第十話
夜明け前の長安は薄い霧のなかに沈んでいる。
その都の一角で、霧にしっとり濡れた庭の草木を眺める人物がいた。
「では…やはり玄奘法師は生きているのか」
その人物は庭に目を向けたまま背後に控えている相手に言った。
「はっ申し訳ありません」
拝跪したまま相手は答える。上官らしいその人物は怒る様子もなく
「ただ分からないのは…陛下がどうしてそのことを知り…そしてどうして執拗にその僧にこだわるのかということだ」
それから幾分声を硬くして
「例の…禁軍の四人を自らお遣わしになられた」
控えた男がわずかにはっとする。
「…自身で確かめざるを得まいか」
男は何も言わず、頭を垂れた。
「観自在菩薩ー」
洪福寺では今日も早朝から寺らしく読経の声が響いている。
「行深般若波羅蜜多時ー」
ただ普通の寺らしくないのは、朗々と経を読み上げる法順禅師の背後に並ぶ弟子たちが、片足立ちで両手に重りをつけヒンズースクワットをしながら教本を読んでいるという点だ。洪福寺ではこれも日常の風景だった。
その日常が破られた。
「五蘊皆空度一切苦ー」
円心が恐る恐る法順禅師の側に来て耳打ちした。禅師は露骨に顔をしかめる。
「何?客!?」
背後の弟子たちは一様に安堵の表情を浮かべた。
「まったくどこのどいつだ!神聖な読経の時間に」
寺の廻廊を足早に進みながら法順禅師が怒鳴る。
「それが、お訊ねしてもお名前を仰っていただけず…」
円心がその後を必死に追う。
「ただとても立派なお車に乗っていらっしゃるので、さぞご身分のある方かと…ぶっ」
禅師が急に止まり円心はその背中にまともに顔をぶつけた。
「すっすみまっ」円心は死を覚悟した。しかし法順禅師は黙って前を見据えている。
その視線の先に、門の外に牛車と従者を控えさせ、その顔を冠の簪で留めた薄布で覆った人物が立ってる。
「円心」法順禅師はその人物を見つめたまま言った。
「この方を苑の亭子へご案内しろ」
「…早朝に申し訳ございません。こちらとしては人目を憚るので」
寺のなかの池に浮かぶ小島に造られた東屋で、ようやくその人物は口を開いた。
「ええ」向かいに腰かけた法順禅師は落ち着き払って応える。
「ここからなら、誰にもお顔は見えませんよ。諫議大夫様」
相手はかすかに身動ぎしたが、やがて垂らしていた薄布を取り払った。
細い顎に細い髭、そして鋭い目が現れる。
「お気づきでしたか…」
皇帝の側近である諫議大夫魏徴の名を長安で知らない者はいない。
「玄奘のことでしたらお役人に全てお話ししましたが」
やはり落ち着き払って法順禅師は目の前の高官に言った。魏徴は相手を探るように見つめ
「ええしかし…今一度自身の目で確かめたいと思いまして」
法順禅師がかすかに口をゆがめる。
「竜のお気にでも障りましたか」
魏徴がとっさに立ち上がった。鋭い目で目の前の人物を見据える。
「…答えてください法順禅師」
腹の探り合いは無駄だと判断した魏徴は単刀直入に言った。
「玄奘法師とは、何者なんですか」
辺りに静けさが漂い、朝の小鳥の声だけが響く。「玄奘は…」徐に禅師が口を開いた。
「命懸けで西へと向かいました。そして恐らくいまも…」
その声と辺りの静けさが魏徴の胸をざわつかせる。
「この真実を知るからには…大夫様にも命を懸けていただきます」
魏徴は目を細めた。
「それは…」
「無論」相手を見上げ法順禅師がニヤリと笑う。
「語る私も同様です」
ガラガラと車輪を鳴らし牛車は都の大通りを進んでゆく。簾を下ろしたその薄暗いなかで魏徴は深く考え込んでいた。
「まさか」
卓に手をつき魏徴は呻いた。
「そんなことは…絶対に有り得ない!」
「天自ら動かれたと仰られたではありませんか」法順禅師の声はあくまで静かだ。
「それに私自身もその場に居りました」
魏徴が目を見開く。
「大夫様」険しい顔で睨む相手に法順禅師は微笑んだ。
「私が何故このことを貴方様にお話ししたのか…どうかお察しください」
「…玄奘法師はこのことを…」
「無論知りません。玄奘はただ…」
魏徴はわずかに窓を開け通りを見る。
辻々には検非違使の姿が目に付き、人々は窓や物陰からその様子を窺っている。
魏徴の脳裏にさっきの法順禅師の言葉がよみがえった。
『玄奘はただ…唐を救うために旅立ったのです』
