第三十話
あの年、北の部族の家畜が大量に死んだ。
腐った水が原因の病が流行ったためらしいが、そんなことはどうでもいい。
何より肝心なのは、予測すべきだったことだ。
家畜を失った連中が、次に何をするかを。
「珪!琉!」
振り向くと、蒼白な顔の瑰が馬で駆けてくる。
「村が…!襲われて…珊が…!」
切れ切れのその言葉に総身が粟立った。
「あそこだ!」
土煙を上げ駆けてゆく騎馬隊の後方で、一騎だけ遅れている馬の背に珊が括りつけられている。
「くそっ!」
馬で後を追いながら琉が矢を射掛けようとするが、距離がありすぎた。
三人と騎馬隊の間はどんどん離れてゆく。
歯を食いしばり、珪が叫んだ。
「珊!!」
そのとき、黒い影が珊を乗せた馬の頭上に現れた。
大きな黒鷹が、手綱を握る男を鋭い爪で執拗に攻め立てている。
たまらず速度を落とした男が腰の刀を抜こうとした瞬間、一閃がその体を貫いた。
首を射抜かれた男は音もなく馬から崩れ落ちる。
騎馬隊は後ろを顧みることもなく、土煙とともに平原に消えてゆく。
珊だけを乗せ彷徨っている馬の手綱をつかみ、気絶しているその顔に瑰がほっとする。
見ると、珪と琉が半里先の丘の上を見上げている。
弓を手にし、丘の上に立つ人物もこちらを見下ろしている。その腕に、さっきの鷹が舞い降りた。
(あの距離から…首を射抜くなんて…)
信じられない思いで、瑰もその男を見つめた。
「おかしい…」
炎に照らされた珪がうなだれる。
「何故だ…行く先々でちゃんと道を尋ねながら来ているのに…何故悉く迷うんだ!?」
「まさか行く先々で間違った道を教えられてるわけもないよな」
干し肉をかじりながら琉が言う。
「まさか珪がここまで方向音痴だったとは思わなかったよ」
焚火にかけた鍋をかき回す瑰に珪が顔を上げ
「違う!たしかに俺は教えられた通り…」
「やっぱり」琉が珊を見て
「珊の玉に従ったほうが確実なんじゃないか」
いつものように玉を夜空にかざしていた珊は慌てて
「私の玉は、お守りみたいなものだから…そんなにあてにされると困るわ」
「でもさ」瑰が粥を椀によそいながら
「その玉があればどんな水での綺麗にしてくれるし、ここまでの道だってその玉が教えてくれたようなもんだし。珪よりよっぽど役に立つじゃん」
「…悪かったな役立たずで」
椀を受け取る珪が唸る。「でも」と珊が玉を見つめ
「村を守ることはできなかったから…」
四人は黙り込んだ。焚き木の爆ぜる音だけが、夜の荒野に響く。
「それでも…俺たちは生き残った」
渡された椀を見つめながら珪が呟いた。
「一人でも生き残っていれば…また、昔のような村をつくることだってできる」
「…そうだな。その通りだな兄弟!」
琉に思いきり背中を叩かれ珪が咳込む。
「どうでもいいけどさ、早く食べないと冷めちゃうんですけど」
「どうでもいいってことないだろっ」
「大丈夫だよ」瑰が珊を見る。
「珊が生まれたときから持ってる玉だもの。良いことはともかく悪いことなんて引き寄せるわけないよ。これからもきっと珊を守ってくれる」
「…うん」
微笑む珊に三人もほっとして、改めて夕餉をとる。
焚火の細い煙が、雲ひとつない夜空に長く伸びていった。
その同じ空の下、長安の宮城の外れ、大明宮には遅くまで明かりが灯っていた。
皇帝が起居する場でもある大明宮の一室で、長々と書類整理を行っていた杜如晦が顔を上げると、天子が窓辺に佇んでいる。その傍らには、長年可愛がっている黒鷹がとまっていた。
「…お疲れですか。陛下」
如晦が筆を置き言った。天子は背を向けたまま「いや」と答えた。
「飽きただけだ。役所仕事はすぐ飽きる」
如晦は微笑む。早くに皇帝になったせいか、この天子は時々こんな子供っぽいことを言う。
勿論それも、自分や玄齢など腹心の前でだけだが。
「退屈でしょうが、陛下には皇帝として全てに目を通していただかないと」
「分かっている」
またどこか不貞腐れた返事がかえってきた。灯りに照らされたその背中を如晦は苦笑交じりに見つめる。
彼、唐の二代皇帝李世民はそもそも父である初代皇帝のもと、各地の軍閥と戦い続けてきた武勇の人物である。皇帝とはいえ机上の仕事ばかりでは倦むのも無理はない。
「こいつも退屈している」
目隠しをされた黒鷹を眺め、天子が呟く。眠っているのか、気配を探っているのか、鷹は固まったようにピクリとも動かない。
「最後に鷹狩りに出たのはたしか…」
如晦が記憶をめぐらす。
「たしか、あの四人を連れ帰ったときですよね」
「…そんなに経つか」ため息をつき、天子が夜空を見上げる。鷹のかわりに大空を恋しがっているように見えた。
如晦がふと訊ねてみる。
「何故…あの四人を追っ手として差し向けられたのですか」
皇帝の空気が変わったのが気配で分かった。
「…すみません、深い意味があったわけでは」
「…からだ」
「え」と如晦が顔を上げる。
「村を失くし…寄るべき親族もいない」
皇帝が振り返り、如晦を見る。
「あの四人ならば、決して裏切ることはない。そう思ったからだ」
鷹のような鋭い両目に、如晦はただ静かに首を垂れる。
「御意…」
鷹は相変わらずピクリとも動かない。揺れる灯心の明かりが、二人の顔を青白く照らしていた。




