第三十六話
青空の下大勢の人々が行き交っている。
街のあちらこちらに植えられた木々の緑は柔らかに光り、その下で物売りの声や音楽が明るく響いている。
女王はその様子を城の上から静かに見つめていた。
「いい陽気ですこと」
背後で乳母が言った。
「冬を無事に越えられたのも陛下のお陰だと皆申しておりますよ」
「いえ…私は何も」
目を細める女王の傍らに大輪の牡丹が活けられた花瓶が置かれた。その白い花弁から女王は城壁の外に広がる、春の陽に青く輝く湖に目をやる。
「どうかこの国が…末永く栄えてくれればいいのですが」
ふと、風が吹いたのか、牡丹の花びらがひらりと散って床へと落ちた。
頂に白い万年雪を輝かせた天山山脈が、徐々に近づいてくる。
「もうすぐだ…」
埃まみれの顔をぬぐい伯欽が呟く。
「もうすぐ…あの国に着く」
「もうすぐ日が暮れますよ」
恩享が背後で言う。その後ろに続く恭大と恪洵は埃まみれの顔をぬぐう気力もない。
しかし伯欽は例によってそんなことはお構いなしに
「この西域において宝石とまで讃えられたあの…」
「まだ影も形も見えないじゃないですか」
「都の美しさも人々のきらびやかさも他に比類がないと言われたあの…」
「もう今夜どこで寝るか考えたほうがいいですよ」
「あふれんばかりの水、あふれんばかりの食べ物、優れた文物…まさに砂漠の桃源郷と呼ばれたあの…」
「聞いてます伯欽さま!?」
「あの…」
「名前忘れたんかい」
「ようこそ我が国へ」
城門に入るなり衛兵に言われ、玄奘法師は思わず「すみません」と謝った。背後の弟子たちは呆れて
「ついにあいさつ代わりに謝るようになったぞお師匠さま」
「悲しいなあ。何もしてなくても自白とかしちゃうタイプだな」
「謝れば許してくれると思ったら大間違いだよ!」
言ってから身構えた三人は、何も起こらないので顔を上げると、いつもなら拳を振るってくるはずの小鈴が白竜の頭にしがみついている。辺りを見回すその顔はひどく不安そうだ。
「それにしても、陽も落ちたというのに賑やかですね」
そうとは気づかず法師が感心して言う。
明かりの灯された通りはまだ大勢の人が行き交い、多くの店が商売をしている。その店先に並んだ色とりどりの品物やあらゆる食べ物にまた法師は感心し
「とても豊かな国ですね…長安でもこれほどは…。ここは何という国なんですか小鈴」
振り返ると、白竜の頭の上の小鈴が青白い顔でうつむいている。
「どうしたんですか小鈴…具合でも悪いんですか」
小鈴ははっとしてブルブルと首を振る。
「大丈夫です玄奘さま!大丈夫です…」
そう言いつつまたうつむく小鈴を法師が気遣わしげ見つめる。そんな二人の様子を三人は眺め
「何だろねぇ小鈴ちゃん。超不安って顔に書いてあるけど」
「おい八戒、お前何か嗅ぎつけられねえか」
「うーん」八戒は鼻をひくつかせ
「なーんにも匂わない」
「本当かあ?また食い物の匂いに惑わされてんじゃねえだろうな」
そんな会話をしながら賑やかな通りをゆく一行の前に、城の兵らしい集団が立ち塞がった。
「玄奘法師ご一行ですね」
隊長の男の問いかけに弟子たちが法師の前に出る。
「女王陛下がぜひ城にお招きしたいと仰られております。どうか一緒にいらしてください」
「へ?」拍子抜けする弟子たちを尻目に兵の一団はさっさと進みだす。とまどう一行の耳に周囲の人々の囁く声が聞こえてきた。
「女王さまは信心深いから…」
「この国のために仏の教えを学ぶことを怠らないんだ…」
「有り難いことだ…」
頭をかくと悟空は鼻を鳴らし
「どうすんだ?お師匠さま」
「行きましょう。お城へ」
「だろうな」
ぞろぞろと兵の一団の後に法師の一行が続く。相変わらず白竜の上で黙り込んでいる小鈴がふと目を向けると、人々の間に紛れ青白い顔をした少年の姿が見えた。思わず目を逸らし、小鈴は白竜のたてがみに顔をうずめる。力づけるように白竜が小さくいなないた。
「ようこそ玄奘法師さま…お噂はかねがねお聞きしておりました。お越しいただけて光栄です」
「いえっこちらこそ…」
