(86) 炎の坂
東の空がほんのりと青みを帯び、星の残る中天と、薄桃色の月が隠れようとしている西側とで、淡い色合いが段階を為している。まだ夜闇の勢力が強いが、朝の訪れが近づいてきていた。
俺の眼下には、城市ワスラムの正門へと続くはずの吊り橋の残骸がぼんやりと姿を晒している。残骸と言いながら完全に落とされたわけではなく、城側の半分ほどの橋桁が外された状態だった。
その下方には、寝静まったゴブリンの集団がいるはずだ。魔物と一般の生物との間では差異がいろいろとあるが、睡眠を必要とするなど共通しているところも多い。連日猛攻を続けているわけで、疲労が激しいのは間違いなかろう。
そんなことを考えながら、そろそろ頃合いだろうかとサイゾウに脳内通話をつなぐと、まもなくだとの反応があった。そして、静かな空間に盛大なギシギシという音が轟いた。ゴブリンのいるはずの辺りから、ざわめきに似た物音が聞こえる。
開かれた正門の中では火が焚かれており、そこだけが輝いて見える。ゴブリン達も同様に感じただろう。
攻めあぐねていた城の門が開いたのだから、先を争って攻め上ろうとするのは当然だ。視線がそちらに集中した頃を見計らって、谷底のゴブリン達から少し離れたところに積まれている、夜陰に紛れて忍者隊が設置した粗朶に火がつけられていく。
下流側の着火が済むと、少し間が置かれて山側も明るくなっていく。その順番には、意味があった。
夜から午前中の早い時間までは、谷を山からの風が緩やかに吹き抜けている。そちら側の粗朶には各種の毒草が仕込まれており、ゆっくりと広がりつつあるはずだった。
明け切らぬ戦場で、ゴブリンの叫び声が響く。ロード級以上の咆哮ではないようだが、それなりの勢いのある突進は城門に向けられていた。戦端が開かれた。
谷底の火に気づいたゴブリンもいただろうが、城を落とせばいいと考えたのかどうか。いずれにしても、粗朶の方に向かう姿は見受けられなかった。
続いて、吊り橋の健在な橋桁の辺りに、明かりが灯るのが見えた。火は複数になり、やがて谷へ緩やかな放物線を描いて落下していく。投げるのは、ワスラム一党の中でも力自慢の騎士の役割となっていた。
投げ込まれているのは、革袋に入れた石脳油と、枝、おがくず、木炭、松ぼっくりなどの可燃物に火をつけたものである。とにかくゴブリンの数が多いので、火の海にしてできるだけ減らすのが目的である。
なかなかの怪力で投げ込んでいるが、さすがに飛距離には限界がありそうだ。
「本格的な投擲機が欲しいところだな。できれば攻城機も」
「んー、そうですね。ゴブリン魔王の拠点は魔王城のようですので、苦労するかもしれません。天帝騎士団の勇戦を期待したいところですが」
諜報の結果、ゴブリン魔王の拠点は城砦タイプであるのが判明していた。
「少数精鋭と言えば聞こえはいいが、実際に万単位の迫力を見るとなあ」
空はだいぶ明るくなり、谷を登るゴブリンたちの姿がはっきりと目視できるようになっている。昨日の段階で落城間近だったと言うが、俺の勢力でこの城をそこまで追い込むのは不可能だろう。
「んー、タクトさまは、潜入工作ですとか、水路からの侵入ですとか、そういう方向性を重視しておられるのでは? 正攻法でしたら、ゴーレムサイズの破城槌やカタパルトを作っていくのもありですし」
「ゴーレムに操作させるとは、考えていなかったな」
攻城兵器として、人間が組み立て可能な物を思い浮かべてしまうのは、元世界の常識に知らず識らずのうちに捕われているのだろう。その点、このトモカを含めた面々の発想力には、縛りがなさそうだ。
「さて、そろそろ後方からの攻撃に入るか」
「んー、頃合いですね」
合図を受けて、谷底の川を渡った一群が、まずは遠隔攻撃を仕掛けた。できるだけ敵を誘き寄せ、分断しての各個撃破を目指すのが、この方面の作戦計画だった。
ここは谷としてはかなり広いが、それでも縦横に動き回れる状況ではない。それだけに最悪なのは、全ゴブリンに一気に押し包まれる展開だった。火攻めを仕掛けつつ城塞の正門を開いたのは、敵の注意、目標を分断させて、各方面で有利な戦局を確保するためとなる。
小高い位置から戦況を一望しつつ、各部隊の名付け済み配下に脳内通話で指示が可能な現状は、どこか戦術シミュレーションゲームに似ている。そして、どうやら対戦相手となるはずのゴブリン魔王は不在なのだろうと、俺達は推測していた。
前日の攻防を見る限り、ゴブリン勢は各所でばらばらに力押しをしている状態で、魔王が意図を持って指揮しているようには見えない。逆に言えば、きっちりと指揮していれば、この城市ワスラムはより早い段階で陥落していたと思われる。
連携攻撃を仕掛けるタイミングが今朝になったのは、攻防の様子から昨日中の落城は免れると推測したためだった。一晩の時間が得られたために、城外では火攻めの準備をしつつの伏兵配置が整い、城塞の中でも諸々の準備が進められた。
……そんなことを考えている間に、城市ワスラムの囲壁の上から火の玉が幾つか落ちていった。
狙いは違わず、積み上げられた倒木を鈴なりになって登っていたゴブリンたちの中へと吸い込まれていく。
