二十四話
闇のなかにすすり泣く声がかすかに響く。
「もう泣かないでくれよ小鈴ちゃん…俺女の子に泣かれると自分まで泣けてくるんだよ」
「だって玄奘さまがっ…」泣きじゃくる小鈴を悟浄がなだめる。
「大丈夫だって、まだ食われちまったとは限らないんだからさ」
「そうだよな、お師匠さまは堅物だから短時間じゃ食べられるようにならねえよな」
「真剣に考えんなよ兄貴」
弟子たちは切り立った岩山の麓に立っている。どうやらこの頂が、法師をさらった四天王の一人、牾王の棲み処らしい。
それまで黙っていた八戒がはっと顔色を変えた。
「この匂いは…」
「どうした八戒!?」
「霊芝…生姜…ごま油…竹の子…」
「おいまさか…」
「分かったよ」八戒は険しい表情で岩山を見上げる。
「あの人たち…お師匠さまをスープにする気だ」
小鈴が白竜のたてがみにしがみつき更に激しく泣き出した。悟空も深刻な表情で
「なるほど…この場合煮るのが一番手っ取り早い食い方だったか」
「だからお前さっきから論点がずれてるんだよ!やめてくれよ小鈴が取り乱しててつっこめるの俺しかいないんだから!」
「ええ!?おいらつっこみ担当じゃなかったの!?」
「それについては後で話し合おう八戒」
満月に照らされた岩山は夜空に白く突き刺さるようにそびえている。
「まあ何にせよ」悟空が夜風に鼻をこすり
「まだ食われてねえってことは確かみてえだな」
金嵬洞のなかでは牾王とその手下たちが、煮え立った鍋を前に途方に暮れていた。
「…どうしましょう吾岌さん」
手下の問いかけに腕組みした吾岌はうんともすんとも答えない。そんな状況が既に何刻も続いていた。
手下の一人がため息をつき
「やっぱり阿王様に相談したほうが…」
吾岌の頬がピクリと動く。もう一人の手下も頷き
「あそこの連中は雑食だからな。何かいい知恵を…」
「駄目だ!!」吾岌が大声で怒鳴った。手下たちは横目で自分たちの王を窺う。
「じゃあ…やっぱり食べちゃいますか」
「そっそれは…」吾岌はまた黙り込む。
「いいじゃないですか一回くらい」
「お前ら!」吾岌が立ち上がり居並ぶ手下たちを見下ろした。
「それでいいのか!?たしかにあの坊主を食えば不老不死を得られるかもしれん…だがそのために俺たちが菜食主義者であることを放棄してもいいのだろうか!?そうまでして不老不死になって生きたいのか!?生きるって何だ!?」
「じゃあ諦めます?食べるの」
「ヤだ」
手下たちが一斉にため息をつく。
「まったくやんなっちゃうよな。食べる直前になって自分たちが肉食べられないの思い出すなんて」
「きれいさっぱり忘れてたよな」
「何で食わなきゃなんないのが坊主なんだよ」
「理不尽だよな。これじゃ最初っから他の四天王のほうが有利じゃねえか。あっちはみんな肉食か雑食なんだから」
牾王と手下たちの愚痴を、縛られた玄奘法師は隅で小さくなって聞いていた。
「あのう」法師がおずおずと呼びかける。
「私に…何かお手伝いできることはあるでしょうか」
牾王と手下たちが横目で見る。
「じゃあ人間やめて」
「いや、それはちょっと…」
「できれば牧草か何かに生まれ変わってほしいんだけど」
「私には如何ともしがたいですね」
牾王たちはまた一斉にため息をつく。申し訳なさに更に小さくなる法師に誰かがささやいた。
「あんま余計なこと言わないほうがいいぜお師匠さま」
見るとさっきから傍らにいた手下の一人がこちらに目配せを送っている。その牛面をじっと眺めた法師は頭の金環にはっとして
「悟空…!」
「しっ」手下に化けた悟空は声を潜め
「下で悟浄と八戒が待ち受けてる…お師匠さまはただ大人しくしててくれ」
「ええ?」
言うだけ言うと悟空は立ち上がり怒鳴った。
「もううんざりだ!こんな食えもしねえ坊主見てるだけで目障りだ、とっとと捨てちまおうぜ!」
「ちょっちょと待て!」
仲間が止める間もなく悟空は法師を担ぎ上げると、切り立った岩山に上に開いた穴から放り投げようとした。その頭を巨大な手がつかんだ。
「お前…猿臭いな…ここには牛しかいないはずだが」
低く言いながら吾岌は手下の頭をギリギリと締め上げてゆく。
「ご、悟空!」思わず叫んだ玄奘法師を悟空は穴から放り投げた。
「いいか、落ちてきたらお前がこうレシーブで受けてだな」
「それを悟浄がトスで上げるんだね」
「そうそうそれでまたあの穴のなかにポーンって、戻してどうすんだよ」
金嵬洞の下でイメージトレーニングをしていた悟浄と八戒の上に玄奘法師が落ちてきた。
「すすすみません大丈夫ですか二人とも!」
「…降ってきたのが女の子じゃなくて残念です」
「おいら…潰されるにんにくの気持ちが初めて分かった」
「玄奘さまああ!!」
「小鈴、白竜、ご心配をおかけしました」
「ヴヒヒッ」
「…と、安心するのはまだ早いみたいっすよお師匠さま」
洞から次々と牾王の手下たちが走り出てくる。法師を背に悟浄と八戒が月牙鎩と玖棘棍を構えた。
「悟空…悟空と言ったなあの法師…なるほど化けるのもそこそこ達者というわけか」