城に着くなり女王に直々に迎えられ、玄奘法師は恐縮して頭を下げる。
「何でも天竺への取経の旅をなさっているとか…唐からここまでさぞかしご苦労されたのでしょうね」
「いえ、いつも弟子たちに助けられながらなんとかここまで参りました」
「まあ、頼もしいお弟子さんたち」
女王が離れて座る弟子たちに微笑む。
「それでも、更なる御仏の教えを求めて長い旅をなさるなんてとても尊いことです。なかなかできることではありません」
「ええ…勿論そのためもあるんですが」
法師は照れ臭そうに
「私は、新たな経典の、新たな教えによって唐を救えればと思っているんです」
「唐を…救う」女王の顔がわずかに陰る。
「唐はいま豊かですが、どんどん法律が厳しくなり、人々の間には不信が渦巻いています。これでは真の豊かさとは言えません。ですから、新たな教えをもたらすことで唐の人々を救えればと」
はたと法師は口をつぐみ
「すみません、ペラペラと…」
「いえ…」顔を上げ女王はまた微笑んだ。
「素晴らしいと思います。天竺ほどとはいきませんが、我が国にも御仏の教えが入ってきています。私どもにお手伝いできることでしたら喜んでご協力いたします」
「あっありがとうございます」
楽しげな二人の様子を眺め、悟浄は首を傾げる。
「妙だな。美女が寄ってくるのはいつものことだが今回はお師匠さまもまんざらじゃなさそうだぞ」
「そうだね。お師匠さま楽しそうだね」
「妙なのはお師匠さまだけじゃねえだろ」
悟空が八戒の肩につかまっている小鈴を横目で見て
「いつもならお師匠さまに近づく女を悉く追っ払おうとするってのに、何だよこの不気味な大人しさは」
「あれ?ひょっとしてあの女王さまが小鈴ちゃんのお眼鏡に敵ったとか?そうだよなあ美人で賢くて立派に国を治めてるんだもんなあ。ケチのつけようがないよなあ」
「お師匠さまも気に入ってるみてえだし。このままこの国に留まってもいいんじゃねえか」
「そうだね。料理もおいしいしね」
出された料理をもぐもぐ食べながら八戒が言う。
「どうか今夜はこの城でゆっくりお休みください。あ、けれど…」
女王の白い指が窓の外を指さした。城のすぐ側に、塔らしい細い影が建っている。
「あの塔にだけは決して…近づかないでください」
「は、はい…」
女王が袂を上げたときに微かに漂った香りに一瞬気を取られつつも、法師は頷いた。料理を頬張る八戒がまた鼻をヒクヒクさせる。
「なーんにも、匂わないんだよなあ」
部屋の隅で影に溶け込むように、乳母が黙って一行の様子を見つめていた。
青白い灯のもと、玄奘法師は熱心に経典を呼んでいた。
「凄い…」
唐を出てから初めて触れる経典であり、唐にある経典より遥かに進んだその内容に法師はため息をつく。天竺から遠く離れたこの地でさえこれほどの経典があるのだ。天竺にはどれほど優れた教えがあふれていることだろう。
(一日も早く天竺へ行き…もっと多くの教えに触れたい)
玄奘法師の胸に初めてそんな思いが強く湧き上がってきた。
それにしても、と法師は改めて貸してもらった経典を見る。保存状態は悪くないはずだが、どれも所どころ焼け焦げた跡が残っている。
「無事だったのがこれだけでして…」と経典を貸してくれるとき城の者が話していた。
(以前に大きな火事でもあったのだろうか)
「少しはお役に立ちましたでしょうか」
振り向くと、背後にいつのまにか女王が立っていた。青白いろうそくの灯に照らされ、その顔は一段と白く映る。白い顔に際立つ黒い瞳に見惚れていた法師は、微笑み返されてはっと顔を伏せた。
「あの…とても貴重なものをお貸し頂いて…」
「いえ、どれほど優れたものでも、その価値が分かる方がいらっしゃらなければ無意味…その経典をもたらしてくださった鳩摩羅什殿も喜んでくださるでしょう」
「鳩摩羅什…あの鳩摩羅什さまですか!?」
いまから約三百年前の有名な高僧である。
「鳩摩羅什殿の生国亀茲国はこの国の先ですし、王家の生まれである鳩摩羅什殿と我が王家は親戚にもあたります。近しい関係ということもあり、自ら翻訳された多くの経典を頂きました」
