第七話
出たくない…ここから出たくない…
―玄奘…
光の向こうに微笑む法明老師がいた。老子は何度も繰り返す。
―玄奘、お前ならできる…お前なら…
風が頬に当たる。すぐ側で声がする。
「おい…何かニヤけてるぞ…イヤらしい夢でも見てんじゃねえか」
「失礼ね、玄奘さまがそんな夢見るわけないじゃない」
顔をべろりとなでられ、玄奘法師は目を開けた。小鈴と白竜と、金色の目をした少年が覗き込んでいる。法師は微笑んだ。
「玄奘さまあ!!」
「ぐふっ」
「頸動脈を絞めんじゃねえよ。また落ちるぞ」
体を起こした法師は辺りの景色が一変しているのに気づいた。やけに広々と、見晴らしが良くなっている。
「山が…」
それまでその穴のなかにいた山が、置物でも移したように無くなっていた。
「お前が…やったのか」
法師はさっきから探るような目を向けてくる少年に訊いた。悟空はそっぽを向き
「力が出せりゃあんな山ひとつどうってことねえよ」
「けど…どうして急に力が出せたんでしょう」
「それはですね…」
悟空の背後から忍び寄った小鈴がその頭に何かを被せた。
「な、何だよこれ!」
「大人しくなさい。あんたはいまから玄奘さまの弟子よ」
「弟子…俺が!?この青びょうたんの!?」
「助けてもらって青びょうたんとは何よこの馬鹿猿。いい?その頭のは緊箍児と言って玄奘さまがある言葉を言わない限り外せないの。だから黙って取経のお供をしなさい」
「ふざけんな!誰がそんな…」
むりやり頭の金環を外そうとする悟空ははっとして
「そうか…何かおかしいと思ったが…お前ら太上老君のじじいの回し者だな。このふざけた道具もあのじじいの作ったもんだろ」
「そそそんな、私たちは決して…」
「うるせえ!」悟空は吠えると耳から何かを取り出し一振りした。一瞬で鉄より硬く鋼のようにしなる長い棒になる。悟空は金色の目をぎらつかせ
「ちょうどいいぜ…お前たちで五百年分の恨み…晴らさせてもらおうか…」
如意棒が振り上げられた。
「すすすすみません!!」
法師はとっさに跪いた。
「は?」
「そもそも私が全部いけなかったんです…身の程も弁えないで…国禁を犯して…遥か西まで経を頂きに行こうなんて…私なんかができることじゃなかったんです」
「お、おい」
「私なんかよりももっと相応しい方が他にもいらっしゃったはずなんです…もっと雄々しくて…たくましくて…」
「あ、あの何か…」
「それなのに私のような非力で意志の弱い人間が老師さまの遺志とはいえこんな大それたことを…」
「い…いだ、いだだだだだだだ!」
「え」法師が顔を上げると、悟空が頭を押さえてのたうち回っている。取扱説明書を読んでいた小鈴が
「えー、本品は玄奘法師が弱音や愚痴を口にした際、装着している者を激しく締め上げます」
「何だそりゃ!?」
「尚、度が過ぎると装着者の命を奪う危険があるので用法、用量を守って正しくご使用ください」
「拷問か!?拷問器具かこれ!?」
「すすすすみません私なんかのせいで」
「いででででっ!!いまの愚痴!?弱音!?」
ひとしきりのたうち回ったあと、肩で息をしている悟空に法師が「あの…」と近づくと
「何も言うな…頼むからひとりにしてくれ」
そう言って背中を向け、夕焼けに黄昏る悟空を法師が神妙に眺めていると、誰かが声をかけてきた。
「玄奘法師…」
見ると、逃げたとばかり思っていた追捕使隊の四人が立っている。
「一時はどうなるかと思いましたが…ご無事で何よりです」
「そんなこと言って油断させて玄奘さまを捕まえる気でしょ」
法師の肩で小鈴が言い返す。
「無論」伯欽と三人の部下が腰の刀を抜き払った。
「国禁を犯したあなたを捕らえるのが私共の役目です」
法師は後退る。それでもこちらをまっすぐ見据える相手に、伯欽は訊ねた。
「そういえば…何故西へ向かうのかお聞きしていませんでしたな」
そう訊かれ、法師は朱に染まる空を仰いだ。遠い山の端に金色の夕陽が沈もうとしている。
「西へ…天竺へ…唐を救うためのお経を頂きに行くためです」
「天竺…」伯欽も夕陽に目を細め
「私も行きたかった…」
「まだ言ってんですか!」
刀を鞘に納めると伯欽は踵を返し言った。
「帰るぞ。長安へ」
「えっでもっ」とまどう部下に伯欽は
「恩享、お前は山ひとつ吹き飛ばすような弟子を持つ人を捕らえる自信があるか」
見ると悟空が横目でこちらを睨んでいる。
「玄奘法師は西へ向かう途中、不慮の死を遂げた。…そういうことだ」
「あ、あのっ…有難うございます」
馬に跨り去ろうとする伯欽に玄奘法師が言った。伯欽はふっと笑い
「道中、どうかご無事で」
夕陽を背に受け去ってゆく追捕使隊を見つめ、法師は呟いた。
「かっこいい…」
「ちょっと変なおじさんでしたけど、いい人でよかったですね。あとは…」
小鈴は白竜に慰められている悟空に目をやり
「あいつをどう調教するか…」
「小鈴…」ふと玄奘法師は離れて立つ木の根元に何かがあるのに気づいた。
「大丈夫ですよ小鈴…あれはきっとそんなに悪い奴じゃない」
小鈴は微笑む法師が指さすほうを見た。そこには、あの洞穴のなかにあった観音像が置かれている。
再び沈みゆく夕日に目をやり法師は言う。
「大丈夫ですよ、きっと…きっと」
そんな自分の姿を、遠くから鋭く見つめる少年の目に、法師は気づいていなかった。
「伯欽さま…」
すでに星の瞬き出した東へと馬の首を向けながら、「隊長と呼べ」という言葉は無視し恩享は訊ねた。
「あの玄奘法師…唐を救うための経を求めて行くって言ってましたけど…俺には分からないんです。唐は…我が国は病んでいるんでしょうか」
伯欽は彼方の、藍色の空の下に沈んでいるはずの都を思いつつ答えた。
「さあな…」