第十九話
強い陽射しに水面の蓮の花が白く輝いている。その間を時折、巨大な蜘蛛と蠍と蛇が楽し気に泳ぎ過ぎてゆく。そんな池の傍らで、欄干にもたれながら千蓉は蓮の花をむしっていた。
「好き…嫌い…好き…」
「蓮は花占いにむかないと思うわ姉さん」
「嫌い…」千蓉は顔をしかめ「寿々」と大蜘蛛を呼んだ。寿々が新しい蓮の花を咥えてくる。それを受け取った千蓉は再びむしり始める。
「好き…嫌い…」
屋敷の奥では何かが崩れ落ちる音とともに妥媛の喚き声が響いてくる。劼挐はため息をつくと姉に視線を戻した。
「でも災難よね、玄奘法師も」
ぱっと千蓉が立ち上がる。
「そ、そうよね!私なんかに慕われたら玄奘さまだって迷惑よね」
「やっぱりそうなの」
劼挐の冷めた目から千蓉は赤い顔をそむけた。
「でも姉さん誤解しないで。私が言ってるのは四天王や獣王のことよ」
千蓉は持っていた花を取り落とした。
「玄奘法師を食らえば不老不死を得る…私たちの所までこの噂が届いているということは四天王たちの耳にはとっくに入っているはずよ。つまり…玄奘法師は西へ向かう道中ずっと命を狙われることになる」
「そうだわ…私…つい忘れて…」
奥でまた激しい物音が響く。千蓉は顔を上げた。
「カツ、行くわよ。玄奘さまのもとに」
玄奘法師一行は熱風吹きすさぶ荒野を相変わらずノロノロと進んでいた。
「ん?」
最初にそれに気づいたのは悟空だった。砂埃舞う道の先に人らしき影が倒れている。
「た、大変だ」
一行は慌てて駆け寄ると倒れている男を覗き込み、そして顔を見合わせた。
「おい八戒…こいつ人間か?」
八戒は鼻をヒクヒクさせてからくしゃみをした。
「おいら、埃で鼻が詰まって分かんない」
「お前のでかい鼻も便利なようで不便だな」
「とにかく、風と陽射しの避けられる所へ運びましょう」
やけに重い男を弟子三人が苦労して岩陰に運ぶ。玄奘法師がその顔に水をかけてやると、男はすぐさま目を覚まし法師の手から瓢箪を取り上げ喉を鳴らし飲み干した。やがて大きくため息をつき
「酒じゃないのか」
「ちょっとあんた!助けてもらった第一声がそれ?」
小鈴に言われ男は改めて一行を見回した。
「…旅芸人?」
「あんったに言われたくないわよっ」
男は虎刈りに辮髪という奇抜な頭をかき
「いやあ、この格好は人に会うためにめかし込んで…」
「最悪。センスゼロ。紫に黄色なんてどういう組み合わせよ」
「そうかなあ」しげしげと自分の着物を眺める男に法師が訊ねる。
「人に会いにいく途中で倒れられたんですか」
「いやあ自慢じゃないが俺暑さには滅法弱くて」
男ははたと法師に目を据えた。その薄青い目がどんどん大きくなる。
「あああああっ!!」
「なななな何ですか!?」
男が立ち上がる。するとその背丈が優に六尺以上あるのが分かった。
「そうだ…狺、狺はどこいった!?」
それに応えるように野太い猫の声がしたかと思うと、岩陰から大きな銀色の虎が姿を現した。
「狺ー!!どこ行ってたんだよ心配したぞ!」
「たった今まで忘れてましたよね?」
「虎刈りの…虎を飼う野郎か」
「阪神ファンかな?」
突っ込む弟子三人を尻目に男は虎の首にしがみつきながら
「え?何?あんまり俺が暑くて辛そうだから俺を休ませて水を探しにいった?何て優しい虎なんだお前は!」
「ひょっとして面倒臭くなって放り出していったんじゃないんですかね」
「え?オアシスを見つけたけどどうしても水を持ち帰る方法が思いつかなかった?いいんだよお前が無事ならそれで!!」
「明らかに自分だけリフレッシュしてきた顔だぞその虎」
男は虎の背に跨り一行に言った。
「ただ水をもらっただけだが世話になったな」
「全く感謝されてる気がしないわ」
「じゃ、興行の成功を祈ってるぜ!」