事も無げに話す女王に法師はめまいを覚えた。
唐に至るまでの国の仏教は、三百年前に鳩摩羅什によってもたらされた仏典によっていると言っても過言ではない。その彼が手ずから訳した経典がいま目の前にあるのだ。
そっと経典の焦げ跡を撫で玄奘法師が訊ねた。
「焼けた跡があるようですが…昔、火事でもあったのですか?」
薄暗い部屋に沈黙が下りた。玄奘法師が不思議そうに目を向けると、灯に照らされた女王の顔が白を通り越して真っ青に見えた。
「…陛下?」
「え、ええ」女王はうつむき
「実は…昔、大きな火事がございまして。恐ろしい…火事が…」
そのとき、経典もほとんどが焼けてしまいまして…と女王は口早に説明すると
「熱心に読んでいらっしゃるところをお邪魔してしまって申し訳ありません。どうか、お体に障りませんよう」
そう言い残し音もなく去っていった女王の、その残り香を一瞬嗅いでしまったきがして、法師は思わず首を振った。再び経典に向かおうとしたが、意識が何故か別な方へと流れてゆく。
(あの香りは…何だったろう…)
「陛下」
呼び止められた女王は振り返った。見ると廊下の暗がりに乳母が立っている。
「何故、玄奘法師の所へ…」
問い詰めるような口調に女王は顔を背け、窓の外に目をやる。街の灯に照らされ、城の傍らに建つ塔が白く浮かんでいる。
「陛下…」
「私は」美しい眉が苦しげに歪む。
「私は…あの方を…」
皆まで言わず崩れ落ちる女王の体を乳母が受け止めた。
「姫様…何とおいたわしい…」
子供をあやすようにその背中を撫でながら、乳母はいつまでも呟き続けた。
「おかしい」
あてがわれた部屋でゴロゴロしながら弟子三人は、一人窓辺にいる小鈴の背中に首を傾げた。
「いつもだったら隙あらば便所までついていこうとするってのに」
「やっぱあれかね。あの女王さまなら小鈴もお師匠さまの相手として認めるってことじゃないのか」
「お師匠さま、女王さまと結婚しちゃうの?」
ピクリと小鈴の肩が揺れる。
「どおかねえ。もしお師匠さまがその気なら俺たちがどうこう言うことじゃねえし」
「そおだよなあ。西に行くのだってあくまでお師匠さまの意志なわけだし」
「お師匠さま、西に行くのやめちゃうの?」
さっと小鈴が振り返った。
「おっさすがに腹に据えかねたか」
「来たわよ」
「え?」
とたんに何人もの兵によって部屋の入り口が塞がれた。「やれやれ」と悟空が寝台から起き上がり
「このまますんなり国を出られるとは思ってなかったぜ」
兵士の間から乳母が現れた。
「それはあなたたち次第です。玄奘法師殿はこのまま我が国に留まることになりました。弟子であるあなた方にはお引き取り頂きたい、とのことです」
三人は顔を見合わせる。
「お師匠さまがここにいたいって言うんなら…」
「まあ、しょうがないよな」
「そーゆーことならとっとと出てってやるよ」
つられて気を緩めかけた兵たちがはっと身構えた。三人はそれぞれの武器を手にこちらを見据えている。
「なーんて素直に聞く弟子じゃねえって。まず本人と話をさせろ」
「どどどどうしよう」
一方の玄奘法師は、貴重な経典を目の前にしても集中できない自分に動揺していた。
「落ち着け…落ち着くんだ」
これまでに感じたことのない胸の高鳴りを静めるため、夜の冷気に触れようと窓から顔を出したとき、塔へと向かう人影が目に入った。
(あれは…)
どこか見覚えのあるその青白い顔の少年は、傍らに建つ塔へと溶けるように消えていった。
晴れた夜空に冷たく刺さる塔の扉は、半ば砂に埋まっている。
(たしかになかへ…)
そうでなくとも、錆びつき固く閉ざされた鉄の扉を前に、玄奘法師が首を傾げていると誰かが呼びかけた。
「どうかされましたか…玄奘さま」
いつのまにか女王が背後に立っている。
「あのっ決して塔に入ろうとしたわけでは」
悪戯を見つかった子供のように弁解する法師に女王は微笑む。
「ええ…分かっております。玄奘さまは無理矢理に秘密を暴こうとするような方ではないと」
