傾城ヴァルキリーズ
とあるサムライの時代。和の国。
長きに渡る戦乱を収め、サムライの長として君臨していた大将軍・頼家が、配下の将・義時の裏切りに遭い、討たれてしまった。
義時は暴君であった。幼い帝を傀儡とし、皇族は島へと流し、従わないサムライ達は次々と処刑した。
世は暗黒期へと突入していた。
※ ※ ※
(何だ、こいつは?)
海辺を歩いていた綾稜は、我が眼を疑った。
船着場の前に、太ももを露わにした、あられもない格好の女が倒れている。その周りには大量の酒樽。
起こすべきか迷った。倒れている女は、まるで遊女の如き格好だ。幼いころから宮中に勤めていて、外へと追放されたいまでも男だてらにサムライの格好をしているような綾稜とは、縁遠い世界の人間だ。
あまり関わりたくない、と思っているところで、
「んふわぁぁ」
遊女風の女は、波の音を掻き消すほどの盛大なあくびをして、目をこすりながら起き上がった。
「んー? もう朝ぁ?」
「いまは昼だ、馬鹿者。こんな海辺で、何を――」
「そう、お昼なのね。じゃあおやすみい」
遊女風の女は二度寝に入ろうとした。
「ええい! 無防備すぎる!」
つい腕を引っ張って、無理やり起こしてしまった。遊女風の女は、唇を尖らせて、むう、と不満げに綾稜のことを睨みつけてくる。
「なによぉ。どこで寝ようと私の勝手でしょ」
「こんな時勢だ。どこで誰に襲われるかわからぬ」
「気にしすぎよ。こんなにのどかじゃない。平和平和」
たしかに蝉の鳴く初夏の海辺、少々汗ばむが、昼寝するのに気持ちのいい気候だ。空の青さも清々しい。
それはさておき、こんな女と関わっている暇はない。
「勝手にしろ。私は先を急ぐ」
桟橋に上り、舟を繋いでいる縄をほどいていく。そんな綾稜の様子を、遊女風の女はジッと眺めている。
「いま舟を出すのはやめたほうがいいわよ」
「時間が無い。すぐに発たないといけないのだ」
「まあまあ。それよりも、いい天気なんだから、ちょっと泳いでいったらどう?」
チッと舌打ちし、縄をほどくのを中断すると、綾稜は遊女風の女を睨みつけた。
いますぐ目の前の大海原へと出なければいけない事情が、綾稜にはあった。
「私は、義時を殺そうとした」
「それって、いまの大将軍でしょ? なんでなの?」
「許せなかった。やつは、私が仕えていた、さる皇族を追放し、島へと流したのだ。ゆえに命を狙った」
「でも失敗した?」
「隙を突いたつもりだった。でも、私一人では無理だった。だから目指すのだ。近江国の江鎮泊を」
遊女風の女は、目をキラリと輝かせた。だが、綾稜はそのことに気がついていない。
「江鎮泊には、頭領である『夜叉天王』小蝶を始めとして、かつて乱世で活躍した異能集団クノイチが続々集結していると聞く。私も仲間に加わりたいんだ」
「だったら、なおさら急ぐ必要はないわ」
突然、遊女風の女はふわりと歩み寄ると、綾稜の胸に手を当てて、トンッと軽やかに押した。
たちまち綾稜は桟橋の上から吹っ飛ばされ、海の中に落ちてしまった。水飛沫が派手に舞い上がる。
「な!? なにィ!?」
頭の先までずぶ濡れになり、目が点になった綾稜は、怒るよりも先に、我が身に何が起きたのかを理解するのに必死だった。サムライの自分が、飛ばされたのだ。
「ふふふ、驚いちゃって、かーわいい」
遊女風の女は、突然衣を脱ぎ捨てた。下から水泳用の肌着が露わになる。
布の面積が少ない、扇情的な形状の肌着に、綾稜は同じ女ながら恥ずかしくて顔を赤くした。
「ほら、今日みたいな天気の日は、泳ぐのが一番!」
遊女風の女は自らも海の中に飛びこんできた。水飛沫が上がり、綾稜はまた頭から濡れてしまった。
「ぷわっ……いい加減にしろ! こんなことしている場合ではない! 追手がもうすぐ来るのだ!」
「だから、言ってるでしょ。今日はやめなさい。潮の流れが悪いから、江鎮泊のある西方へは行けないわよ」
「なぜお前にそんなことがわかる!」
「だって、私、江鎮泊から来たんだもの」
「え……」
綾稜が絶句したところで、陸のほうから騒がしい声と足音が聞こえてきた。
「いたぞ! あそこだ!」
「間違いない、綾稜だ! 捕縛が無理なら殺せ!」
追手だ。悪の大将軍義時に臣従しているサムライ達。
「来た! 逃げろ、ここにいると巻き添えを食うぞ」
「どうして逃げないといけないの?」
遊女風の女は余裕の様子で、キョトンとしている。
「せっかく遠路はるばる、あなたを迎えに来たのに」
「え?」
まさかの女の言葉に、綾稜は目を丸くした。
「さて、お・も・て・な・し、の時間ね」
遊女風の女は泳いでゆき、浜へと上がる。
転がっている酒樽のうち、まだ開いていないものを手に取って、栓を引き抜いた。
ようやく綾稜は気がついた。
「お前は、まさか!」
「そ。私は江鎮泊のクノイチが一人」
遊女風の女は、酒樽を両手で持ち上げると、逆さにしてゴクゴクと勢いよく喉を鳴らし、あっという間に全部飲み干してから、
「『夜叉天王』小蝶よ」
空になった樽を、ドンッと力強く、下に置いた。
サムライ達が砂浜を進んでくる。一人一人が屈強な体格に、厳めしい顔立ち。只者ではない。
だが、相対するは天下最強のクノイチ。
「酔えば酔うほど、強くなる――それが私の力よ!」
小蝶は桟橋へ行き、停泊している舟を両手で掴むと、掛け声とともに、軽々と頭の上に持ち上げた。
「な、なんだと!?」
追手のサムライ達は戸惑い、歩みを止めた。
そこへ、小蝶は舟を投げつけた。まっすぐ舟は宙を飛んでいき、サムライ達に激突する。三、四人、まとめてなぎ倒された。絶叫が砂浜に響き渡る。
そこから先は一方的な戦いとなった。小蝶は、サムライ達の中に飛びこむと、徒手空拳の大暴れを繰り広げた。刀を素手で叩き折り、蹴りの一発で敵を天高く吹き飛ばす。向かうところまるで遮るものなし。
サムライ達は、ほうほうの体で逃げ出していった。
あっという間に、砂浜は元の静けさを取り戻した。
「わざわざ私のために、江鎮泊から……?」
綾稜は砂浜に上がるとすぐ、小蝶に尋ねた。
「あなたに興味があった。だから会いに来たの」
両手についた砂を払いながら、小蝶は綾稜のほうへと振り返り、にっこりと笑った。
「悪いやつらを、天に替わってお仕置きしましょ」
小蝶は微笑みを浮かべ、手を差し出してきた。
いまだに何が起きているのか、思考が追いついていないだけど、もとより望んでいたことだ。綾稜は力強くうなずき、小蝶の手を握り返した。
やがて江鎮泊は、国を相手に本格的な戦いを始めることとなる。その半年ほど前の出来事であった。