状態であった。その矛盾、撞着、葛藤が少しずつ少しずつ、しかし確かに彼女を蝕んでいった。

気付かないうちにじわじわ毒に侵されていく。孤独というよりも蠱毒である。実際この時から彼女は悪夢を見るようになったと言う。「人形」も夢を見るらしい。

 それは長閑な平原である。幸せな三人家族が遊んでいる。しかし周りの木々が段々と形を変えて十字架になる。娘がそこに吊されて血が垂れる。その血を両親が乞食のように啜って、その口に含んだ血を、篝へと親鳥のように口移しする。

そこでいつも目が覚める。飛び起きる。

 明らかに限界であった。

 だから篝は死ぬことにした。

「人形」が壊れた場合も人間と同じように弔いが行われるが、少々やり方が異なる。「人形」の場合は燃やさずに、部品を再利用して別のからくりへと作り変え、それを形見として遺族が大切に保管するのである。人間で言えばそれは遺骨のようなもので、違うのは四十九日の制約が無いことである。

 そんな背景があるために、篝の選べる自殺は跡形も無くなる焼身自殺のみであった。転生しても尚その家族の下にあるだなんて、それはもう篝にとっては呪縛である。それを回避する為には、自分を文字通りの塵にする必要があった。

 燃やしても問題無さそうな空き家を見繕って、そこで自殺を図った。

 しかし直前になって彼女は急に恐ろしくなって、命からがら逃げ出した。顔に火傷を負って、家と呼べるのか判らぬ家へと帰った。絶望した。同時に自分が情けなかった。「生きたい」と思っていることが、恥ずかしかった。この火傷が功を奏すことになるとは微塵も思っていなかった。

 人生、一体何が役に立つのか判らない――篝は「篝ちゃん」ではなくなったのである。どうやらその火傷のお陰で、夫婦は篝を「娘」と重ねることが出来なくなったらしく――その複雑な心中を推し量るのは難しい――篝は家を追い出されたのであった。

 こうして、篝の放浪の日々が始まる。

 まず幾ら「人形」であっても暮らすにはお金が必要である。お金の為には労働が必要である。労働の為には人間でなければならない――正確には、「人形」であっても労働は出来るのだが、しかしその場合、給料が発生しない。故に篝が生きる為には自らを人間と偽る必要があった。篝のどうしようもない人間臭さはこうして培われた。


 ○


「そうですか。ご冥福をお祈りします」

「ええ」

 渦巻き町三丁目にある喫茶店。窓の外には燃え滓となった時計塔が見える。それよりも黒い珈琲を飲みながら、私は名前や彼女が「人形」であることこそ伏せたものの、探偵に篝の顛末を語った。

「貴方が殺したんですね」

「そう頼まれましたから」

「それを私に言っても良かったのですか」

「まあ」

 これは正確には殺人ではない。器物破損だ。だから言った。

 放火を知られている以上、今更余罪が一つ増えたところで大した変わりはない。

「で、本題は何でしょうか。まさかそれを伝える為にわざわざ私を呼び出した訳じゃないでしょう」

 探偵は紅茶をかたんと置くと、単刀直入に切り出した。余り前置きを好むタイプではないらしい。探偵らしいのか、探偵らしくないのか。

「探偵さんにお願いされた件ですよ」

 新しく作品を作ってください。

 紙燭の顔付きが変わった。探偵から一人の人間として。

「まさか完成したんですか!」

「完成はまだです。でも、もう直ぐです」

「やった、ありがとうございます先生。でも、それなら電話でも間に合ったのでは?」

「記録に遺したくないんですよ」

「あぁ、なるほど」

 盗聴される可能性だってある。念には念を入れるべきだ。

「もしかしたら放火したものを『作品』と言い張るのかなと思ってました」

「そんな恥知らずなことしませんよ」

「ですよね、失礼しました」

 建築物だって誰かの作品である。他人の作品を燃やしてそれを自らの作品だと謳う程、私は落ちぶれていない。他人の作品には敬意を持って接するべきである。最大限の愛を以てして接さない限り、それは冒涜である。

なんて、そんなのは今だから言えることだ。本当はそのつもりだった。恥ずかしいから絶対に言わないけれど。

「その作品、ちゃんと見せてくださいね」

「当たり前です」

「でもあれですよ? 別に私に寄越す必要はありませんからね」

「え、あ。そうなんですか?」

「ええ。その方が多分、作品だって嬉しいでしょうから」

 きっと紙燭に他意はなかったのだろう。けれどその言動は、私にしてみれば見透かされているような感覚があって、篝のあのすれからした亜麻色の目を思い出した。

 私は目線を外して、ぼーっと外を見た。

 燃え滓の時計塔。何処までも澄み渡る空。

 その姿がどう見えたのか判らないが、紙燭は不安そうに訊いてきた。

「あの、念押しで確認するんですが、大丈夫ですよね? 逃げないでくださいよ」

「大丈夫ですよ。何せ、『相棒』が最後に火を付けたのは、時計塔なんかじゃなく、私の情熱ですから」

 

