四十九話
「いまこそ天界を乱した罪、受けさせてやる!」
突進してきた哪吒太子が斬妖剣を振り下ろす。悟空がそれを如意棒で払いながら
「五百年岩山に閉じ込められたんだぞ?んなもんとっくにチャラだろ」
「それが反省した者の態度か!」
斬妖剣が相手の足元を狙い薙ぎ払われたが、これもかわされる。
「だいたいお前もしつこくねえか」
觔斗雲の上で斬撃をかわしながら悟空が言う。
「ちょっと天界の建物壊したくれえでいつまでも。ケツの穴が小せえなボンボンのくせに」
「ケツって言うなボンボンって言うな!」
真一文字に振り下ろされた斬妖剣を如意棒が正面て受けとめる。
「貴様は未だに自分のした重大さを分かっていないようだな」
ギリギリと全身で押さえ込み哪吒太子か言った。
「貴様はこの世の全てを統べる全知全能であらせられる天帝の宮を汚したんだ。つまり天帝を汚したことにほかならん!」
全力でそれを押し返しながら悟空が鼻を鳴らす。
「だから…それが何だってだよ」
哪吒太子の表情がすっと冷める。
「無駄だな」
そう言う太子の背から、もう一本の腕が現れた。
青黒いその手には、燃え盛る炎をまとった火尖槍が握られている。
「どんなに閉じ込められようが縛られようが、貴様が思い知るということはない。ならば」
火尖槍悟空の顔面へと突き下ろされた。
「今度こそ息の根止めてやる」
焼けた穂先が緊箍児に突き刺さった瞬間、悟空の金目がかっと見開かれ、身をかわすと同時に一瞬で短くなった如意棒が哪吒太子の腹にめり込んだ。
「ぐっ」
屈み込む太子から間合いをとった悟空が、頭をさすりながら呟く。
「…気のせいか」
「何だ…いまのは」哪吒太子も呟く。
悟空が目を見開いた刹那、全身を雷が落ちたような衝撃がはしった。体が硬直したそのその隙をつかれ、相手を逃してしまった。
(こいつ…何者なんだ)
腹を押さえながらこちらを見てくる哪吒太子を、悟空も見返す。
「腕がもう一本あるなんて聞いてねえぞ」
「…言うわけないだろう」
深く息を吐いた太子が背中を伸ばす。
「貴様…何者なんだ」
「は?」
「人間でも妖魔でもない…まして神なわけはない。なら貴様は何なんだ」
「神…」悟空の目がキラリと光った。
「まあ、強いて言うなら神、なのかもしれねえな」
「…やっぱりただのバカ猿か」
「んだとてめえ!もう一発入れられてえかこら!」
「言い直す。下品で粗暴で知性の欠片もないバカ猿だ」
「こいつ…!」
「おーい」
見ると、下で太上老君か呼んでいる。悟空が觔斗雲から身を乗り出し
「おいジジイ!このボンボンに勝ったぞ!さっさと緊箍児外せ!」
「まだ勝敗は着いてない!」
「はあ!?息の根止めてやらねえと分からねえか!?」
「そのセリフはそのまま返してやるよ。後少しで火尖槍に串刺しにされそうになった分際で」
「おいおまえら!」悟空が金閣と銀閣の前に下り立ち
「見てただろ!俺がボンボンに勝つところ」
金閣と銀閣が薄目を悟空に向ける。
「謹厳な我らが修行中に余所見をするわけがないだろう」
「何だ孫悟空。自意識過剰か。思春期か」
「——っお前らに訊いた俺がバカだった」
「ようやく己の愚かさを認める気になったか」
「お前は黙ってろ!」
下りてきた哪吒太子に悟空が怒鳴る。
「どうだ、ひと暴れして気が済んだろう。なかで茶でも飲め」
「そんなことより緊箍児外せ!聞いてんのかコラ!」
喚きながら、屋敷へ入ってゆく太上老君の後を悟空が追う。仕方なく自分もそちらへ向かおうとした哪吒太子の耳に、釜をかき混ぜる金閣、銀閣の会話が入ってきた。
「茶?うちに茶なんてあったか銀閣」
「さあな。ジジイが漬けてる五加皮酒なら大量にあるけどな」
足を止めた哪吒太子が訝しげに双子を見る。
「ところで…お前たちさっきから何を煮ているんだ」
「フォンドボー」
「ハモるな」
長く薄暗い廊下を太上老君についてゆく悟空の眼前に、質素な造りの広間が現れた。
広間の中央には巨大な甕が置かれていて、その傍らに二人の先客が腰かけている。