「え」とまどう玄奘法師の眼前にさあっと香しい風が吹いた。気がつくと、女王がいつのまにか自分の胸に顔をうずめていた。
「玄奘さま…」
くぐもった女王の声が直接胸に響く。
「どうか…このまま…」
玄奘法師は頭の奥がしびれるのを感じた。
(この香りは…)
「だあもうっお師匠さまはどこだよ!」
城のなかをぐるぐる駆け回りながら悟空が喚く。後に続く悟浄と八戒も首をひねり
「おかしいな。部屋にもいないなんて」
「大好きな経典もそのままだったしね」
と、三人の行く手を兵たちが塞いだ。
「おかしいと言えば」悟空が如意棒を伸ばすと一撃で兵たちを薙ぎ払った。
「この城自体おかしいけどな」
倒された兵たちは一言も発せず、すぐさま起き上がり槍を構える。兜に下の目には何の感情も浮かんでいない。悟空は舌打ちし
「何の類か知らねえがキリがねえ」
「諦めなされ」
再び乳母が兵たちの間から現れ出て言った。
「これ以上の争いは互いに無益というもの。現にあなた方のお師匠殿の心はもう決まっております」
徐に指さされた窓の外に目をやった三人は、そのまま窓から身を乗り出した。
「おおおお師匠さまが…」
「あの朴念仁が…」
「おおおいらっお師匠さまを本当に見損なったよ!」
「これで分かったでしょう」
乳母はやはり感情の宿らない目で
「玄奘殿はこの国に留まるのです。あなた方はこのまま西へ向かうもよし…故郷へ帰るもよし…ともかく速やかにここから立ち去りなさい」
悟空がはっと空中に佇む小鈴に気づき
「おい小鈴!なにぼおっと眺めてんだ!お師匠さまが他の女とくっついてんだぞ!お前正気か!?」
身動ぎもせず小鈴は二人を見下ろし
「玄奘さまは…いつでも私たちを信じてくれたでしょう。だから…今度は私たちが玄奘さまを信じる番なの」
「何をわけ分かんねえこと…!」三人の体に兵たちがつかみかかる。それを片腕で振り払った悟空が悟浄と八戒の襟首をつかんだ。
「へ?」
「え?」
「とりあえず一回ぶん殴らねえと気がすまねえ!」
言うなり悟空は二人をつかんだまま窓から飛び下り、後から悟浄と八戒の悲鳴が尾を引き、最後に踏まれた蛙のような声で終わった。
「こっの…馬鹿猿!あそこ何階だか分かるか!?三階だぞ!?飛び下りたきゃ一人でやれ!!」
「腰…おいら腰打った…」
「一番手っ取り早いだろうが。それにこの城の連中が普通じゃねえってことは」
悟空が玄奘法師の胸に顔をうずめる女王を見据え
「その女王さまだって何者か分からねえってことだろ、お師匠さま」
女王の肩がピクリと動いた。「玄奘さま」胸にあてられた手に力がこもる。
「どんなに優れた国であろうと…永遠に続くなどということはございません」
法師の目がはっと見開く。涙で濡れた女王の瞳が目の前にあった。
「国の繁栄など長い歴史においては儚い花の命と同じです。全ては夢幻…ですからこれ以上苦しい旅などなさらず、どうかこの国に留まってください」
弟子三人も、それを取り囲む兵士や乳母も黙って二人を見つめる。月に照らされた白い肌と揺れる黒い瞳に微笑みながら、玄奘法師は女王の細い肩をつかんだ。
「それでも…」
法師の声がとても優しく、そして何故か残酷に響いた。
「それでも私は、いま生きてる人々を救いたいんです」
見上げる顔を一瞬だけ悲しげにゆがませたかと思うと、女王は音もなく法師から離れた。
「そうですか…かってを申しまして…どうかお許しください」
うつむきつつも懸命に顔を上げようとしながら
「唐の方々は幸せですね…玄奘さまのように国を思ってくださる方がいて」
ようやく上げた笑顔に一条の朝陽が当たり、両頬の涙が輝いた。
「どうか旅のご無事を…お祈りしております…どうか…」
最後まで言い終わらないうちに、女王の姿は照らされた霧のようにかき消えた。女王だけでなく、乳母や兵たちの姿もすでになく、気がつくと崩れかけた城郭だけが白々と朝陽に照らされていた。
「何じゃこりゃあ」
城の屋上から眼下を見下ろした悟浄と八戒は、その光景に目を丸くした。