「だから旅芸人じゃねえって」
男を乗せた虎は荒野を駆けたかと思うとヒョイヒョイと身軽に岩山を登り、あっという間に見えなくなった。その様子を一行は呆気に取られて眺める。
「…お師匠さまも馬じゃなくて虎に乗るべきかもしれねえな」
白竜が悟空の顔にブヒヒンと盛大に鼻息を吹きかけた。
一行は再び西を目指し進み始める。
「砂嵐がおさまってよかったですね」
白竜の背で玄奘法師がそう言ったとたん、道の前方でもうもうと巨大な砂埃が舞い上がった。とっさに弟子三人が前に出る。
「お前は…」埃に目を凝らす悟空がはっとする。
「毒々しい姉妹…」
「誰が毒々しいよこのチビ猿!」
寿々の背で思わず怒鳴ってしまった千蓉は法師の姿を見て顔を隠した。
「やだわ…私ったら猿にのせられて…」
「姉さんそれよりも用件を」
賢々の背で劼挐が言う。と、娟々の背から妥媛が飛び降りた。妥媛はずんずんと八戒の前まで来ると持っていた皿を差し出した。
「これ…私の作った蓮の実餡入り揚げ団子です」
八戒は黙って手を合わせると、団子を一つつまんで食べた。
「おい八戒…大丈夫か?十中八九毒入りだぞ」
八戒はニコリと妥媛に微笑んだ。
「「よく、頑張ったね」
「はっ…八戒さまああっ!」
妥媛が八戒の腹に飛びついた。
「私っ一生懸命つくったんですっ八戒さまに認めてほしくてええっ!」
八戒の腹でわんわん泣きじゃくる妥媛を指さし悟浄が訊いた。
「これが用件?」
「ち、違うわよ!いえ、これはこれで喜ばしいことだけど違うわよ!」
千蓉は寿々の背から降りると玄奘法師の前に立った。法師も白竜の背から降りながら訊ねる。
「何か御用ですかチヨさん」
名前を呼ばれるだけで千蓉は眩暈を覚えたが、何とかこらえて言った。
「玄奘さま…どうかこの先、西へ行くのをお考え直しください」
千蓉の言葉に法師ははっとする。
「西の回廊一帯の妖魔の間に玄奘さまを食らえば不老不死を得るという噂が広まっています。かく言う私もそんな噂を信じたばっかりに…。これ以上旅を続けるのは危険です。どうかお止めください」
「老婆心からのご忠告どうもありがとう」
法師の肩から小鈴が顔を出し、千蓉は頬を引きつらせる。
「ああらそんなとこにいたの?気づかなかったわ、小さすぎて」
「ああらもう老眼?そんな歳には見えないけどお。お気遣いはありがたいんですけど、この旅の危険は
もとより承知の上なのよ!ねえ玄奘さま?」
「え、あ、はあ」
「ちょっとお嬢ちゃん」千蓉が鼻で笑う。
「あなた本当に玄奘さまがどんな危険にさらされてるか分かってるの?雑魚だけでなく四天王にも狙われることになるのよ」
「ししし四天王!?」
玄奘法師がたじろぐ。千蓉は眉をひそめ
「西域一帯の妖魔をまとめている者たちです。少なくとも、本人たちはそう思っています。その頂点に立つのが獣王で…これはただの駄猫ですが」
「要するに自称王様の集まりなのね」
「そうね…けど、その力は決して侮れるものじゃないわ。ですから玄奘さま…」
妥媛が悲鳴を上げた。
「八戒さま!八戒さま!」
八戒が腹を押さえ苦しんでいる。
「てめえ、やっぱり一服盛ってやがったな!」
「八戒死ぬな!気を確かに持て!」
「そんな…私何もしてないもん!八戒さま死なないでーっ!」
「玄奘さま、今日は六斎日だったようです。あと馬鹿二人が悪のりしています」
慌てて八戒のもとに駆け寄ろうとした法師は千蓉を振り返った。
「チヨさん、心配してくださってありがとうございます。でも…」
玄奘法師が微笑む。
「きっと大丈夫です。私には頼もしい弟子たちがいてくれますから」
頭を下げ離れてゆく法師の背中に、劼挐はため息をついた。
「自分がどれだけ危険にさらされているか全然分かってないわね。絶対に」
「ええ…」千蓉は法師を見つめながら
