第四十八話
「そういえばあれはどうなりました兄上」
哪吒太子が唐突に訊いた。
「あれ?」
「あれですよ!以前この金闕雲宮をめちゃくちゃにした猿ですよ!老子に岩山の下に閉じ込められた!」
「ああ」恵岸行者が首を巡らす。
二人が歩くその金闕雲宮はとっくに、もとの珊瑚のようなきらびやかな美しさを取り戻していた。
彼方に見える雲霄殿からは、今日も変わらず共命鳥の歌声が流れ聞こえてくる。
「そんなこともあったな」
「忘れないでくださいよ!まだ去年の話ですよ!」
兄の呑気さに哪吒太子がいきり立つ。ちなみに、天界の一日は下界の一年に相当する。
「あれだけの罪を犯した者を簡単に忘れないでくださいよ」
恵岸行者が横目で弟を見る。
「そういうお前は、やけに気にするな」
「あ…当り前じゃないですか!天界で好き勝手に大暴れした罪人ですよ!?」
あのとき、老子に言われた言葉の意味が気になっているとは言わなかった。
「そうだな…確か、いまはもう解放されて人間の僧の弟子になっているとか…」
「人間!?僧!?弟子!?どういうことですか!?」
「うるさいよお前は」
まくしたててくる哪吒太子に恵岸行者が耳を塞ぐ。
「ああっ恵岸行者さま、哪吒太子さま!」
そこへ、虹色の雲がたなびく空を華やかな衣をなびかせた数人の女官が飛んできた。
「あなた方は…西王母さまのところの」
「は、はいっお二人にお会いできてちょうどようございました」
二人の前に舞い降りた西王母の侍女たちは息を切らし
「実は、いま、蟠桃園が荒らされておりまして…どうかお助けください!」
「何…蟠桃園が?」
「どこのどいつですかその不届き者は!」
「それが…猿なんです」
「猿!?」
天界の西王母が所有する蟠桃園には、いつでも甘やかな香りのする桃色の霞が漂っている。
いくつもの桃の木が立ち並び、その枝に咲いた白い花がどれも満開だが、それもいつものことだった。
桃園の中央にはひと際大きく年経た桃の木が数本立っていて、これにはいつでも実がついている。
そのなかの一本で、桃の実を貪り食べている影があった。
「やはりお前か孫悟空!」
悟空が桃から目を上げると、火輪に乗った哪吒太子が上空から見下ろしている。悟空は桃の種を放り投げ
「またお前か」
と更にもう一個桃をもぎ取った。
「それはこっちのセリフだ!て、何を好き勝手に食べてるんだ貴様は!それは九千年に一度実る貴重な…」
「あ、どうりでいまいち熟してねえのか」
言うなり悟空は隣の大木に飛び移り、そこになっている実をもぎ取った。
「そっちは六千年に一度実る不老長寿になる実…て、勝手にバクバク食べるんじゃないと言っているんだ!というか食べすぎだろ貴様!」
「下界じゃ時期が過ぎちまったからここんとこ桃食ってねえんだよ。いいだろこれくらい」
「いいわけないだろ蟠桃園の桃は猿にやるためのものじゃないんだぞ!」
ふと口をつぐんだ哪吒太子が、ひたすら桃を食べている悟空をじっと窺う。
「貴様…ひょっとしてやけ食いか」
とたんに悟空がむせた。
「人間の僧の弟子になったんだろう?何故ここにいるんだ。さてはそれも務まらず逃げてきたのか。いやだからと言って何故天界に来て蟠桃園の桃をやけ食いしているんだ」
「ばっ…やけ食いじゃねえよ!逃げてきたわけでもねえ!」
「まあ、そもそもお前に人の弟子が務まるわけがないしな」
「俺のほうが我慢できなくなったんだよ!あんなへなちょこ坊主の弟子なんざ」
「兄上」
その瞬間、飛んできた縛妖索が悟空を締め上げた。
「…てめえ」
桃の木の陰から現れた恵岸行者を悟空が睨みつける。
「縛妖索はそもそも兄上の持ち物だからな」
哪吒太子が勝ち誇ったように
「そのまま老子の所に引っ立ててやる。貴様を助けた老子にもこの責任を取ってもらわなければ」
「私は事の次第を西王母さまと玉帝に報告しておく」