多くの人で賑わっていた街は、夜が明けると一面の廃墟に変り果て、そこには生き物の気配すらなかった。
「俺たち…夢でも見てたんだろうか」
自分で頬をつねる悟浄の横で八戒も腹を撫でながら呟く。
「あの料理も夢だったのかな」
「ふん」塔の上から崩れた街並みを眺める悟空が鼻を鳴らす。
「幽鬼の類が化かせたところで一晩がせいぜいだってのによ」
塔の下に立つ玄奘法師は、全てが朝陽に晒されてゆくのを黙って見つめている。その様子を傍らの小鈴と白竜がやはり黙って見つめる。
「ところでお師匠さま」塔の上から悟空が怒鳴る。
「見せてもらった経典はどうすんだよ?あれは幻じゃなかったんだろ」
法師はしばらく答えなかったが、やがて首を振り
「あれはこの国のものです…そのままにしておくのが相応しいでしょう」
「いいのかねえ。このままほっといたら結局は風でボロボロになるだけだろうに」
とたんに轟音と悟空の声が響き、塔が大きく震えた。
「悟空…悟空!」
玄奘法師が塔の扉に駆け寄り叫ぶ。「お師匠さま!」と悟浄と八戒が慌てて城から飛び出してきて
「いきなり塔の天井が抜けたみたいで…」
「悟空…なかに落ちちゃった」
「悟空!大丈夫ですか悟空!」
厚い扉の奥から「くそっ」と毒づく声がして全員がほっとする。
「出られますか、悟空」
「出るからちょっと離れてろよ」
言うなり扉の隙間から風が吹き出したかと思うと、周りを埋める砂をぼわっと吹き飛ばした。砂埃にむせる一行の前で扉がゆっくりと開いた。
「悟空、大丈夫ですか!」
駆け寄る法師に悟空は目を逸らしながら、「あ、ああ」とぎこちなく答える。不思議そうに首を傾げた法師の顔がわずかに厳しくなった。
「なかに…何があるんですか」
悟空がさっと扉を庇い
「お師匠さまは…見ないほうがいいと思うぜ」
ボソボソとうつむく悟空の肩を玄奘法師がつかみ「ありがとう…でも、大丈夫だ」とささやく。しぶしぶよけた悟空の横を抜け、玄奘法師は扉のなかへと足を踏み入れた。
塔のなかはひやりと冷たく、どこかしらすえた匂いが漂っていた。悟空が落ちた天井の穴から明け染める空が覗いている。そして、その下の玉座らしき場所に、かすかな光を帯びて座っている人がいた。
かつては黒かったであろうその髪や、かつては白かったであろうその肌は乾いて変色し、かつては涙に潤んでいた黒い瞳は暗い空洞になっている。
(ああ…そうか…)
色を失いつつもいかろうじて模様の残る、その人の身に着けた着物を見つめ、玄奘法師は呟いた。
幾重にも花弁をまとった、気高く艶やかな大輪の花…
(あれは…牡丹の香りだったのか…)
「ああ、そうか」
昇る朝陽を眺めながら伯欽んが手を打った。
「何がそうかなんです」崩れかけた隊商宿から眠たげな恩享が顔を出す。
「思い出したぞ。この先にある、宝石とまで讃えられた国の名前を」
「ひょっとして一晩中考えてたんですか?」
「残念ながら二百年ほど前に忽然と滅んでしまったがな。原因は水源の湖が涸れたせいとも、どこかの種族に襲われたせいとも、または大火事のせいとも言われているが…。往時の華やかさはどこの国とも比べられないほどの素晴らしさだったらしい」
そう言って伯欽は朝陽に目を細める。
「だからこそ人々は尊敬の念を込めてこう呼んだ。国のなかの国…花のなかの花…即ち、花王国と」
陽光に照らされた塔が遠目にも白く輝いている。佇みそれを見つめる法師を、弟子たちは少し離れて待つ。
「…もう西に行く気なくなっちまったんじゃねえか」
法師の背中を眺めながら言う悟空の言葉に、小鈴が不安げに手を握る。
やがてこちらを振り向き、玄奘法師が微笑んだ。
「行きましょうか」
泣き笑い顔の小鈴がその胸に飛び込んだ。
再び西へと向かい始めた一行を、さらに離れた場所から眺める少年がいた。少年は塔に一瞥をくれると、白い陽の光に溶けるように消えた。
『どんなに優れた国であろうと…永遠に続くなどということはございません…』
白い面差しが何度もささやく。
(それでも…)
背中を押すように太陽が行く手を照らす。
(それでも私は…)




