小悪党(三十と一夜の短篇第81回)
「あいつ、入院したらしいよ」
そんな声が聞こえたのは、二十歳を迎えて開かれた小学校の同窓会でのこと。
「入院? 何か大きい病気したの? そういや来てないけど」
「いやいや、病院じゃなくってさ。少年院。去年かな、バイク盗んじゃ売り払ってたのがとうとう捕まったんだってよ」
「へえ。まあ、あいつなら納得っていうか驚かないっていうか」
「まあなあ。少年院なら二十歳になったらもうでてるのかな。あれって未成年用の場所なんだろ」
「さあ、そうなんじゃない? よく知らないけど」
「ふつうにしてれば縁ねえもんなあ。それよりさあ……」
話題にあがったのは小学生の当時も煙たがられていた暴れん坊の名前だった。
そのせいだろう。話は盛り上がらず、すぐに流れて行く。
けれど漏れ聞こえたその話は、僕の胸にしっかりと根を張っていた。
※※※
「ああ、下種!」
競馬場の喧騒のなか、僕の声に振り向いた彼は睨みつけるような視線を向けてくる。
人相がひどく悪い。
周囲の大人に「親があれじゃあね……」とささやかれながら生きていた小学生のころより、ずっと陰惨な目をしている。
(ああ、ゾクゾクする)
肌が粟立つ感覚を抑えて僕はにこやかに手を上げた。
「覚えてない? 僕だよ、後田」
けげんそうにしかめられた眉がぎゅうっと寄って、ぱっと開かれる。
「「後ろの席の、後田か!」だよ」
重なった声は案外と子どもじみていた。
そして、くるりと体の向きを変えた下種の姿に僕は笑みがこぼれる。
しかめられた眉。丸まった猫背。薄汚れた衣服まで子どものころのまま。
ただ図体だけが大きくなった小学校の問題児がそこにいた。
「なんだ、後田。お前、競馬場やんのか」
「いいや、はじめて来たよ。思ってたより賑やかなんだね」
仲間を迎えるような喜びを悪人ヅラに滲ませていた下種は、僕のことばにむすりと笑みを消す。見た目は僕の父親とそう変わらないほどに老け込んでいても、感情が下降しやすいのは昔のままだ。
(成長してないんだね、君は)
うれしくなってしまったけれど、喜んでばかりもいられない。警戒心を抱かせる前に、と僕は続ける。
「下種がここにいるって聞いて会いに来たんだ。院に入ってんだって?」
太い眉毛がぎゅうっと寄る。三拍待てば、彼は怒鳴り散らしながら暴れるだろう。小学生のときはずっとそうだった。
だから僕はひとつ呼吸をしたところですかさず声をかける。
「びっくりしてさ。なんだか無性に会いたくなっちゃったんだ」
全開の笑顔にすこしの照れを乗せれば、下種の顔に怪訝な色が広がった。
押せばいける。
そう踏んだ僕は、恥じらいを込めつつも続けて言う。
「いつだったか、下種が僕の描いてた絵を見て褒めてくれたことを思い出したからさ」
きょとん、とした下種の顔はずいぶんと幼く見えた。
そして視線をうろつかせる。
彼は負の感情を向けられることには慣れているだろうが、褒められる、感謝されることには慣れていないはずだ。
その読みは見事にあたり、下種はくたびれた顔をわずかに赤らめ僕から視線を逸らす。
少年院に入っていたことを指摘された不機嫌など消し飛んだことだろう。
「覚えてる? 授業中、急に君が振り向いて。僕がノートに落書きをしていた絵を見て言ったんだ。『うめえな』って」
それは実際にあった過去。
てっきり馬鹿にされると思って固まっていた僕に、君は間違いなくそう言った。
「そうだっけか」
むすり、とした下種だけれど実際は気分を損ねているわけではないんだろう。その証拠に、あたりを満たしていた大勢の人々が馬の出走を見守るためどこかへ流れていったというのに、彼はここに残っている。
だからこの不機嫌顔はきっと、照れているだけ。
そこに、たたみかける。
「あのとき君が褒めてくれたから、僕は漫画家になれたんだ。そのお礼が言いたくて、会いに来たんだよ」
見開かれた下種の目が、子どものようにきらめく。
「漫画……漫画家か! すげえな、お前! いやほんと、すげえ!」
くたびれた顔のなか、目だけを小学生のころのようにキラキラと輝かせて下種は僕の肩を叩く。
「痛い、痛いって。漫画家っていっても電子だけどね、でも本当に。あのとき君が褒めてくれたから進めた道なんだよ」
これは本当。
何年も絵を描き漫画を描き続ける日々のなか、下種のあのひと言が支えてくれたのは一度や二度ではなかった。
自分のへたさに腹を立てたとき。漫画を描いても誰も評価してくれなかったとき。面白い漫画を読んで笑って、あまりのうまさに悔しくて仕方なかったとき。
絵を描くことをやめようと思った数だけ、あの何気なくぽろりとこぼれた「うめえな」の言葉に励まされて、慰められてきた。
(感謝はしてる。してるけど、お前が悪さをやめられないように、僕にも譲れないものがあるんだ)
そのためなら、きしむ胸を無視して僕は笑ってやる。
「だからお礼にご飯をご馳走するよ。もし時間があれば今からいっしょに、どう?」
(その席で今日までのあれこれを聞きだすんだ)
「へへ、悪いな」
下種はニヤッと笑って歩き出す。無職なんだから忙しいわけがない。
僕は彼の薄汚れた背中を追った。
「良いんだ。久しぶりに会うから、漫画家になるまでの話もいろいろ聞いてほしいし」
懐っこく笑えば、下種が僕にちらりと視線を向けて機嫌よく笑う。
「なんだ、俺のほうは面白え話なんかねえぞ。少年院入ったり警察に補導されたり、誇れることなんかありゃしねえ」
「聞きたいよ! 警察署ってかつ丼が出るの、とかさ」
「出ねえよ。そんなんテレビのなかだけだろ。ただただむかつくおっさんにねちねちぐずぐず言われるばっかりだよ」
「ええー、なんだ。残念。他には?」
並んで歩きながらあれこれと質問をしては、返ってきた話を胸に刻んでいく。
話題が尽きないのは十数年ぶりに会うからじゃない。下種がそれだけ悪事を重ねてきた証拠だ。
(どの話をするときも悪びれた様子がない。本当に君は、小学生のころから変わらないね)
大袈裟に驚き、笑いながら僕は胸の痛みが冷めて行くのを感じていた。
下種はきっとこれからも悪事を繰り返すだろう。僕はそんなお前をネタにするために、どうしようもない小悪党の言動をストックしておくために、お前と友だちのふりをする。
(お前の話を聞いたとき、僕は「いいネタ元を見つけた」って思ってしまったから)
いつかの幸せな思い出を踏みつけて、下種の更生になんて手を貸さずに、お前を食い物にするんだ。
(お前が褒めてくれた絵を描き続けるために、お前はずっとそのまま悪さを続けてくれよ)
下種がいつか刑務所に入ったら、面会に行こう。刑務所の内部を観察できることなんてそうそうない。収監された人間の生の声を使って描く漫画はきっとリアリティがあって、同レベルの漫画から抜きん出ることができるはずだから。
(だから、下種)
「もっと色んな話を聞かせてほしいな」
言いながら、僕は今日はじめて心の底から笑えた気がした。
なんでもネタにしようとする恐ろしい性根を隠し持った人物は、きっとあなたのすぐそばにも……。