 ○


「人形」が人間として暮らすためには、多少なりとも悪性が必要であった。意外と見落としがちだが、人間生活が善性のみで廻ることは絶対にあり得ない。そこに多少の悪意が介在し、さながら潤滑油のような役割を果たすことで漸く廻るのである。共通の知人の陰口で盛り上がったり、立場が上の人間に反抗する為に結託が生まれたり、例を挙げればキリが無い。篝はまず、これに適応する必要があった。

 なんて、言葉で述べるのは簡単だが、「人形」にとってこれは非常に難しいことである。そもそも「人形」は人間に奉公することを想定して作られている。究極の性善説――それが「人形」の宿命である。篝はまずこれに真っ向から抗う必要があった。これを他で喩えるとしたら、時計に左回りで回ってくれとお願いするようなものである。

 ただし、時計と異なるのは篝には明確な意志が存在するということだ。これに篝が取った手段は聞くも馬鹿らしい程に単純なもので、端的に言えば物理的な破壊であった。「人形」の善性はあくまでもからくりによる産物である。ならば、それに該当するからくりを損傷させることが出来たならば、善性の桎梏から解き放たれることになる。幸い、何処が善性を司っているのか、篝は熟知していた。それは何も特別なことじゃない、からくり特有の感覚であった。ロボトミー手術を彷彿とさせるこの原始的な手段は、しかし酷く効果的で、詳細な手順は省くけれど、彼女は見事に真の意味で人間性を獲得するに至った。

 篝が「人形」だと確信する人間は居なかった。一人を除いては。

 篝は様々な職業を転々としていた。新聞配達から飲食店のウェイトレス、企業の受付、神社の巫女、工場の作業員、タクシーの運転手。からくり故にどれも難なくこなせた。彼女がここまでして職業を変えていたのは、徹底した危機管理意識からであった。火のない所に煙は立たない。根源不明の「あいつは『人形』ではないか」という噂が少しでも立てば、篝は面倒事になるためにさっさと退散した。

 そんな紆余曲折を経て看護師になった。

 ここで出逢った一人の「せんせい」が彼女にとっての転機であった。まあ「せんせい」とは言うが、別にその人が政治家とか教師とかいう訳ではなくて、単に篝が恩師として慕っているだけのことである。曰く、その「せんせい」とやらは私によく似ていたと言う。いや、時系列的には私がその「せんせい」に似ていたのだろう。具体的に何が似ていたのかは、篝とて言語化出来ないそうだが、身に纏う空気とか考え方というような、内面が似通っていたそうである。「せんせい」は今際の際を争う老年の女性患者であった。篝は彼女の日常的な世話を任された。朝の検温に始まり、ご飯の配膳、排泄の手伝い、それらの間にする世間話など多岐に亘り、次第に仲を深めていったという。「せんせい」はある時に、篝へこう切り出した。

 演技は疲れるかい――と。

 その真意を最初こそ図りかねたが、どうも「せんせい」は自分が「人形」であることを見透かしているらしいと気付くと篝は大変に動揺したが、しかし「せんせい」の表情を観察する限りに於いて、彼女には害意が全く無かったものだから、直ぐに落ち着いたと言う。それどころか、彼女には共感の意さえ見えた。

「わたしも疲れたさ、もう。篝、君には打ち明けよう」

 その「せんせい」こそが、放火魔であった。その女性は篝にとっての「悪性の恩師」であった。何か洒落たルビを振れそうな文言だけれど、これは篝が本当に言っていたことだ。「せんせい」には病的な魅力があった。彼女の思想はどれも危険だったが、篝はそれを人間的と解釈した。人間になりたかった篝にとっては、これ以上ない「せんせい」だった。

「せんせい」は篝に一つのお願いをする。銀色のオイルライターを手に握らせながら。

 自殺未遂を除けば、それが初めての放火だった。そしてこれが、彼女が放火魔となるきっかけ。燃やしたのは、一人の人間であった。

「わたしはもう長くない。だから篝、お前にお願いしたい。わたしが寿命で死ぬ前にわたしを燃やして殺してくれないかい。わたしは知りたい。燃え死ぬってどういうことなのか。これは償いじゃない。わたしの好奇心だ」

 篝は「せんせい」を深夜に車椅子で外へと連れ出して、そこで彼女を燃やした。

深夜。風すら遠く、川のせせらぎばかりがやたらに木霊する凪の中、土手に転がった車椅子。金属音。火柱の音。その後に悲鳴がつんざく。目の前には囂々と燃え盛る豆電球のような光。蛍のように淡く煌めき立つそれを、篝は「美しい」と、そう思ったそうである。

