第三十三話
「吾岌が敗れた」
と言っても、相手からは大した反応はない。
「太上老君の手助けのせいもあるが…孫悟空とその仲間にやられた」
「ほおーん」とくぐもった声が返ってくる。
「ちなみに、そのときは満月で…」
「ほほおーん」
冴侶ががばりと立ち上がり、相手の襟首をつかみ上げた。
「どういうことか分かってるのか!?吾岌は大牛の姿で…妖力が最大のときに敗れたんだぞ!?四天王の一人である牾王が!」
狺の腹から引き離された彪月がはっとして
「それ…ひょっとしてあれか?あれなのか!?」
「クク…奴は四天王のなかでも最弱」
「咀鉄ー!それ俺が言いたかったー!」
「狺」
すかさず狺が彪月に虎パンチを食らわせる。
「お前はいつになったらまともに話を聞けるんだ」
殴られても嬉しそうな彪月に冴侶がうんざりして言う。
「もっと事を重大に受け止めろ。仮にも四天王の一人なんだぞ。たしかに牾王は四天王のなかで最弱かもしれないが」
「そこは認めちゃうんすね冴侶さん」
「たとえ最弱でも、簡単に敗れては他の妖魔どもに示しがつかないとは思わないのか。て聞け!」
また狺の腹に顔を突っ込んでいる頭の弁髪を思いきり引っ張った。
「だって狺のお腹の匂いと肌触りが…あーたまらん」
「もはや中毒っすね」
「狺…これから彪月が腹吸いしようとしたら殴って拒絶しろ」
「何てこと言うんだよ冴侶!この人でなし!」
巨大な虎の狺は、そんな三人の様子を退屈そうに眺めている。獣王の棲み処である双叉嶺ではいつもの光景だった。
「それにしても」とようやく彪月が体を起こし
「手助けがあったとしても、吾岌とその手下も叩きのめすなんて…面白いなその連中」
「面白い?」
冴侶の薄黄緑の目に見下ろされ、彪月が身を引く。
「何が面白い?四天王の名が汚されたということはその上に立つお前の名も汚されたも同然なんだぞ」
「そう…なの?」
咀鉄が脇から身を乗り出し
「あれれ?でも噂じゃ吾岌さんを焚きつけたのは冴侶さんだって話じゃないっすか」
冴侶は舌打ちした。
「全く…忌々しいネズミどもの情報網が」
「そうなのか冴侶?」
また狺にすり寄りながら彪月が訊く。冴侶は顔をそらし
「玄奘法師とその弟子がどれ程の実力なのか、吾岌を使って試しただけだ。吾岌は吾岌で不死を得られる玄奘法師を手に入れたがってたからな」
「ふーん」
彪月、咀鉄、狺にまじまじと見つめられ、冴侶は更に顔を背ける。
夜目が利く者しかいないので、灯りの無い洞の天井に開いた穴からは無数の星々が覗いている。それを薄青い目で眺めていた彪月が「でも」と呟いた。
「何で旅をしてるんだ…その連中」
冴侶がため息をつき
「前にも言っただろ。玄奘法師の取経の旅に、弟子の孫悟空たちが従ってるんだ」
「取経…」一瞬、彪月の目が細くなる。それからはっとして
「ちょっと待て…玄奘…法師?玄奘…」
「最近千蓉婦人がお熱を上げてる相手っすよね。いろんな意味で各方面からモテモテっすねその坊さん」
「うわあああそうだっ!この前会いに行ったときも『愛しの玄奘さまに会いに行きます』って玄関に貼り紙がっ!」
「わざわざ書き置くことか?」
「あの千蓉婦人っすからねえ。そりゃ相当入れあげてるっすね」
「うわあああっ許さんぞ!俺は許さんぞ!」
彪月の地団駄が双叉嶺を震わす。
「やめろ。崩れる」
「たぶん千蓉婦人も彪月さんの許しは求めてないっすよ」
「うわああっ俺のほうが片思い歴が長いのにいいっ!」
「片思いって分かってたんすね」
「向こうからしたら長いから何だって話だろ」
「ひーどーいー!!おのれ…おのれ玄奘法師許すまじ!!」
獣王の怒りの雄叫びが、双叉嶺から乾いた夜空へと響いていった。
玄奘法師のくしゃみが、夜の荒野に響いた。
「大丈夫ですか玄奘さま」
すかさず小鈴がその側に寄り
「夜風が障ったんじゃ…」
「い、いえ…大丈夫です」と言いつつ玄奘法師は白竜の上で身震いする。
「またどっかの妖怪にでも噂されてんじゃねえか」
先頭をノロノロ歩く悟空が言った。白竜の両脇を固める悟浄と八戒も
「妖魔から女の子から何でもござれだからなお師匠さまは」
「お師匠さまって…やっぱり悪い人なの?」
「ええっ!?」
「よっ長安一の破廉恥坊主!」
「長安一の天然たらし!」
「おいら…おいらお師匠さまを見損なったよ!」
とたんに三人の歩みが止まる。
「破廉恥…私が破廉恥なせいであらゆる妖魔を引き寄せてしまうということでしょうか…つまり私が煩悩の塊なせいで自ら災いを!?そんな…そんな私に僧を名乗る資格など…いえ、生きる資格すら…」
「わ…わりぃお師匠さま…言い過ぎた…だからやめろ!」
「ぐっぐる…悪のりした俺たちが悪うございました!」
「ヒッヒッフー!っ今度お師匠さまの好きな杏仁豆腐作るからごめんなさい!」
三者三様にもがき苦しむ弟子たちに、はっと口をつぐむ玄奘法師の肩で小鈴が微笑む。
「何だか久し振りねこの光景」
「つ…ついに小鈴ちゃんが後方彼氏面を」
「ほ…微笑ましい要素あったかな」
「鬼だろ…どんな妖魔よりも性悪な鬼だろ」
退屈した白竜がかってに先へと進み始める。
「お前には分かんねえだろうがマジできついんだからなこの道具」
「はいはい」
「拷問道具身に着けてる感じ分かる?まさに外道」
「すすみません私のせいで」
「玄奘さま、こんなこと言ってますけどそろそろ道具に締め上げられるのが快感になってるんですよこの三人」
「んなわけあるか!」
「それじゃ俺たち完全に変態でしょ小鈴ちゃん…」
「お師匠さま杏仁豆腐は硬めと柔らかめどっちが好き?」
一行の前方には遥か彼方、藍色の夜空の下、天山山脈に切り立った黒い山影が浮かんでいる。
冷たさを増す夜風を受けながら、玄奘法師は更に西へと歩みを進めていった。