「けどたとえ分かっていたとしても…きっと玄奘さまは途中で諦めたりしないわ。だって一途でひたむきで真摯で誠実で…それが玄奘さまなんですものおっ!」
「ちょっと姉さん大丈夫!?」
赤い顔で倒れ込む千蓉を支え、劼挐は法師を振り返る。
「玄奘法師…たしかに恐ろしい男だわ」
双叉嶺の棲み処に足を踏み入れ、冴侶はふと気配を探った。
「彪月は帰ってるのか」
「ええ」狺に餌をやりながら咀鉄が答える。
「せっかく千蓉婦人に会いに行ったのに留守だったってふて寝してます」
「ご苦労なことだな」腰を下ろしかけた冴侶がまたさっと立ち上がり辺りを窺う。
「冴侶さん?」
狺が岩壁の一角に牙をむいている。
「…姿を見せたらどうだ。そこに潜んでいることに意味があるとは思えんが」
冴侶の言葉に岩陰から一人の少年が音もなく現れた。その、何の匂いも持たなければ気配すら感じさせない相手に冴侶は眉をひそめる。
「何者だ…お前」
「お前たち妖魔は必ずそう訊ねる」
低くそう言うと少年は青白い顔に薄い笑いを浮かべた。
「じゃあ質問を換えてやる」冴侶は相手を見据え
「何の為にここにいる」
少年はまだ笑いを含んだ声で
「いや…西域一帯を統べるという獣の王の城はどんなものか興味があってな」
言いながら岩を大きくくりぬいて造られた部屋を歩きつつ
「さすがは獣王と言うところか。物は置かない主義か?玉座は?王なのだから玉座があるだろう」
「小僧…言っておくがここは物見遊山に来るような所じゃないぞ」
少年は構わず歩き回る。
「目障りだ…狺!」
狺が躍りかかる。噛みつかれた少年の体は人形のように大きく歪み、ちぎれた。
「…何者だお前」
冴侶は唸りながら、もとの姿で平然と立っている相手を睨む。突然咀鉄が声を上げた。
「冴侶さん、こいつですよ!玄奘法師の話の出どころは!たしか得体の知れない小僧から聞いたって言ってましたから」
冴侶の目が品定めするものに変わる。
「…本当か」
「何がだ」少年の目が鋭くなる。
「玄奘法師を食らえば不老不死を得るという話だ」
洞窟に高い笑い声が響いた。
「偽りであろうとなかろうと、お前の仲間たちはもう動き始めているんだろう?今更真実を問うとは悠長なことだな」
少年が正面から冴侶を見据えた。
「知りたくば自身で確かめろ。法師を食らえば自ずと答えが出る」
その目の奥は深い闇に閉ざされていて何も映らない。
「俺たちを焚きつけて…貴様に何の得がある」
しつこく探ってくる冴侶の目から顔をそむけ、少年は低く言った。
「決まっているだろう…玄奘法師の死だ」
と、今度は冴侶が笑い出した。
「冴侶さん!?」
「何がおかしい…」
「語るに落ちたな小僧。お前の望みが玄奘法師の死だと言うのは本当だろう。ならばなおのこと不老不死の話が出てくるのは都合が良すぎる。つまりこれは法師を亡き者にする目的のためにお前が流した偽りだということだ。坊主一人殺すのに随分と大仰なことをしたものだな」
少年が感心したように冴侶を眺める。
「人の姿を得たとはいえ…獣はもっと愚かだと思っていたが」
「無論愚かだ」冴侶はまだ唸っている狺の頭を撫で
「現に牾王や阿王は信じ込んでいる。だが俺もお前の嘘をせいぜい利用させてもらう。俺自身の目的のために…」
少年は目を細め「お前は坊主一人と言ったが…玄奘法師は一人ではない」
冴侶が顔を上げる。
「法師は妖怪の弟子を三人連れている。ことはお前が思っているほど容易ではない」
そう言うと少年は踵を返した。
「獣王によろしく言ってくれ。会えずに残念だとな」
少年の姿は闇に溶けるように消えた。始終狺にしがみついていた咀鉄が身震いする。
「何ですかありゃ…幽鬼の類ですかね」
冴侶は黙って少年が消えた辺りを見つめていた。