やけにニコニコと微笑みかけてくる二人を、悟空が不審げに見返していると、足元で声がした。
「お久し振りです孫悟空さま」
見ると、盆に湯呑みをのせた飢坊が立っている。
飢坊は突き出た大きな目で悟空を見上げ
「その節はお世話になりました」
「…誘拐爆弾魔」
「そんな凶悪犯みたいな認知やめてください。とりあえずお茶をどうぞ」
言われるまま湯呑みを受け取った悟空に、甕の側に立った太上老君が促した。
「これを見てみろ孫悟空」
「だからんなことより…」ブツブツ言いながら甕のなかを覗き込んだ悟空が口をつぐむ。
水が張られた甕のなかに、玄奘法師たちの姿が映っていた。
「転鏡盤と言ってな。下界の様子を映す道具だ」
「耳を澄ますと、声も聞こえますよ」
客人の若い男の方が言った。もう一人の老人の方も笑って頷く。その二人を悟空は睨みつけ
「今更あいつらのことなんざどうでもいいんだよ。おいジジイ!こんなの見たところで俺はもう…」
「あれがお前の師匠か」
後から来た哪吒太子が甕を覗き込んで言った。
「ばっ…師匠なんかじゃねえ!」
「ん?何か木に向かって頭を下げてるぞ」
「…は?」
「今度は野良犬に頭を下げてる。どうしたんだお前の師匠」
「だから師匠なんかじゃ…」
言いつつも悟空も甕のなかをまじまじと覗き込んだ。
「お師匠さま…それ絶対悟空じゃないっすよ」
今度は道端の岩に向かってペコペコ頭を下げている玄奘法師に、悟浄が言った。
「なあ…悟空って無機物にも化けられんのか?」
「おいら分かんない」八戒が悲しげに答える。
「考えたらおいら…悟空のこと何も分かんない。どんな料理出しても結局桃が好きとか言うし」
「そうだよなあ…いつもあれだけガツガツ食べておいてそれはないよなあ」
「ヴェェ…」
「玄奘さま」見かねた小鈴が声をかける。
「悟空が化けて戻ってきてるかもしれないなんて、手当たり次第に頭を下げてたら体が持ちませんよ」
「そうっすよ。そこまで気に病むなら破門を取り消せばいいじゃないっすか」
「私は…私は…」
言いかけた玄奘法師がばっと口を手で覆う。
「えっ何!?つわり!?」
「ヒッヒッフーだよお師匠さま!」
「バカね…玄奘さまは弱音も愚痴も吐かないように懸命に堪えてるんでしょ」
「ああ」悟浄、八戒、白竜が嘔吐を我慢しているようにしか見えない師を憐れむように見つめる。
「だからここんとこやけに無口だったんだ」
「悟空と約束したもんね…お師匠さま」
「ヴヒェ…」
「玄奘さま」小鈴がその背を小さい手でさすりながら
「約束とはいえ、ためこむのも体に毒ですよ。仰りたいことがあれば、いっそ書いたらいかがですか」
「…書く…」
「お、何だ、今度は全員地面に屈み込んだぞ。何してんだお前の仲間」
「だから仲間じゃねえし、いちいち俺に訊くな!」
「ええと何なに?『全部私が悪いんです』?うわ、お師匠さま達筆」
「いえそんな…」
「『私のせいでユキヒョウもお役人も、そして悟空も傷つけてしまいました』うーん、兄貴が傷ついたかどうかは怪しいっすけどね」
「余計な意見差し挿まなくていいわよ。『私がもっとしっかりしていれば誰も傷つかずにすんだかもしれない』!?玄奘さまは何一つ悪くなんかないですよ!悪いのは全部あの強欲村長と強欲役人と暴走したバカ猿です!」
「バカ猿!?いまバカ猿って聞こえなかったか!?」
「だからいちいちうるせえ!!」
「…屈み込んでていまいち何を話しているか聞こえんな」
「落ち着いて小鈴ちゃん。えー、『私のような不甲斐ない人間が悟空の師であることに今更ですが不安を感じてしまいました』?まあ…あの凶暴猿を従えられる人ってそもそもいるんすかね。って、何描いてんだ八戒」
玄奘法師と一緒に、八戒も小枝で地面に何やら描いている。
「…桃を食べてる悟空」
「え!?これ兄貴!?ボール遊びしてるオラウータンの赤ちゃんかと思った!」
「『俺ぶっちゃけ、桃以外の食いもんの味分かんねえんだよな』」
「いやモノマネは似てんのかい」
うつむいていた玄奘法師が思わず吹き出した。
「…何か楽しそうだな」
