(98) 霧中の遭遇
◆◆◇霧元原・デルムス伯爵領西方◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
星降ヶ原からは東隣の地域となる霧元原は、霧が生じやすい地域特性が名の由来となっている。この日も、ジオニル率いる天帝騎士団東方鎮撫隊の先遣隊は、うっすらとした霧に包まれていた。
不案内な土地で、霧の中を進むのは危険である。まして、未だ魔王の勢力圏には入らぬ地域だけに、ジオニルは進軍の停止を指示した。一斉に下馬しての、警戒しつつの休憩という形になる。
鎮撫隊の副長にして、この先遣隊の長であるジオニルの側には、新顔の騎士の姿があった。着用している鎧の色は青である。その人物は、かつて魔王タクトとエスフィール卿の陣中にいた際に食料の横流しを咎められて処断された、今は亡きベルーズ伯爵の旧家臣だった。
「今回は、シュクリーファ様を同行させないでよろしかったのですか? 殺気立っているようでしたから、暴れさせるのには都合がよかったように思うのですが」
言葉こそていねいだが、軽んじる気配が漏れ出している。蛇に似た瞳で一瞥こそ投げたが、ジオニルにその点を咎める気はなかった。
「霧元原の教会領には、東方司教座が置かれている。教会内での位置づけは重い土地だけに、波乱要素は少ない方がいい」
「東方司教の危機を救ったジオニル様の評価は高くなるでしょうな」
にやけ顔の青鎧が口にした言葉の通り、今回の救援には大きな意味がある。出身家の格式から言えば、ジオニルが副長の座に留まっているのは異常な状態である。剣技でファイムが上回っているのは否めないとしても、席次はそれだけで決まるべきものではない。それが、これまでの天帝騎士団の常識だった。
一般信徒出身のファイムは、剣技と不思議な人望とで騎士団内で階段を登り続け、五席にまで達している。成り上がりの栄達を苦々しく思うのは、ジオニルだけではなかった。家柄と関係なく引き上げられるなど、野蛮な者の集まりだったとされる騎士団草創期のようではないか、との不満は、特に幾代も騎士を排出している家々の中で色濃く渦巻いている。
ジオニルが副長としての立場以上の影響力を振るえているのも、そういった不満組をまとめているためだった。だが……。彼が苦々しく思い浮かべるのは、白金色の髪の女騎士だった。
まだ十代後半で子どもじみたところのあるシュクリーファだが、剣技だけなら隊長のファイムを上回るかもしれぬ実力の持ち主である。そして、出身家はジオニルとは比べようもない、教団の枢要を占める者を排出してきた家柄だった。
既に司祭位を得ている彼女が経験を重ね、功績を積み上げたなら……。隊長の椅子をあっさり得てしまいかねない。蛇に似た目の副長は、そう思いを巡らす。彼がファイムを追い落とし、暫定にしても東方鎮撫隊の隊長職を手にすれば、騎士団での十席入りも、五席入りすら視野に入る。だが、シュクリーファにとってはその立場すら通過点に過ぎないのだろう。蛇眼の副長の口中に苦々しさが広がった。
「この情勢下だと魔王の討伐数も重要になってくる。中央域では騎士団の本隊が、強大な魔物を従えた魔王に苦戦していると聞く。今が好機なのは間違いない」
中央域との情報交換は、隊としての公式な報告、指示伝達には限られない。ジオニルに近い騎士達がそれぞれ、家の伝手をたどっての情報収集に励んでいた。この混乱した状況では、情報の価値が高まるのは当然であった。
「ジオニル様は、本来の立ち位置にお進みいただきたいものです。……それにしても、霧が濃くなりましたな」
と、前方から警戒を促すための指笛が届いた。
「敵襲でしょうか。魔王の勢力圏には、まだ遠いはずですが」
「捕捉されるほどの動きはしていないが。……旗を掲げているようだな」
霧の中で、うっすらと前方の集団の姿が見え始めた。ジオニルは、旗らしき物体に視線を向けている。
やがて伝令が駆け込んできて、武装した集団が緑の旗を掲げていると報告してきた。この辺りで緑の長旗を使っているのは、霧元原北部に所領を持つデルムス伯爵家のみである。
やがて霧の中から現れたのは、穏やかそうな人物だった。ジオニルは相手を、自分よりもやや年下の三十代前半と見積もった。
「デルムス伯爵家の方ですかな?」
「伯爵の命で討伐活動に従事しております、ルーシャルと申します。旗印からすると、天帝騎士団の方とお見受けしますが、青鎧の方もご一緒で?」
「この者は元ベルーズ伯爵の家臣で、見習いとして参加しております」
「ベルーズ伯爵家というのは、確か……」
ルーシャルと名乗った細身の人物の呟きに不穏さを感じた蛇眼の白騎士が、かぶせるように問いを発した。
「デルムス伯爵領はご無事なのですか? この地には魔王勢力が二つ存在していると聞き及びますが」
「ええ、未だに討ち果たせておりません。魔王に味方する勢力が予想外に多くて、手間取っております」