(しかし…やはり分からぬのは…)
宮城の長い廻廊を歩きながら、魏徴は尚も考え込んでいた。それを「魏徴殿」と背後から呼ぶ者があった。
「ああ…これは…」
振り返った魏徴はわずかに頭を下げる。そこには立派な髭を生やしたいかめしい顔の男と、対照的に穏やかな面差しの男が立っている。一人は尚書左僕射、房玄齢。もう一人は尚書右僕射、杜如晦。ともに唐国の宰相である。
「今朝は朝議におられなかったので、どこかお具合でも悪いのではと話していたところですよ」
屈託なく言う如晦に「申し訳ありません」と魏徴は更に頭を低くする。如晦の隣で玄齢が鼻を鳴らし
「別におらずとも差し支えなかったがな」
「玄齢殿」如晦がたしなめつつ
「実は陛下が…」
魏徴がはっとした。
「陛下が…いかがなされました」
「え、いえ、実は陛下も今朝の朝議にはお出ましになられなかったんです」
如晦は穏やかな顔を曇らせ
「最近寝室におこもりになられることが多くて、それこそお体が優れないのではないかと玄齢殿と話していたんですよ」
「そういえば魏徴殿」玄齢は冷笑を浮かべ
「陛下が例の僧を禁軍の四人に追わせたことはご存知だろう。どうやら貴殿の配下の者の報告では満足されなかったらしいな」
下を向いていた魏徴は低く言った。
「お二人とも申し訳ない…少々用がありますので」
足早に去ってゆく魏徴の姿に玄齢はまた鼻を鳴らす。
「つくづく虫の好かん奴だ。陛下は何故あのような者を用いられる」
「またそのようなことを」並んで歩きながら如晦が微笑む。
「よほど気に入らないようですね」
「当たり前だ。佞臣だぞあれは」
「しかし、優秀な方じゃないですか。何でも噂によると」
如晦は言葉を切り
「眠りながら竜を斬り伏せたとか」
玄齢は足を止め、まじまじと相棒を見る。
「馬鹿かお前は?」
「あはははは」
一方の魏徴は笑うどころではなかった。鋭い目を更に険しくして廻廊を滑るように進む。
(何ということだ)
朧げに見え始めた事実が激しく魏徴を突き動かした。やがて、ゆっくり立ち止まると、廻廊脇に控えている人物に言った。
「汚名を雪ぐ気はあるか。伯欽」
本尊である釈迦如来像を見上げながら、法順禅師はひとり呟いた。
「生きて帰れよ…玄奘」
「恩享!」
呼ばれて振り返ると、恪洵と恭大がそろって横街の通りを駆けてくる。
「どうした慌てて」
「やった!産まれた!女の子だ!」
恩享は恪洵の腕をつかみ
「やったな恭大!無事に産まれたか!」
「ああ、その子も英子も元気だ」
息を弾ませる恭大の横で恪洵も我がことのように頬を赤くしている。そんな三人に近づいてくる人物がいた。
「あ、伯欽さまちょうどよかった。聞いてくださいよ恭大の子がついに…」
「お前たち」伯欽は恩享の言葉を遮り
「また西へ行く。すぐ準備しろ」
言うだけ言って踵を返す上司に恩享は慌てて
「ちょっと待ってくださいよそんな急に」
「恩享、恪洵、恭大」伯欽は低く言う。
「これは…公費だぞ?」
「…誰も訊いてませんよそんなこと。ちゃんと西へ行く目的を説明してくださいよ。恭大だって子供が産まれたばかりなのに」
伯欽が振り返り恭大を見た。
「恭大お前…子供が産めたのか!?」
「そうやって誤魔化さないでくださいっ!」
たまらず文句を喚き出した恩享を無視し、伯欽は西の空を振り仰ぐ。
(あの玄奘法師がまさか…)
恩享はまだ喚いている。
(今度こそ…)伯欽は眼差しを厳しくする。
(カメラ持っていこう)
「やっぱり観光じゃないですかっ!!」
「だーかーら」
黄河の流れに小鈴の声が響く。
「道具はあと二つしかないし、それをつけたら無事に天竺に着くまで外せないんだから、今度はもっと慎重に弟子を選ばなきゃだめなの!そうしないと」
觔斗雲の上で大欠伸している悟空を横目で見て
「三馬鹿になっちゃうでしょ」
むっとする悟空の横で白竜に跨った玄奘法師がハラハラしている。
「わーったよ、要するに強い奴を見つけりゃいいんだろ。俺みたいな」
「あんたみたいなのじゃ困るって言ってんの。強くて上品で聞き分けが良い妖怪じゃなきゃ」
「そんな妖怪いるわけねえだろ!」
「それを探すのがあんたの役目」
何のかんのと言い合いをしながらも、一行は夕陽に向かい西へと進んでゆくのだった。




