(61) 空腹と規律
今回より、第四章のスタートとなります。またしばらく連日更新を予定しております。
◆◆◇ベルーズ伯爵領◇◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
タクト達がゴブリンの軍勢との会戦に臨んでいた頃、ザルーツとビズミットが率いる赤備えの軍勢はベルーズ伯爵領内を進軍していた。
二人が後継争いを中断させて他領に分け入っているのは、天帝騎士団東方鎮撫隊からの働きかけの影響が大きかった。候領都ヴォイムを訪れた鎮撫隊副長のジオニルから、内輪揉めを中断してベルーズ伯爵領のゴブリン討伐をするように求められたのである。さらには、活躍した方を侯爵の後釜として推薦するとほのめかされては、動かずにいるのは難しい。
ザルーツとビズミットそれぞれの陣営の内部には、南方にもゴブリンが出没している状況下で、関係の微妙な他領に押し入る形での討伐実施に慎重な意見もあった。けれど、結局のところはこの二人の意向に逆らえる者はいない。有力家の面々にしても、後継選定に影響するとなれば協力せざるを得なかった。
赤鎧に身を包んだ騎士を中心とする赤備えの軍勢は、整然とした進軍を続けている。先行するビズミットからはやや離された形となっている。元より両者の間に連携の意思はなかった。ザルーツが率いる騎歩混合の配下は、総勢で四百五十余名を数えている。
ここまでの二日間、ゴブリンとの接触は斥候が遭遇した数十匹程度の群れのみだった。ベルーズ伯爵の手勢の姿も目にしていない。
誤算だったのは、道中で糧食を買い求めるつもりでいたのが、通りがかる村のほとんどが焼き尽くされていた点だった。補給は滞っており、各自が携行する食料はラーシャ領内の移動中にも消費したため、ほぼ底を尽きていた。
本来であれば、せめてタチリアの町で補給してから進軍すべきだった。多くの将兵はそう考えているのだが、指揮役の二人は違った。彼らは揃ってタチリアの町にエスフィールが滞在しているとの情報を得ており、行動の秘匿を優先したのだった。
末端の兵士や小者の分はともかく、幹部の食料は確保されている。我慢するようにとの命令が、不満を緩やかに高めつつあった。
それでも、森での採集や狩猟をして腹の足しにしようとする者はごく少ない。規律遵守の面では好ましいけれど、敵地で食料が得られない不安を抱えながらの進軍は、決して望ましい状態ではなかった。
そんなザルーツ卿の軍勢を待ち伏せる存在がいた。大小のゴブリンの群れである。その数は、五百余を数えていた。
そして、ゴブリン達が伏せる林に隊列の先頭が差し掛かろうとしている。
「若、腹が減りましたねえ」
「ああ。村が軒並み焼かれていては、調達もままならんからなあ」
赤い額当てを装着した年輩従士の嘆きに、若と呼ばれた馬上の赤鎧が応じる。昨晩から、彼らが口にできたのは少量の小麦粥のみだった。
略奪こそせずとも、武装した兵士が糧食の購入を求めるとなれば、ほぼ強制に近い状態となる。ただ、それも村人が生きていればこそだった。ここまでに彼らが目撃した村は焼き討ちされており、全滅したのか逃げ散ったのか、住民の姿は見られなかった。
「糧食が得られないのに、まだ進むのでしょうか」
初老の域に達している従士は、やや後方に翻る紅龍旗に恨みがましい視線を向けていた。赤備えの軍勢は、部隊ごとに赤い長旗を持っている。その中で龍が描かれているのは、侯爵家一族の証だった。
「爺、そうにらみつけるな。……町まで行ければ、買い求められるかもって話のようだ」
向かう先には、やや大きな町があるはずだった。偵察も為されておらず、襲撃されているかどうかを誰も把握できていない。
「でも、ゴブリンが村を荒らしている状態で、売ってくれますかね」
「救援に来たわけだから、無償で提供してほしいもんだが」
「そもそも、青鎧に話は通ってるんでしょうか」
「そうあってほしいもんだなあ」
若と呼ばれた騎士の口調には、指揮者との心理的な距離感が透けて見えた。今回の出兵は、跡目争いをしているはずのザルーツとビズミットと、天帝騎士団の協議で決まった事柄が多い。結果として、配下の騎士らには詳しい事情が明かされていないのだった。本来なら、有力家の跡取り候補である彼には、より詳細な説明があってもいいはずなのだが。
「……ところで、林がありますね」
「ああ、あるなあ」
「目端の利く従士は、主君や同僚のために木の実やら野草やらを採ってきているらしいですが」
「軍規違反だなあ」
「動ける状態を維持するのは、規律よりも重要との考え方のようですな。後方の事柄を軽視する将に、大事は成せません」
「まあ、かつての出兵時の功労者が「なまくら刃」などと呼ばれて排斥されるご時世だからな。自分たちは腹いっぱい食べていて、補給の意義がわかるのかどうか。……ただ、あの林は起伏があって伏兵によさそうな地形にも見えるが」
「ゴブリンが待ち伏せなんかしますかね?」
「青鎧なら、しかねないがな」
「……連中は、今回の件をどう捉えているでしょう」
「わからん。しかし、警戒する気はないのかな。偵察は任せとけって話だったんだが」
