第二十六話
長安の洪福寺には大勢の人々が詰めかけていた。
ひしめき合う本堂で、人々は法順禅師の有り難い話に熱心に耳を傾けている。
「私は鬼になるべきでした」
しかしそれは、読経でもなければ説法でもなかった。
「尊い経を求めるためとはいえ、魑魅魍魎が跋扈し蛮族盗賊が横行する西への旅はあまりに危険です。そんな旅へ可愛い弟弟子を向かわせることは信仰心が許しても親心が許しませんでした。ですから私は泣いて玄奘を引き止めたのです。どうしても行くと言うのなら私の屍を越えてゆけと…」
傍らの円心が紙芝居をめくる。
「しかし、玄奘の決心は固かったのです。『そんな辛いことを仰らないでください尊兄。御仏の次に敬愛するあなたにそんなことを仰られては私は身も切られる思いです』」
朗々とした禅師の声に誰もが聞き入っている。
「『しかし私は行かねばなりません。どんな艱難辛苦が待ち受けようと、きっと唐の人々に幸いをもたらす経典を携え帰って参ります』と」
うおおおっと人々から歓声が上がり、感極まって涙する女性や老人まで出て、洪福寺の本堂は異様な興奮状態に陥った。
(僧侶じゃなければ立派な詐欺師ですよ)
満足げな法順禅師を横目で見ながら、円心は最後に「完」と記された紙芝居を片付ける。そのやけに登場人物の顔が濃い作画は、寺の僧である覚道によるものだ。
まだ興奮がさめやらない人々は何度も本尊の釈迦如来像へ向かい手を合わせている。
「こんな方法で信者を増やすのが正しいのか…私には分かりません」
「お前は」法順禅師は人々へ向ける微笑みを崩さないまま
「信者を増やすためにこんなことをしていると思っているのか」
「違うんですか?こんな紙芝居まで作って」
「違うな」禅師が一蹴する。
「それが目的ならば何故わざわざ、釈尊の御前で偽りを述べるという罪を犯してまで玄奘を美化した話をしなければならないんだ」
「それは…じゃあ何故?」
円心の問いには答えず、法順禅師は人々に向かい呼びかけた。
「皆さん、ともに待ちましょう。玄奘がこの唐を救ってくれる経典を持ち帰ってくれる日を!」
うおおおっと力一杯同意する人々の声の向こうで、寺の奥で懸命に鍛錬をする兄弟弟子たちの声が聞こえてくる。
裏の無いはずがない微笑みを浮かべる法順禅師を眺め、円心は小さく首を振った。
「何を企んでらっしゃるのか、私にはさっぱりですよ」
巨大な太極宮の屋根が陽射しに照り返っている。その下の一室で、山のような報告に目を通していた房玄齢の手が止まった。
「…どう思う」
向かいに座る杜如晦が差し出されたものに目を通す。
「『天門関建設の現場における秦叔宝、尉遅敬徳両将軍の都での評判、放置しても大丈夫か』」
「その次だ」
「『洪福寺、最近都の人々の強い信仰を集める。国禁を破った玄奘法師を讃えている模様。放置して大丈夫か』」
読み終えた如晦は窓の外に目をやる。
「一僧ながら…何かと話題に上がる人物ですね」
「この洪福寺の僧たちも何か企んでいるんじゃないか」
ひとしきり髭をしごく玄齢を見返り如晦が微笑む。
「暑くないですか。髭」
「真面目に考えろ」
「考える必要などありませんよ」
如晦はまた窓の外に目をやった。宮城中に敷き詰められた白い砂利が強い陽射しに輝いている。
「お忘れですか。陛下御自身が禁軍から追手を差し向けられたんですよ。それでなくとも西へ行く旅は危険に満ちている…玄奘法師が無事に長安に帰ってくる可能性は低い。いつまでも帰ってこなければ人々の心も自ずと離れていくでしょう」
淡々と語る相棒の顔を玄齢がじっと見つめる。
「如晦…お前、顔色が悪いぞ」
白い顔を向け、如晦はまた微笑んで見せる。
「暑さのせいですよ。玄齢殿」
一方、長安から西へはるか遠く離れた天山山脈の麓にある、孟亢洞には深刻な空気が漂っていた。
「そうか…」
勇羆の呟きが唸り声のように洞を震わす。真剣に考え込む様子の勇羆を、向かいに座る吾岌が感動の面持ちで
「勇ちゃん…そこまで俺のことを…」
「勇ちゃんはやめろ」
「やっとまたこうして人間の姿に戻れたんだけどさ、まだ尻尾が消せなくてさ」
「どうでもいいわ!!」
今度は本当に洞全体がビリビリと揺れ、隅に控えている阿王と牾王の手下たちがそろって身を縮める。
勇羆は怒りに燃える両目で吾岌を見据え
「お前がどうなろうと知ったことじゃない。俺が怒っているのは、お前が一人で玄奘法師を食らおうとしたことだ!」
「それは…」目を泳がせる吾岌は、『素直に謝ってください』という手下たちの身振りを無視して
「それは…俺も、親友を裏切るなんてできんと断固として言ったんだが、冴侶の奴にしつこく唆されて」
「冴侶が…?」
「そうなんだよ」吾岌は身を乗り出し
「そもそもあいつが、玄奘法師を捕らえるために協力するだの、俺が王になるべきだのと唆さなければ俺だって勇ちゃんを出し抜こうだなんて」
轟音とともに再び洞が震えた。勇羆の拳が岩壁を深くえぐっている。
「あの舌先三寸の狐野郎が何と言おうと、それにのせられたのはお前自身だろうが!」
吾岌は正座で神妙に頭を下げる。
「…王になれと言われたのか」
頷きかけ、吾岌はぶんぶんと首を振る。勇羆は壁から拳を引き抜くと、つかんだ岩を土くれのように粉々に握りつぶした。
「玄奘法師を食らうまえに王の器じゃないことが分かってよかったじゃないか…なあ?」
ぎらつく目に見下ろされ、吾岌はあいまいに笑って見せた。
隅からそれを眺めていた牾王の手下たちはため息をつき
「やっぱり雑食は違うなあ」
「…食性の違いのせいか?」
横目で阿王の手下たちが言った。




