第二十三話
玄奘法師は白竜の背で珍しく元気だった。
「お師匠さま…獲れたての揚子江鯰みたいに生き生きしてる」
「不気味だ…暑さで頭やられちまったんじゃねえのか?」
「地肌だしなあ。それより何かの不吉な前兆じゃなきゃいいけどな」
「何言ってんのよ!溌溂とした玄奘さまも素敵じゃない!」
訝る弟子たちをよそに法師は前方を指さし声を上げた。
「見えてきましたよ!」
見ると道の脇に長い断崖が伸び、その岩肌にいくつもの穴が穿たれている。
巨大な石窟寺院を前にして玄奘法師はため息をついた。
「これが…あの有名な魔降窟」
「有名なんすか?」
「ええ、いまから三百年近く前に偉大な沙門の一人がここで金色の光を見てこの地を禅定の地としたのがそもそもの始まりで…」
「お…お師匠さまがペラペラしゃべってる!」
「怖くない、怖くないからな八戒」
「けっこうお調子者だなお師匠さまも。唐を救うためとか言って経を探しに行くのもまさかこれが動機じゃねえだろうな」
「はしゃいでる姿も素敵です玄奘さま!」
「騒がしいのう」
それまで気がつかなったが、断崖の側を流れる河のほとりに小さな老人がいた。その禿頭やすり切れた法衣から僧侶であることが分かる。
「ここは御仏の弟子たちの修業の場…そう騒がれては何の為に禅顕の地とされているか分からん」
「すすみません!」
近づいてくる老人に法師が頭を下げる。老人はそのくぼんだ目で法師の顔を覗き込み
「お前さんもあれを見に来たのかね」
「え…その…あの…」法師は目をそらしつつ顔を赤くする。老人が詰め寄る。
「正直に言え。ここに来る連中は十中八九あれを見るのが目的だ」
「そそれは…その…」もじもじする玄奘法師に弟子たちが色めき立つ。
「何すか!?お師匠さまが赤面しちゃうようなものって!」
「よっ破廉恥坊主!」
「おいら…おいらお師匠さまを見損なったよ!」
三人はそろって小鈴に殴られた。
「かってな想像してんじゃないわよ!ここの石窟のなかには修行僧の人たちが残したたくさんの仏像や壁画があるの!おい、玄奘さまを破廉恥とか言った奴、生きた壁画にしてやろうか」
「鬼だ…生身の鬼がここにいる」
「で、見たいんだろう?」老修行僧はもう一度法師に訊いた。「はい、よろしければ」と法師は熱を込めて答える。
「じゃあ、あんた一人ならなかに入れてやろう」
「そんな」抗議しようとした小鈴を老人が制する。
「さっきも言ったがここは修業の場だ。出家者でもない者が足を踏み入れることは許されん。ましてお前さんは女子だろう」
「いや、こいつは鬼ですよ」
悟空がまた殴られる。法師は小鈴に微笑み
「大丈夫ですよ小鈴。こんな清浄な場所に危険はありませんから」
そう言い残し法師は穴の一つへと入っていった。
「別に心配ないんじゃないか小鈴」
不安げに二人の入っていった穴を見つめる小鈴に悟浄が言う。
「八戒の鼻も反応してないし、あのじいさんが魔物ってこともないだろ」
「うん」非常食の干し杏を食べながら八戒が頷いた。
「妖怪の匂いは全然しなかった。人の匂いもしなかったけど」
「なあなあせっかくそこに河があんだから待ってるあいだ遊んでようぜ!」
悟空の提案に弟子たちは白竜も含めた全員一致で河へと駆け出した。一人残った小鈴はやはり不安げに穴の周りをふよふよと漂っていた。
石窟のなかは暗くひんやりとしている。燭台を掲げる。老人の黒い背に従い法師は奥へ奥へと進んでゆく。
「奥へ進んでいるわけではない」
老人の背が言った。
「ここは外の岩壁に穿たれた多くの穴が横穴でつながっているのだ。一見迷路のようだが何のことはない」
「はあ」法師は心許なげに頷く。老人の言う通り狭い通路を抜けるたびに小部屋のような空間が現れ、そこには暗がりにも色鮮やかな壁画が描かれていた。思わず見入りそうになるのを、遠ざかる灯と老人に法師は慌てて後を追う。いくつもの観音菩薩や薬師如来の姿を横目に通り過ぎ、老人はようやく一つの部屋で足を止めた。
「ここだ」老人は燭台を高く掲げる。誘われるように目を上げた玄奘法師は息をのんだ。
闇のなかに青い世界が浮かび上がっていた。
壁の中央に金の光背を背負い坐する釈迦牟尼の周りを、青い姿の大勢の魔物が取り囲んでいる。