すぐに樹々は燃え上がり、突入を目指していた小鬼達は火だるまになって落ちていった。
同様の攻撃が各所で行われている。岩には効き目が薄いが、それでもゴブリンが密集しているところを火攻めにする意味はあった。
「そろそろ城門を閉ざさせるか。この攻撃を凌げば、とりあえずの落城の危機は去るだろうしな」
「んー、ちょっと嫌な予感がしますね。対先鋒部隊の投入、行っちゃいましょうか」
眉の辺りに右手をやっているトモカは、困惑したような表情を浮かべている。この状況で理由を問うても仕方ない。俺は、進言を受け容れると決めた。
【コカゲ、出番だ。隊を率いて相手の先鋒を突き崩せ】
【承知しました】
上流の粗朶の裏に身を潜めていた地竜騎兵、狼騎兵が一気に動き出す。目指すのは、谷から城門に続く急坂に突撃しての、相手の先鋒の粉砕だった。
城塞の正門からは、ワスラム残留組の精鋭と、合流したツェルム、援軍であるブリッツ、ルシミナ、シュクリーファらが前進して、坂上からゴブリンの先鋒と対峙している。
騎兵隊は、指揮役のコカゲ、勇者の卵として力を発揮しつつあるフウカ、髭将軍のマザック・ワスラム、赤備え勢からのエクシュラ、アクシオム主従に天帝騎士団のファイムら精鋭と、まさに主力勢が揃っている。
さらには、スルスミ、イケヅキ、ウスズミの地竜勢、シリウスらシャドウウルフたちも、単なる運搬役にはとどまらない。
勢いよくゴブリンをかき分けて突破していく姿は頼もしいが、それでもトモカの右手が眉の辺りから離れない。
「んー、正門に続く急坂にも、火攻めを仕掛けるはずでしたよね」
「確かにな。突出しすぎて、手控えたとかか」
城内のサイゾウに脳内通話で確認すると、そのとおりの状況だったという。まずいと見た彼は、次の策を考えているらしい。
「んー、そうなりますと……」
そのとき、峡谷にロード級以上が放つ咆哮が重なるように響き渡った。一気に、ゴブリンの突進が加速する。
「まずいな」
咆哮突進が生じてしまうと、その圧力を防ぐのはなかなかに難しい。先日の出城で防ぎきれたのは、攻め口の広さが限られていたのと、アユムとその配下のアーマニュート勢の鉄壁ぶりによるところが大きかった。
今回、アユムは配下と一緒に谷での攻撃隊の前衛を仕切ってくれている。
【コカゲ、咆哮突撃で場内に侵入されると厄介だ。どうにか防いでみてくれ】
【やってみます】
ゴブリンの怒涛の波に乗るように、騎兵隊の行き足も早まっている。一部は降りて、並走しつつ戦闘を始めているようだ。それができるだけのメンツが揃ってはいるが。
「んー、吊り橋勢が指示を仰いでますね」
トモカの指摘通り、松明なのか、火がぐるぐると回っている。
【サスケか。どうした?】
【ここは部下に任せて、忍者勢の主力で吊り橋の縄を使って突貫します】
【頼む。火焔玉を持っていけるのなら、上から放り投げてやってくれ】
【合点です】
サスケも、ここが勝負どころだと判断したのだろう。吊り橋の縄伝いの移動は、危険を考えて見合わせていたのだが、確かにそう言っていられる状況ではない。
コカゲにそれも伝えるが、戦闘中なのだろう、意味のある答えは返ってこなかった。
「参加できないのは、つらいものだな」
「んー、タクトさまはこの場で誰よりも参加されてますって。……突入されれば誤算ですが、総勢で突っ込まれなければ挽回はできます」
「だな。……しかし、なんとも壮絶だな」
正門前では、騎兵隊が城から打って出た部隊と合流し、激戦を繰り広げている。けれど、徐々に押されつつあった。
「……あの光は」
「んー、フウカの聖剣のようですね」
青白い光が戦場に生じていた。いつぞやのように、治癒の霧が立ち上っているのだろうか。そうであればいいのだが。
ほぼ同時に、吊り橋の上から幾つもの火の玉が投下され、忍者群が戦線に加わったようだ。
脳内通話をつないだサイゾウから、次の策の準備を進めているとの応答があった。城市内の油を集めてきたので、正面の急坂に流したいというのである。既にサスケらが投じた火炎玉によって火種はある状態なので、うまくいけば状況を打開できるだろう。
細部を詰め、コカゲとサスケに連絡を取って作戦を伝える。
彼らが一気に後退すると、その隙間がゴブリンたちによって埋められる。そこに、油の入った壺が投げつけられ、転がされた。
大きな壺が蹴り転がされると、油を撒き散らしながら坂を進み、大柄なゴブリンに受け止められた。けれど、油は坂を流れ落ちていく。
そして、何らかの火種が坂の上方で油に引火した。見る間に炎が油を伝っていき、早朝の薄暗さの中で坂がぱっと明るくなる。
火だるまになったゴブリンが、それでも正門に向かって突き進む。それを精鋭たちが体を張って受け止め、切り崩していく。
敵側の先鋒が概ね打ち倒されたときには、後続のほとんどは火に巻かれていた。味方を迎え入れて、正門がゆっくりと閉ざされていった。
そこまでの谷での戦闘は優位に進められていたが、城門が閉ざされ、その他の攻め口も焼け落ちた状態では、総ての敵が押し寄せて、全面攻撃をされかねない。
かねての手筈通り、谷のこちら側から後退を進めていく。敵を壊滅させるには至らなかったが、企図は挫いた。どうやら勝利判定は得られそうだった。