第三十四話
「どうやって眠りながら竜を斬ったんだ」
振り返ると、皇太子である李世民が立っている。
「これは…」
珍しい、と思いながら魏徴は頭を垂れる。
こうして顔を合わせ言葉を交わすのは、洛陽において自分が竇建徳の手から皇太子によって助け出されて以来だ。
それに同じように宮城のなかに身を置く立場とはいえ、いまの魏徴は世民の兄である建成に仕える身である。
(何故私に声を…)
問いの内容よりもその事実に考えを巡らす魏徴に、相手は不信そうな顔をした。
「何だ…やはりただの噂か」
その明らかに失望した表情に、魏徴は己の思い過ごしを悟った。
「あ、いえ」答えながら思わず笑みが漏れる。
この歳で父である高祖のもと数々の戦を経験している人物が、少年らしい好奇心で自分に訊ねてきたのかと思うと、何やら微笑ましかった。
「別に噂ならいい。聞くことはない」
踵を返そうとする太子を魏徴は「いえ」ととっさに引き止めた。それから徐に辺りを窺う仕草をして
「…決して他言はしないと、約束していただけますか」
少年の目が期待に輝いた。
「禹歩?」
二人は城門へ続く階段に並んで腰かけている。
「ええ。そもそも道教には竜や水を操る術というものがございます。その鍛錬をしているとき、たまたま竜を呼び出してしまったのです」
世民が興味深げに魏徴を見つめる。
「そういえばお前はもともと道士だったな」
魏徴は頷き
「はい…しかもこの竜がどうやら酔っぱらっていたようで。無闇矢鱈とからんでくるので私もついカッとなりまして…いまでは悪いことをしたと思っています」
「まあ、かってに呼び出したのはお前のほうだからな」
笑ってそう言う皇太子が、ふと自分の手を見る。
「竜を斬る感触とは…どんなものだろうな」
魏徴もその手を見つめる。まだ若いその手で、彼は既に幾人もの敵を討ち取ってきた。
そして討ち取りすぎたために、兄である健成の臣下と彼の臣下たちの間には軋轢が生じ始めている。
魏徴は宮城の上に広がる空へと目を移した。
「感触は…よくは覚えておりません。そもそも夢のなかのような、現実感の無い状態でのことなので。それが眠りながら、という話になったのでしょう」
少年の目がまた問いたげにこちらを見る。
「道術とは俗世のことから意識を切り離し、自然と一体になることです。これを無為と呼びますが、これを極めれば肉体から離れ、どこへでも行けると言います」
太子は首を傾げる。
「それは死とは違うのか?」
魏徴は笑い
「あるいは似た状態かもしれません。生きているときは均衡を保った状態である陰陽を、限りなく陰の状態へと近づけることですから」
「つまり…鳥のようにどこへでも行けるということか」
上空をぐるぐる回る鳶を眺め、世民が呟く。
(太子も建成さまとのことを憂慮しているのだろうか)
その横顔を見つめながら魏徴はまた詮索する。
唐の皇帝である高祖の後を継ぐのは順当にゆけば兄の建成であろう。しかしこの有能すぎる弟太子の存在が、いまの宮城の空気を不穏なものにしている。
(自分は…)
青空を自由に飛ぶ鳥を揃って見つめながら魏徴はふと問いかけた。
もしこの兄弟が争うようなことになったとき、自分はどちらにつくだろう。
いや、どちらにつくべきなのだろうか。
「本日の朝賀も陛下はお出ましになりなせん」
宣政殿の庭に官吏の声が響く。
日の出前から庭に整列し、天子の出御を待ち構えていた文武百官たちは互いに顔を見合わせる。
宣政殿の階に立つ魏徴はその様子を黙って見下ろす。側では房玄齢と杜如晦がヒソヒソと言葉を交わしている。
魏徴は眉間にシワを寄せ、昇ってくる朝陽を見つめた。
一方、同じ長安の洪福寺では、信者に限らず都中の人々に大好評の紙芝居『玄奘出立』の増補版の制作にあたりその編集作業に余念がなかった。
「渭水のほとりに捨てられていた…と」
「捨てられそうになっていた、のほうが正しいな。そこへたまたま法明老師と私が通りかかったんだ」
概要を書きつける円心に法順禅師が訂正を加える。
「まさに運命の邂逅ですね。そこに法明さまと法順さまが来なければ幼い玄奘さまはどうなっていたか…ここは思いきり盛り上げるべき場面ですね」
「運命…」法順禅師がため息をつく。
「どうしました?」
「たしかにあの場にたまたま通りかかってしまったばかりに…私も老師もとんだ目に遭うことに…」
「な、何かあったんですか!?」
法順禅師がまたため息をつく。
「重かったんだよ」
「は?」
「重すぎたんだよ玄奘が!そのせいで持ち上げようとした法明老師がぎっくり腰になり、結果私が老師を支えながら幼児のくせにやたらと重い玄奘を背負っていくことになったんだ!もう何度拾ってきた場所に戻してこようと思ったことか…」
「あーそこはカットですね。カット、と」
「しかも絶対起きないんだぞあいつは!?叩いてもつねってもひたすら寝てるんだ!せめて起きて歩いてくれたらどれだけ楽だったか!」
「うーん、でも法順さまの過去の愚痴を紙芝居にしても皆さんの感動を得られるかどうか」
「じゃあ私が泣きながら玄奘を背負って帰ったということにしよう。実際泣きたくなった」
「それじゃあ捏造ですよ。まあ、そもそもフィクション入ってますけど」
「でも」と写経並みに筆であらすじを書きつけながら円心が疑問を口にする。
「何故今度は玄奘さまの出自まで含めるんですか。いままでのものでも充分好評だと思うんですが」
茶をすすりながら禅師が首を振る。
「人心とは常に新しいものを欲するのだ。経のように毎回同じことを繰り返していてもいずれ飽きられる」
「さらっと僧侶として言っちゃいけないこと言いましたね?」
「それに」
今日も今日とて肉体的鍛錬に勤しんでいる弟子たちのかけ声に法順禅師は耳を澄まし
「そろそろもっと相手を刺激しておかないと、日々頑張っているあいつらが可哀想だろう」
「え…」
「きっとあいつらも、一日も早く自分たちの修業の成果を確かめたいだろうからな」
不穏なことを言いながら観世音菩薩のように微笑む師に、円心はそれ以上何も訊かないのが身のためだと察した。ただし、ひとこと愚痴がもれる。
「私たちはいつになったら普通の僧侶に戻れるんでしょうねえ」




