つばさ
極彩色のネオンが照らす夜の街は、遠い場所から見れば随分と幻想的で、
ロマンチックなのかもしれない。
「いってぇな、この……!!」
けれどその真っ只中は、暗い暗い闇の底のようなもの。まるで巨大な墓石
のように聳え立つスカイスクレーパーの狭間は、ゴミと汚物、ネズミやゴキ
ブリの死骸と排泄物、そして人間で汚れている。
「くそ!!」
もしこの世界に本当に神様がいるとしたら、きっと都会の夜を遥か遠くか
ら眺めているんだろう。そして呟く。
“今日も人間界は美しい”
だからきっと、気づかない。本当のことは、そこに行くまで分からない。
それはきっと、神様も同じなんだ。そんなふうに、僕は思う。
「こいつ!!」
誰もいない超高層ビルに挟まれたゴミだらけの路地で、似たような服装の
若い男たちが暴れている。髪は金髪だったり茶髪だったり、坊主だったり、
それぞれだけど、全員に共通しているのは流行のファッション、髪型という
ところだ。服装と髪型だけ見ていれば、まるで雑誌やテレビの中から出てき
たようだし、デパートなんかのファッション・コーナーで服を着せられたマ
ネキンがそのまま歩いているように見えなくはない。でも残念ながら顔立ち
は揃って超・庶民級。あるいはそれ以下というところだ。カッコ良くないか
ら、彼らは服や髪型で少しでもカッコ良く見せようとしている。僕にしてみ
れば、そんな印象しかない。
「ふざけんなよ、このやろー!!」
けれど僕も、人のことは言えない。まだ「カッコ良く見せよう」と努力し
ている彼らの方がまだマシなのかもしれない。冴えない学生服に、縁なしの
メガネ。貧弱な体。今までの人生で一度も、誰かから「カッコイイ」なんて
言われたことはない。大企業の社長令息である、ということを除けば、何一
つ取り柄のない、僕。自分自身のことは好きでもないし、嫌いでもない。こ
のまま何事もなく生きていけば、親の会社を継いで悠々自適の人生を送れる。
将来に対する希望も情熱もない。勉強もスポーツも人並みの、ごくありふれ
た、ただの高校生だ。
「この女……!!」
若い男たちが取り囲んでいるのは、黒髪をショート・カットにした少女だ。
肩口が大きく開いた赤と黒のボーダーラインのセーターに、ヒザまであるブ
ーツ。右の太ももに嵌められた、黒いレースのリング。時折、通りかかる車
のヘッドライトが照らすその顔立ちは、本当はフランス人形のように可愛ら
しい。けれど、やたらアイラインとマスカラが濃いメイクをしているから、
ゴスメチックなビスク・ドールと言った方が似合うかもしれない。
彼女の名はツバサ。
僕の幼馴染で、僕の「奴隷」……。
ツバサは可愛らしい見た目とは裏腹に、どういうわけかケンカが強い。
彼女が繰り出す技は、まるでアクション・ゲームの女の子キャラが現実世
界にやって来て、僕のために、僕の目の前で戦ってくれているような、そ
んな陶酔感を覚える。
「うぁあ!!」
鮮やかな回し蹴りが男の顎を直撃し、男は仰け反って路地に尻もちをつ
いた。ツバサは腰下まであるセーターを着ているだけで、下に何も履いて
いない。だから蹴り上げた瞬間、彼女の白い下着がよく見えた。
「っつ!!」
フツーに考えれば、若い男4人相手に、女の子が1人で勝てるはずなん
てない。それでも最初はツバサの方が優勢だったのは、彼女が強いからだ。
でも、現実と二次元は違う。見ているうちにどんどんツバサが劣勢になっ
ていった。金髪の男がツバサの腹を蹴り上げ、短い悲鳴を上げて彼女は汚
い路地に転がった。コンビニでフツーに売っている菓子パンの袋が、彼女
が倒れた時に巻き上げた風に煽られて宙を舞う。
「このクソ女!!」
細い腹を抱えて蹲るツバサに、何度も何度もクツの底が降り注いだ。綺
麗な黒髪も、買ったばかりの服も、白い脚も……駅のトイレや酔っ払いの
ゲロを踏んだクツに踏みしだかれる。その様子を、僕はじっと見つめてい
た。
「このくらいにしといてやろーぜ。死んじまったら面倒だ」