吾岌は悟空の頭をつかみ上げながら
「だが匂いは誤魔化せんな孫悟空…それができるのは冴侶の奴ぐっ…」
腹に如意棒を突き入れられた吾岌が屈み込む。解放された悟空はぶるっと頭を振り
「わりぃが頭締め上げられんのは慣れてんだ」
もとの少年のような姿に戻り不敵に笑う相手を吾岌は小さい目で睨み上げ
「分からんな…何で妖怪のくせにあの法師の用心棒なんかしてるんだ」
「俺たちだって好きでやってるわけじゃねえよ!ただ太上老君のじじいが…」
思わずいきり立つ悟空に吾岌はニヤリと笑い、壁にかかった巨大な刀を取った。
「つまり…不老不死の話は本当らしいな」
「はあ!?」
鞘が払われ、太く冷たい刀身が月明かりにギラリと光る。吾岌はそれを長い舌でぺろりと舐め
「牛刀で鶏を切ったら笑われるが…猿なら問題あるまい?」
言うなり大刀を大上段から振り下ろし悟空を真っ二つに切り裂いた。すんでの所でかわした悟空の腹を更に紙一重で刃がかすめた。
「ちっ」壁際に追い込まれながら悟空が舌打ちする。吾岌は大刀を手首でひらひらと回しながら
「ようやくこの場所でその物干し竿が使い辛いことに気づいたか?」
悟空が見ると部屋の入り口が岩で塞がれている。
「逃がしやしねえよ」唯一の窓である穴を背にした吾岌が含み笑いをしながら
「やっぱり弟子のお前を倒さずに玄奘法師を手に入れたと知れたら四天王の名折れだからな…せいぜい楽しもうぜ」
「くそっ切りがねえぞ…どいつもこいつも牛面しやがって!」
月牙鎩を振り悟浄が喚く。その隣で玖棘棍を振り回す八戒も
「おいら…牧場に紛れ込んだ気分」
「おいお前ら!」数いる牾王の手下の一人が怒鳴った。
「さっきから牛牛って馬鹿にしやがって!お前らだってスケベ面とブタの二人連れじゃねえかってひいいいっ!」
鋭い水の刃といくつもの地割れが同時に手下たちを襲った。
「いい度胸だ牛ども」険悪な表情で月牙鎩を握り悟浄が唸る。
「言っていいことと悪いことの区別がつかない牛はみんな青椒牛肉絲にしてやるぜ」
玖棘棍を振り上げ八戒が言った。
「お肉に片栗粉をまぶすの忘れちゃ駄目だよ」
「孫悟空」
壁づたいににじり寄りながら吾岌が訊ねた。
「噂には聞いてたぜ…天界で大暴れしてその結果囚われたと。あの法師に従うのは罪滅ぼしか?」
「俺が何の罪を犯したってんだよ」
やはり壁づたいに吾岌との間合いをとりながら悟空が言う。吾岌はわずかに鼻白み
「改心したわけじゃないのなら何故…」
「だから好きでやってんじゃねえって言ってんだろ!」
「…よく分からんが、お前さえよければあんな坊主を見捨てて俺たちの仲間に…」
「それができればとっくにやってるってんだよ!」
イライラが極限に達した悟空の振り回した如意棒が、岩壁を打ち砕きそのまま金嵬洞の天井を吹き飛ばした。
頭が欠けた形の岩山を、下にいた弟子と手下が呆れ顔で見上げる。
「俺の…俺のマイホームが…」
細い月の浮かぶ夜空を呆然と見回す吾岌に悟空はニヤリと笑い
「風通しが良くなっただろ?牛に高い所は似合わねえよ」
大刀が閃光のように悟空の足元に突き刺さり、次の瞬間岩山全体に亀裂がはしったかと思うと轟音を立てて金嵬洞が崩れ始めた。
牾王の手下たちと法師たちが慌てて降り注ぐ瓦礫から逃げ出す。
「大丈夫ですか玄奘さま!…玄奘さま?」
觔斗雲から飛び降りた悟空ははっと振り返った。
「気に入ったぜ孫悟空…」粉塵のなかから現れた吾岌の手に玄奘法師が捕らえられている。
「ますますこんな坊主のお供にしておくのは惜しい…どうだ、俺たちがこの坊主を食らえばお前を縛るものもなくなる。お互い利害が一致しているだろ」
「玄奘さま!」
吾岌が法師の腕をひねり上げてゆく。
「お前だって好きでこいつの…」
「おい」悟空が遮った。
「俺も一つ訊きてえな」
牾王の前に立った悟空は苦痛に顔を歪める法師をちらりと見やり
「お師匠さまを不死の薬かなんかだと思ってるらしいが…何百年もかけて人の姿を得てまだ更に生きたいもんなのか?」
「愚問だな孫悟空」吾岌は薄笑いを浮かべ法師の首に大刀をあてた。
「人とはそういうもんだろう?更に長く…更に多く…更に強く!俺は人の姿を得て知ったんだ。人とは決して満たされることのない生き物だとな!」
「違う」玄奘法師が呻いた。
「何もなくとも…足りることを知るのが人間です…欲望のままに生きるのは所詮獣に過ぎない!」
「坊主の説教なんか聞きたくないわ!」
振り下ろされた大刀が法師に食い込む寸前弾き飛ばされた。悟空が吾岌を見据え
「牛が坊さん食おうなんて考え捨てたほうが身のためだぜ」
鳩尾に如意棒が深く食い込んだ吾岌は声もなく地面に倒れた。それを見ていた手下たちは、八戒に首まで地面に埋められた状態で息をのむ。
「さあて親分はのびちまったぜ。お前らも観念するんだな」
小鈴が法師の手を引き
「玄奘さま、早くこんな場所から離れましょ」
「ええ…」
そのとき月がようやく天頂に昇りつめた。すると、月の光に照らされた吾岌の体が妖しく輝き出した。