目をむき牙をむき、いかにも騒がしく釈迦を惑わそうとする魔物たちとは対照的に、静かな表情の釈尊んは右手を大地に伸ばす降魔印をとり悠然としている。
「『降魔成道仏図』…この石窟が魔降窟と呼ばれる所以となった壁画だ」
法師な言葉もなく、魔物に囲まれながらもいいままさに悟りを得ようとしている釈迦牟尼の顔を見つめた。
「真理を得ようとする者は本来孤独なものだ」老人が呟き燭台の向きを変えた。
隣の壁は一変して赤の世界だった。釈迦の前世の姿である薩埵太子が飢えた虎の親子を哀れみ、その身を与えて救う姿が描かれている。燃え上がる崖下に飛び込む釈迦の姿や、横たわる釈迦の腹に食らいつきながらこちらを見据える虎の白い目を見つめているうちに法師の現実感は奪われてゆく。
「沙門たる者も…またかくありたいものだ」
また老人が呟いた声も遠くに聞こえる。と、灯が大きき揺らぎ平衡感覚を失った法師はとっさに下の岩肌に手をついた。そして、近づいてくる振動に気づいた。
「…八戒?」
八戒のものにしても重すぎるその足音はゆっくりとこちらにやってくる。
「下がりなさい」老人が法師を奥に押しやると燭台を掲げた。現れた巨大な影はその明かりに一瞬顔をしかめたが、部屋の奥の法師に目を向けニヤリと笑った。
「お前が玄奘法師か」
男は石窟の天井に届きそうな頭を屈めなかへと入ってくる。その、身の丈六尺を優に超える巨体と面長の顔に細い目を鋭く光らす男は弁髪をひと振りして低く唸った。
「あまりうまそうじゃねえな」
「貴様…さては妖怪魔物の類だな」
法師を庇う老人が燭台で威嚇するように言う。男はうるさそうに手を振り
「じじい、お前に用はない」
「黙れ不浄の者めが!」踏み込んだ老人の腕を男がつかんだ。
「用はないと言っただろう」
持ち上げられ腕をひねられる老人が悲鳴を上げながら宙で足をばたつかせる。
「やめてください!」法師はひどく渇いた喉で怒鳴った。男は法師に細い目を向け
「やめてやってもいいぜ…お前が大人しくしてくれんならな」
「わ、儂に構わず逃げろ!」
「黙れ!」男がさらにひねると老人の腕がボキリと千切れ、下に落ちた老人に法師が飛びつく。老人は肩を押さえて口を震わせる。男は高笑いを上げて千切れた腕を放り投げた。睨み上げる玄奘法師を見下ろし男は細い目をさらに細める。
「なあ玄奘法師、そのじいさんをこれ以上痛めつけられたくなければ大人しくついてきてもらおうか?もちろん、外の弟子たちに助けを呼ぶなんてことをしないでだ」
下に落ちたろうそくの灯に周りの壁画が揺らめく。唇を噛んでいた法師はそっと老人の肩に触れ
「苦しいでしょうが…どうか外にいる弟子たちに助けてもらってください」
老人は呆然とした表情で法師を見つめかすかに頷く。法師が立ち上がる。男はニヤリと笑い
「決まりだな」
そう言って素足でろうそくの灯を踏み消した。
遊び疲れた弟子たちは川辺に寝転び夕べの風に吹かれていた。
「しっかしお師匠さまおせえなあ。いつまで穴のなかにいる気だよ」
「マニア同士話してると時間忘れちゃうからねー『いやあこの薬師如来のお姿の美しいこと』『いやいやこの阿弥陀仏の神々しさといったら』とかなんとか言ってさ」
「おいらお腹すいた…」
それまで一緒に寝そべっていた白竜が突然立ち上がった。三人が振り向くと石窟の入り口に老人が倒れている。
「おいじいさん!大丈夫か!」
駆け寄る弟子たちに老人は肩を押さえ
「儂は大丈夫だ…だがあんたらのお師匠さんが…」
三人が息をのむ。小鈴は口を押さえ声もなく震えている。
「さらっていったのは…金嵬洞に棲む妖怪だ…牾王吾岌と名乗っていた…」
「金嵬洞の…牾王吾岌」
「じいさん、その金嵬洞ってのはどこにあるんだ!」
老人は沈みゆく夕陽を指し
「ここより…西へ行った所だ。儂のことは構うな…早くお師匠さんを…」
一同は頷くとすぐさま西へと向かい始めた。その姿を半ば横たわるように見つめていた老人は、やがてゆっくりと立ち上がるとそのボロボロの法衣を脱ぎ捨てた。
「さあて」冴侶が薄黄緑の目を細め独り言ちる。
「どちらがうまくやるかな」
空になった片方の袂を風になびかせ、冴侶は微笑みなが一同の影を見送った。