蹲ったまま立てずにいるツバサをさんざん踏みつけた後、男の一人がそ
んな風に言った。
「ふざけんなよ! さんざんボコにされたんだぜ!?」
仲間のうち二人は、まだまだやりたりないという顔をしている。けれど、
先ほどの男が真剣な顔で首を振って見せる。
「通報されたら困るだろ? 行くぞ」
何に、とは言わない。でも、どうやらその言葉で正気に返ったらしい。彼
らはチラリと僕の方を見やって、そして道端にツバを吐きかけて去って行っ
た。
「っつ!」
立ち去って行く彼らの目が、僕をバカにしていた。そう思うと、僕はいて
もたってもいられず、思わず拳を握りしめた。そもそもツバを吐くなんて、
下品だ。吐き気がする。だから僕は、ああいった連中が大キライなんだ。
「ゴミのくせに……」
下っ端の仕事しかできない連中のことを、父はいつもそう言っていた。だ
から僕もそう呼ぶ。あんな連中は、みんなゴミだ。僕とは違う。それなのに、
たった今、僕はゴミにバカにされた。そう思うと、目の前が真っ赤になるく
らい、イライラした。
「ツバサ」
僕は倒れたまま動けないツバサを呼ぶ。その声に、彼女がかろうじて顔を
上げた。紫色のコンタクトレンズが入った、ガラスみたいな瞳が僕を捉える。
いつもながら、綺麗な顔だと思う。
「来てよ」
イライラする。ツバサが戦うところを見ているのは楽しかったんだ。でも、
最後の最後でゴミにバカにされた。気分が台無しだ。最悪の気分だ。とても、
このままじゃ帰れない。
「早く来てよ!」
僕が叫ぶように命令する。すると、ツバサは腹を押さえながらヨロヨロと
ち上がって、僕の前にやってきた。身長はほとんど変わらない。紫色のコン
タクトレンズが入った瞳が、間近にある。顔立ちも体も、やっていることも
人形みたいなモンなのに、ツバサの瞳には強い人間の意志がある。それがと
てもアンバランスなようで、逆に魅力的でもあると思う。
「なめて」
僕はツバサに命令する。するとツバサは顔色ひとつ変えずに、僕の前にヒ
ザを折って、学生服のズボンのジッパーに手をかけた。
*
ヤるだけのことはヤッた後、僕はツバサを見下ろしながら、何とも言えな
い不快感を覚え始めていた。
「ツバサ」
僕が分身を挿入しようとして、すぐに入らなかった。ツバサの体は僕を拒
絶した。奴隷のくせに、主人である僕に逆らった。それが許せない。ツバサ
は、僕を満足させるためだけに存在しているんだ。それなのに、ツバサは僕
を満足させられなかった。
「ツバサ、立てよ」
命令すれば、素直に立ち上がるツバサ。こういうところは、彼女の両親に
ソックリだ。ただひとつ、ツバサと両親が違っていることと言えば、両親た
ちがすべてを諦めたような目をしていたにも関わらず、彼女は僕にどんな風
に扱われても決して瞳だけは屈しないというところだ。両親が奴隷だから、
ツバサも僕の奴隷なんだ。もしツバサが僕に逆らうようなことがあれば、ま
ず間違いなく僕の両親はツバサの両親に制裁を加える。それが分かっている
から、ツバサは決して僕に逆らえない。
「お前、どういうつもりなんだよ」
幼いころからそうだったから、僕とツバサの関係はずっとこんな感じだ。
思春期になって性が目覚めた時、手っ取り早いツバサをその対象にしてみた。
思っていたよりずっと良かったから、僕はヤリたい時にヤレる相手としても
ツバサの体を使っている。それに、彼女は可愛い。セックスの相手としては
申し分ない。
「僕に逆らったらどうなるか、分かってんだろうな! なんで生理中なんだ
よ!? 汚れたじゃないか!!」
ツバサの紫色の瞳は、じっと僕を見つめている。何も言わない。何もしな
い。それでも、強い意志をたたえた瞳に見据えられると、何だか僕の方が悪
いことをしている気分になってしまう。
「ふざけんなよ! そんな目で見るな!」
ツバサは、きっと僕のことが嫌いなんだと心の底では分かっている。いや、
嫌いなんて生易しいものじゃない。おそらく、この世の誰よりも僕を憎んで