 それは多分、時計塔が燃える様と同じだっただろう。

「どうして僕を『先生』なんて慕うんだ? お前にしてみれば、その言葉は特別なんじゃないのか。だってほら、お前のその気取った口調だって『せんせい』の真似なんだろう」

 篝の心臓に彼女から手渡された刃物を突き立てながら私は問うた。その用意周到さを見て、私は篝が最初から本当に死ぬつもりでここに来たのだと悟った。「人形」も心臓の辺りに大事なからくりがある。それを一刺しにすれば一切の機能が停止する。

「『せんせい』は確かに教えてくれたさ。放火の楽しさと美しさを」刃物を突き立てられているというのに、篝はいつもと変わらない。亜麻色のすれからした目。見窄らしい癖っ毛。白い肌。嗄れた声。「でも――」

 私は何も言わない。何か言ったら、声が裏返ってしまいそうだった。

「あの人はこの燃えるような感情を教えてくれなかった。ありがとう先生。わたしの心に火を付けてくれて」

と、そこで篝の表情が明らかに変わった。柔らかくなった。目の奥が焔のように光っている。口調も暖かい。まるで、別人のようだ。

 いや。どうだろう。それは変わったのではなく、戻ったのか。

 いつかの「篝ちゃん」の前の彼女に。

 幸せだった、彼女に。

 時計が巻き戻ったのか。

「あの日、ボクは多分やっと生まれられたんだよ。ちょっと、変だけどね。だから、ありがとね、先生。今までも、これからも」

 私は篝を何だと思っていたのだろう。

 相棒か。

友人か。

 人形か。

 犯罪者か。

 判らない。でも確かに言えるのは。

「大好きだよ、先生。ひとめぼれでした」

 私は一度も。

 篝を。

 そんな目で見たことはなかった。

 それは多分、私は何処かで篝を人間としてではなく、からくりとして見ていたからだ。

 でも篝は違ったのだ。

 彼女は人間だったのだ。

 何処までも。何処までも。

 恋に落ちるほどに。

 燃える心があるほどに。

 たとえ心臓を刺して血が流れなくても。

 たとえ冬の日に白い息が上がらなくても。

 最初から最後まで。

 公園で会ったあの日から。

 亜麻色の目が燃え盛る時計塔を映さなくなるその時まで。

篝は、人間だったのだ。

ごくごくありふれた平々凡々の。

私と同じ、人間だった。

 

 ○


夕焼け。

 夏の暑さと雲の焼ける橙色の陽射し。

 渦巻き町のとある山の頂上にあるベンチに座って昔のことを思い出していると、一人の大学生程とお見受けする女性が「すみません。火を貸してくれませんか」と訊ねてきた。私はそれを承諾し、銀色のオイルライターで彼女の煙草に左手で火を付けた。

「ありがとうございます」

 そう言う彼女の口から煙が零れる。副流煙は紅茶の匂いだった。

「素敵な懐中時計ですね」

 煙が天に霧散した頃に、彼女は私の握っていた時計を見てそう言った。

「ああ。これね。形見なんだ」

「本当に素敵です! よく見せてくれませんか?」

 矯めつ眇めつ眺めた女性は、程なくして言う。

「あれ? 壊れていませんかこれ?」

「そうだね。ちょっと変なんだ。でも、だからこそ美しいとは思わない? 不完全で未完成だから人間らしくて、だからこそ美しいって」

「あはは。面白いですけれど、飛躍しすぎでは?」

「いーや。全部繋がっているよ。廻っているんだ」

とある「人形」のからくりを再構成して作られた懐中時計。

 最大の特徴は、反時計回りに時を刻むこと。

 まるで意志でもあるかのように、出来上がった瞬間にこの時計は反対に廻った。

「まあ座りなよ」と私は彼女に椅子を勧めて、あれこれ他愛もない話をした。彼女は芸術学科の学生だったらしく、私の美学を興味深そうに聞いてくれた。時々議論も交えたり、そんなものとは全く関係ない馬鹿話で笑い合ったりしていたら、いつの間にか日が暮れた。

 と、私はそこで思い出した。

「あそこを見ていて」

 彼女に虚空を指差す。「あそこと言われても」と言われたけれど、この場合は具体的な場所を指し示す必要はない。

 暫くして。

 ひゅー。

 どかん。

 と、燃え滓となった時計塔を覆い隠すようにして、夜空に花が咲いた。

「わぁ! 今日夏祭りだったんですね!」

 鳴り止まない花火の咲く音は規則的で、秒針のようだった。

 けれど、今までと違うのはあの不快感が無いこと。

 それは多分、このマイナス一秒を刻む懐中時計があるから。

 美学なんて抜きにして。

 私は素直に美しいと、そう思った。


                          

読んでいただき、ありがとうございました。


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