転鏡盤を眺め言う哪吒太子の横で、悟空が呷った湯呑みを縁に叩きつける。
「おいジジイ…早く緊箍児を外せ」
「ああ、忘れていた」甕に目を落としたまま太上老君が言った。
「それはわしには外せん」
「はあ!?話が違うだろうが!」
「以前、小鈴が言ったはずだ。それは玄奘法師がある言葉を言わない限り外せんとな。それに」
太上老君は鏡のような水面を見つめながら
「お前だって少しは分かってきているだろう。一度結んだ因縁は…そう簡単には断ち切れんということを」
哪吒太子が問いたげな視線を向け、二人の客人は黙って事の成り行きを見つめている。
「ふっざけんな…」悟空が歯軋りし
「できねえなら最初からそう言いやがれこのクソジジイ!!」
激しい怒声がビリビリと水面を揺らした。
「とんだ無駄足だったぜ」
吐き捨てて立ち去ろうとする悟空を、若い方の客人が呼び止めた。
「悟空さん…どうか、また玄奘法師と共に旅をしてくださいませんか」
金目がギロリと睨み据える。
「二度と御免だ」
踵を返した悟空の膝が、突然崩れ落ちた。
「…まさかこのまま帰してやると思ったか」
背後で太上老君の声が言う。
「そうやすやすと何からも逃げ出せると思ったら大間違いだぞ」
「…てめえ…何飲ませやがった…」
頭を押さえる悟空を、太上老君の黄色い目が見下ろす。
「頭を冷やし、もう一度最初からやり直せ」
「何を…コラてめえジジイ!」
悟空の襟首がつかみ上げられ、そのまま転鏡盤のなかへと勢いよく放り込まれた。
泡立ち、やがて静かになった水面を眺め太上老君が鼻を鳴らす。
「まったく…世話の焼ける連中だ」
その太上老君に、飛沫でずぶ濡れになった客人二人と哪吒太子が声をそろえて言った。
「やりすぎじゃないですか…老子」
「元気を出してください玄奘さま」
膝を抱える玄奘法師を小鈴が励ます。
「破門されたとはいえ、悟空もきっと玄奘さまがこの取経の旅を成し遂げることを草葉の陰で願っていますよ!」
「殺さないでー兄貴殺さないでー」
「トリオがコンビになったからって、解散したわけじゃないですから!」
「おれたちお笑い芸人だったの?でも、たしかにあの村に残されてたお陰で、この先の国にも優れたお経があることが分かったんすよね。何か、感謝感激みたいな名前の」
「…観無量寿経です」
「そうだね、もっとすごいお経があるかもしれないってことだね」
「ヴェッヴェッ!」
玄奘法師は西の空へと目をやる。夕陽が天山山脈と荒野を赤く染めている。
「…そうですね。先に進むことが…せめてもの…」
ぎゅっと口をつぐみ、玄奘法師が立ち上がった。
「行きましょう。西へ」
その頭上を、気の早い星が一筋流れていった。
「孫悟空が…玄奘法師に破門された…」
暗い洞窟の奥で吾岌が呟いた。
「破門って…あれか?もう玄奘法師の側に孫悟空がくっついていないってことか?」
「まあ…たぶん」手下たちが頷く。
「つまり…玄奘法師を襲っても、孫悟空は助けに来ないってことか?」
「まあ…たぶん」
がばりと吾岌が立ち上がると、低い洞窟の天井に危うく頭をぶつけそうになる。それにも拘わらず、吾岌は暗闇のなかで小さい目を炯々と光らせ手下たち見下ろす。
「確かな情報か」
「ネズミ情報です」
吾岌は拳を握り、含み笑いを浮かべる。
「もう一度…俺に運が巡ってきたようだな」
とたんに手下たちから不満があがる。
「やめましょうよー。俺さっきから鼻先でフォンドボーの匂いがして不吉で不吉で」
「何て?」
「知らないのか?牛の骨を何時間も煮込む恐ろしいだし汁」
「いや訊いてるのはそこじゃない」
「お前たちは忘れたのか!?」吾岌が居並ぶ手下たちに訴えかける。
「俺たちのマイホームを破壊された恨みを!鼻輪をつけられた屈辱を!」
「鼻輪をつけられたのは吾岌さんだけじゃないですか」
「どっちかっていうと自業自得かなって」
吾岌が足を踏み鳴らし、鼻息を荒くして
「悔しいだろ!恨みを晴らしたいだろ!」
「ええ…」
「今度こそ…!」
洞窟に吾岌の雄叫びが響き、手下たちが耳を塞いだ。
「玄奘法師を手に入れるんだー!!」