「なんと、この地でもそんな状況ですか。星降ヶ原でも、魔王と連携しようとする愚か者が多くおりましてな。厄介な存在なのです」
「天帝騎士団の方々としても、そのような者達は討伐されるべきとお考えですか」
「ええ、当然です」
「それは心強いお言葉です」
ジオニルと対面する細身の人物の瞳が、輝きを増したようだった。
「伯爵領に向かわれるのですかな。それでしたら、ご案内しましょう」
と、まだ霧の中にいるルーシャルの連れから、不満げな声が漏れた。
「いえ、それには及びません。我らは南方にある神聖教会の所領へと向かいます」
「おや、目的地は同じだったようですね。星降ヶ原からでしたら、前の分岐を折れた方が早かったはずですが、迷われましたかな」
「そのようですな」
「教会領へは討伐に行かれるのですか?」
その問いに対して覚えた違和感を、ジオニルは無視した。
「教会領を救援し、魔王を含む外敵を討つためです。……なにやら、勇者を騙る者達の襲撃にも晒される危機にあるそうでしてな。どこぞの野盗が、危機につけこもうとしているのでしょう。まさに乱世ですな。嘆かわしい」
「ジオニル様、ちょっと」
付き従う青鎧が、思わず蛇眼の副長の袖を引いたのには理由があった。尋常でない気配を、その者は感じ取っていた。
「話の邪魔をするな。無礼であろうに……」
そこでようやく、ジオニルは目の前に立つ人物の変化に気付いた。穏やかそうだった表情は凄惨さを醸し出すほどに歪み、その身はたゆたう不穏な気配に包まれている。
「天帝騎士団までもが魔王と連携するとは、まさに乱世なのでしょうな」
ためらいもなく抜かれた剣が、ジオニルに向けて振り下ろされる。とっさに前に出た青鎧が抜き打ちで防ごうとしたが、黒い炎を発するルーシャルの剣によって、合わせた剣ごと両断された。
気づいた年若の女性騎士レミュールが、慌てた様子で駆けてくる。そこに、霧の中から野太い声がかかった。
「おう、勇者さまよ。いくらなんでも天帝騎士団とやりあうのはまずくないか?」
「そうですぜ。どんな祟りがあるかわからないっすよ」
「なに、魔王と通じる連中など、皆殺しにしてかまわんさ。デルムス伯爵もそれをお望みだ」
凄みのある笑みを浮かべたルーシャルが、また聖剣を振るう。先程とは異なり、今回は黒い炎が地を這って進み、抜刀していた短髪の女性白鎧の足に絡みついた。レミュールが、声にならない悲鳴を発する。
「そら、獲物だぞ」
「やれやれ、人使いが荒い勇者さまだ。手練れはおまかせしますぜ。……いつもと同じでかまわないんですな」
「もちろんだ。殺す以外は好きにしろ」
「野郎共、お許しが出たぞ。女は簡単に殺すんじゃねぇぞ」
おおっ、と応じる野太い声と共に、山賊風の出で立ちの男達が霧の中から現れた。その中には出で立ち通りの山賊上がりもいれば、伯爵から下げ渡された犯罪奴隷、戦争奴隷も含まれている。従者達を守るように、勇者が剣を構え直す。
ジオニルは鎮撫隊の副長として、勇者が携える聖剣を目撃したことがあった。その折りに接した威圧感を伴う霊圧と近しいものが、構えられた剣からも感じられている。確かにこの人物は勇者なのだろう。理屈でなく彼はそう実感し、恐怖していた。
幾人かの白騎士が立ち向かおうと進み出たのを契機に、ジオニルは後退を始めた。目敏くそれを察して逃げ出した者もいたが、まだ霧に包まれたままの人数も多かった。蛇眼の統率者は、自分と勇者の距離が少し開いたと見るや、撤退するよう叫んだ。
霧が少し薄れ始めたのは、白騎士達にとっては幸いなことだった。退路が目視できなくては逃げようにも逃げられない。聖剣が発する黒い炎に追い立てられるように、彼らは駆け出した。黒い炎に足止めされた者や、勇者の取り巻きに包囲された者達は見捨てられ、五芒星があしらわれた白い長旗も打ち捨てられた。
「なぜだ、なぜ勇者の誰もが敵方に回るのだ」
苦しげなジオニルの声に、共に逃げ延びてきた騎士達は返す答えを持ち合わせていなかった。彼らは勇者を無二の存在だと認識しており、複数いる時点で理解の外なのだった。
誰かが騎乗するなり、主についてくるなりして集まった馬は、連れていた数の四半分にも達しなかった。
先遣隊を率いる邪眼の白騎士が選んだのは、聖剣から放たれた黒い炎で動きを封じられ、この場にたどり着けなかった女性騎士レミュールの馬だった。こうなっては、いったん戻って立て直すしかないだろう。そう考えたジオニルは、帰還の途につくように命令を発した。
……ラーシャ侯爵領へと到達する前に、彼らはゴブリン、オーク、オーガらを主体とした魔王勢の攻撃を受け、さらなる被害を出すことになった。退却していく騎士達を、宙に浮かんだ小さな妖精が見守っていた。
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