「斥候が出てる気配はありませんな。……偵察に長けた者達も、「なまくら刃」同様にだいぶ軽んじられているようです。我ら従士にも勝手な動きはするなとのお達しが回っておりますし」
話している間にも、隊列は林に差し掛かりつつあった。
「ちょっと見てきましょうか。伏兵がいなければ、なにか食べるものを探してきます」
「ああ、頼むよ」
軽く手を上げて、年輩の従士が林へと向かう。樹々の間を抜けて高台に上がると、叫び声を上げて駆け戻る。
「ゴブリンだっ。結構な数が隠れている」
走る従士の背に、ゴブリンアーチャーが放った矢が迫るが、背負っていた盾に弾かれた。鏃が立てた金属音が合図となったかのように、ゴブリンが現れて殺到してくる。
叫び声が達した範囲では警戒態勢が取られつつあったが、全体に届いたわけではなかった。対して、ゴブリンは一斉に仕掛けてきた。
「落ち着け。戦列を組むぞ」
騎士たちの叫びに、従士や兵らが三人一組の戦列を組み、防衛戦を開始する。
ゴブリンの伏兵を発見した従士の周囲では、互角以上の戦況だった。一方で、そこから離れたところでは完全な不意打ちとなり、乱戦が展開されていた。
「若。防戦は順調ですが……、なにかおかしくないですか?」
「なにがだ。すまん、余裕がなくてな」
若と呼ばれた赤騎士は、初陣こそ済ませていて個人での戦闘の経験はあるが、戦列の統率の経験は浅い。ましてや急襲対応で手一杯となっており、全体状況を把握する余力はなかった。一方の偵察に出た従士は中央域から南方への派兵も経験していて、戦場には慣れていた。
「敵が軽いような……、あっさりやられすぎに思えるのです」
「いいことじゃないか」
「それはそうなんですけどね」
年輩の従士は、自らが覚えた違和感をうまく言語化できずにいた。言葉を探していると、上位種らしきゴブリンが突進してくる。下馬した赤騎士らも参加し、周囲との連携でようやく撃退する。
そのとき、遠くから逆側に未確認の軍勢が現れたとの声がかかった。戦闘をしつつちらりと確認すると、年輩の従士の視界にも軍勢の接近が確認できた。
「青鎧ですな。救援でしょうか」
「そうあってほしいな」
ゴブリンは死体を残して撤退しつつあり、そちらを観察できるくらいに、戦況は落ち着いていた
「接近する動きからして、攻撃ではなさそうですが」
そう言っている間に、紅龍旗のたなびく辺りから伝令に向かうらしい小者の姿が見えた。臨戦態勢を取るわけにはいかないが、ベルーズ伯爵家の手勢を警戒する。
そのとき、後方から物音が聞こえた。年輩の従卒が振り返ると、そこには上位種らしきゴブリンが迫っていた。
「若っ」
そう叫びながら、赤騎士の背中を思い切り突き飛ばす。大ゴブリンの一撃は、すんでのところで空振りに終わった。
その頃には、周囲に大柄なゴブリンが突入してきていた。背後からの急襲の形となり、乱戦に陥る。
ノーマルゴブリンの死体の中に隠れていたのは、上位個体ばかりだった。そして、その背後の窪地からも、新たな者達が押し寄せてくる。
混乱の中で、彼らの注意は林側に引き寄せられていた。青鎧の軍勢の急進を把握した者もいたが、組織的な動きにはつながらない。
「若、これはまずいですぜ」
言っている間に、青鎧達が赤備えの軍勢に襲いかかる。挟撃で乱戦となっているが、服装で敵味方の識別は容易だった。
「ああ、こうなると勝機はないな。戦列が完全に崩壊する前に主将を守って落ち延びるしかなかろう」
「守る価値はありますかね?」
「能力はともかく、一応は旗頭だ。後日については、生きて戻れたら。それからだ」
周囲に撤退戦を指示すると、若と呼ばれた赤騎士は紅龍旗を目標に動き出した。主将であるザルーツを落ち延びさせるために。
……青い月があしらわれた旗の下で、痩身の青鎧が戦況を見つめている。彼の視野の中にいる赤備えの者達にとっては絶望的な状況のはずだが、それでも戦いつつラーシャ領方面への撤退を試みていた。
何段階にもわたって虚を衝いたはずなのだが、それでも総崩れに陥らず組織的に動いているさまに、隣に控える従士が感嘆の声を発した。
「崩れませぬな。腐っても統率のラーシャというところですか」
「なあに、雑兵のラーシャとのもう一つの通り名の方が実情に即しているさ。結局のところ、連中は戦局を打開できる存在を持っていない。過分な評価を得ているに過ぎん」
応じる声は、どこか楽しげである。従卒は、黙礼して賛意を示した。
「さて、もう一方にも同様の仕掛けをするとしようか」
彼が視線を向けた先には、ビズミットが率いる軍勢が進軍しているはずだった。
「追撃して、地峡辺りに伏兵を配置すれば壊滅させられそうですが、よろしいのですか?」
「彼らには生き残って、我らの強さを喧伝してもらわなくてはならん。またとない好機だ。徹底的に活用させてもらうとしよう」
主君の言葉に、従士はまた黙礼した。ゴブリンと連携した騙し討ちを、彼らがどう表現するかは想像がついたが、それを口にして上位者の機嫌を損ねる必要はない。
上機嫌なベルーズ伯爵は、馬を西方へと走らせる。次の襲撃は、町の防壁も絡めて行う予定だった。
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