いる。でも、ツバサは僕の奴隷なんだ。所有物なんだ。どうして所有物に気
に入られようとしなければならないんだ。主人である僕に、そんなことをし
なければならない理由はない。それに、男が女に気を使うなんてバカげてる。
「その目を止めろ、ツバサ! 許さない! 許さないぞ!」
ツバサの頬を殴りながらそう言った。けれど、彼女は一向に僕を見つめる
瞳に込められた意志を緩めようとはしなかった。
「くそ! お前、もういい! もういらない! 死んでしまえ!!」
気に入らなかった。僕に逆らうツバサが、気に入らない。思い通りになら
ないなんて、腹が立つ。
「ほら! そこから飛び降りて、死んでしまえよ!!」
僕はイラ立った気分のまま、ビルに備え付けられた非常階段を指差した。
ツバサの視線がそこに向く。
「できないだろ!? 早く謝れ! ヒザをついて、ちゃんと謝るんだ!」
そうしたら、許してやらないでもない。言いかえれば、そうしなければ
僕の怒りは解けない。ツバサが僕を怒らせたと知ったら、きっと僕の父さ
んも怒る。そしてツバサの親も、父さんから制裁を与えられる。それだけ
の話だ。
「どうしたんだよ! さっさと謝れよ!!」
無言で非常階段の方を見つめていたツバサがふいに歩き出す。てっきり
僕の前に来るかと思えば、僕が指差した階段の方へ向って歩いて行ってし
まう。呆気にとられた顔で、僕はその背を見つめた。
「お、おい! ツバサ!!」
僕は慌てた。ツバサの後を追いかけようかと思ったが、その背中はあま
りにも僕を拒絶していて、さすがの僕も近寄ることができなかった。まさ
か本当に飛び降りるつもりはないだろうから、きっと大嫌いな僕に対する
ささやかな嫌がらせだ。飛び降りるフリをして、僕が彼女を許すのを待つ
つもりなんだ。
「絶対に許さないぞ! 謝るまで許してやらないからな!」
まるで自分の家へ帰る時のような迷いない足取りで、ツバサは非常階段
を上へ、上へと登って行く。見る間に、最上階付近へ辿り着いた。
「くそ!」
追いかけようか、どうしようか。迷う必要もないことを、僕は考える。
逡巡を繰り返すまでもなかった。答えは、いきなり目の前に突きつけられ
る。
彼女の背に翼が生えたような、錯覚を覚えた。
非常階段の手すりを飛び越えたツバサが、いきなり空中に体を投げ出し
た。そこから落ちてどうなるか、考えたようには見えなかった。恐れすら
感じさせなかった。それくらい、彼女はあっさりと、空中に飛び出した。
「ツバ、サ……!!」
現実を理解するまでもない。僕の足元に、ツバサが落ちてきた。グシャ
と気味の悪い音を立てて、僕の目の前でツバサの頭が潰れた。汚い路地に
飛び散る血と脳ミソの飛沫。じわりと溢れ出る血が広がって行った。
「ツバサ……」
顔が潰れていた。綺麗だと思っていた彼女の顔が、不自然に路地に突っ
伏している。もう助からないことは、誰が見ても明らかだった。
「ツバサ……」
でも、僕は現実が信じられなかった。目の前でツバサが潰れたというの
に、それでもまだ彼女が生きているのではないかと脳が期待を寄せている。
救急車を呼ばなければならない。警察も呼ぶべきだ。けれど、僕の体はま
るで氷りついたように指一本、動かせなかった。
「ツバサ……」
汚いだけのモノになってしまったツバサを見下ろす。なぜか、涙が頬を
伝った。
「なんで……? なんでなんだよ、ツバサ!」
分からない。どんなに考えても分からない。どうしてツバサが死んだの
か、どうしてあんなに簡単に空中に飛び出してしまったのか。分からない。
そして、永遠に答えは出ない。僕に答えをくれる唯一の女の子は、翼を羽
ばたかせて飛び立ってしまった。
(神様、僕に翼をください)
翼があれば、彼女のところに飛んで行ける気がした。
(“つばさ”を、ください……)
終劇
お疲れ様でした。ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!