「えっ私一人で行くんですか!?」
「縛られた者一人連れて行くのに二人がかりも必要ないだろう」
「ええ…」
「任せたぞ、弟!」
「…面倒臭がってませんか兄上」
太上老君の住む離恨天兜宮では、金閣と銀閣が見事なハモりを響かせながら巨大な釜をかき回していた。
そこへ、彼方から騒々しい声が聞こえてきた。
「だから逃げねえっつってんだろ!放せこの野郎!」
「だから信用できるかって言ってるだろ!立場を弁えろこの猿!」
見ると哪吒太子が片手に孫悟空をぶら下げながらこちらへ飛んでくる。
「哪吒だ」
「孫悟空だ」
金閣と銀閣が顔を見合わせる。
「何だあれ」
すると二人の側に「ぶへっ」と悟空が落ちてきた。その後から哪吒太子が下りてきて訊いた。
「金閣、銀閣、老子はいるか」
金閣と銀閣がまた顔を見合わせニヤリと笑う。
「そんなことよりボンボン、この状況を見て何も思わないのか」
「誰がボンボンだ」
「いたいけな幼児が労働させられてるんだぞ。幼児虐待だぞ」
哪吒太子の表情が面倒臭げに歪む。
「私は老子に用事があるんだが」
双子がやれやれと首を振る。
「これだからボンボンは、自己中で困るな銀閣」
「自分さえよければそれでいいんだな。こいつたぶん自分で使ったコップとか洗わないタイプだぞ金閣」
「おい双子!見た目幼児だからって何言っても許されると思うなよ!…何笑い転げてんだ孫悟空…お前だって洗わないタイプだろ!」
「何だ騒々しい」
屋敷から太上老君の長い影がゆらりと出てきた。
「老子!ぐぶっ」
「ジジイ!」
起き上がった悟空の頭突き哪吒太子の顎を打つ。
「おいジジイ!もう俺はあいつの弟子じゃねえんだよ!さっさと緊箍児を外せ!」
太上老君の黄色い目が悟空を上から下まで眺める。
「何だ。しばらく放っておけば…今度は水簾洞に逃げ帰らなかったのか」
「だから逃げたんじゃねえよ!向こうが…!…向こうが破門だっつったんだ。俺のせいじゃねえよ」
「ははーん」金閣、銀閣が相変わらず釜をかき混ぜながら
「孫氏はやはり玄奘法師に破門されたようですぞ銀閣氏ー」
「時間の問題だとは思っておりましたが本当に時間の問題でしたな金閣氏ー」
「…こいつらほんと腹立つな」
「不本意だが全くもって同感だ」
そう言う悟空と哪吒太子を見比べていた太上老君が「分かった」と頷いた。
「孫悟空、ならば緊箍児を外してやろう」
「本当だろうなジジイ!」悟空が身を乗り出す。
太上老君はその縛妖索を外してやりながら
「ただし、この哪吒と戦って勝てたらだ」
「はあ?」
「老子!何故私が…」
「お主も孫悟空へのわしの処置に不満だったろう」
哪吒太子がぐっと詰まる。
「孫悟空、そもそもお前を岩山の下に閉じ込めたのも、玄奘法師の弟子にしたのも、天界で暴れた罪を反省させるためのものだ。それを途中で放り出して簡単に許される道理がないだろう」
悟空がふん、と鼻を鳴らす。
「従って、緊箍児を外してやるには哪吒に勝って罪滅ぼしをしてからだ」
「…何故私に勝つことが罪滅ぼしになるんです?」
「あーもー分かったよ!」
喚くなり悟空が觔斗雲に飛び乗り如意棒を振り下ろした。
「とにかくこいつを倒しゃあいいんだろ!さっさと終わらせようぜ!」
「ほう?」哪吒太子が斬妖剣を抜く。
「随分と簡単そうに言うな。岩山に閉じ込められて頭も鈍ったんじゃないのか」
「はっ安心しろ」悟空が上空へと上りながら
「何百年閉じ込められようが、てめえ一人倒すのに手間取ったりしねえよ」
「口の減らない猿が!」
その後を追うように、火輪に乗った哪吒太子も虹色の雲がたなびく空へと駆け上ってゆく。
金閣、銀閣がそれを眺め
「これはいい暇潰しができましたな銀閣氏ー」
「ちょうど単調な修行に飽きてきたところでしたからな金閣氏ー」
「何が修行だ」太上老君も懐手に上空を見上げる。
「まあ…気が済んだら下りてくるだろう」




