(42) 逃避行
逃避行は、ドワーフの冒険者であるクオルツが先導する形で、避難民のうちの戦えそうな者達が先陣を切った。
ゴブリン達に気づかれぬうちの出立が理想だったが、さすがに人数が多いだけにそれはかなわなかった。サスケと俺が中心となり、接近する群れを退けつつの旅路となっている。
最後尾で追撃を防ぐ殿の役割は、俺とサスケの他、ドワーフの族長ナクトルムと移住反対派で俺を目の敵にしているネリックらが務めていた。態度はともかく、腕は確かであるようだ。
「おい、あれは何だ」
ドワーフの一人がすっかり暗くなった森の一角を指差すと、程なく斥候役が戻ってきた。武装した兵の集団は特徴的な青鎧を身に着けているようで、伯爵の手勢らしい旨の報告が為されると、ネリックが色めき立った。
「ベルーズ伯爵がゴブリン共を討伐するのなら、柔風里を離れる必要はないじゃないか。全員で戻ろう」
「いや、その可能性を含めた討議の末に移住を決めたからには進むべきだ」
「貴様に何の権利があって……。まあ、いい。儂らは伯爵勢に合流するぞ」
勝ち誇った表情で言い捨てたネリックが、周囲の者達に何事かを告げる。最後尾にいたのは、彼と同心する者達がほとんどだったようで、あっさりと構成された集団が来た道を引き返していく。ほとんどがドワーフだが、犬人族の姿も見える。
どうやら、未練が影響して後方にいたということらしい。俺は、ドワーフの族長に問いを投げつけた。
「いいのか? 幾つもの村を蹂躙させたままにしていた伯爵が、頼りになるかどうかは疑問だが」
「所詮、だれもが自分の見たいものしか見ないのさ。……先行した者達が心配だ。進もう」
「ああ……」
言葉とは裏腹に、族長は心配げに後ろを振り返りつつ歩いていく。
数十分が経過しただろう頃、離脱した亜人たちは豆粒ほどの大きさになるほどに遠ざかっていた。
「そろそろ接触するな。……あちらにいるのは、ゴブリンか」
「あー、逃げてるな」
遠方に見える、先ほどまで逃避行を共にしていた者達が、ゴブリンと伯爵の手勢らしき青鎧の軍勢に挟撃されているようだ。さすがに距離がありすぎてどうにもできない。
そして、亜人らの影が見えなくなったところで、襲撃は終了したようだ。やはりと言うべきか、ゴブリンと人間とでの戦闘は生じていない。
ドワーフの族長ナクトルムは、がっくりと肩を落としている。だが、あそこで同道したり、近くで様子を見守ろうとの決断をしていたら、全滅の憂き目にあっていたかもしれない。俺はかけるべき言葉を見つけられずに、前を向いた。
そこで、伯爵勢の動きを知らせようと脳内通話でセルリアを呼び出すと、少しお待ちをとの言葉と、余裕のない雰囲気が伝わってきた。嫌な予感が胸中を埋め尽くしたが、どうしようもなかった。
◆◆◇ベルーズ伯爵領・エルフの集落◇◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
フウカの手の中で聖剣が悲鳴じみた音を立てる。それほどまでに、魔王らしきゴブリンによる漆黒の影を描く斬撃は重く鋭かった。
後方にちらりと視線を送った彼女は、白エルフ達が逃げていく姿を確認すると、ゆるく息を吐いた。元より牽制が目的だったにしても、はっきりと感じられる実力差からして、長く打ち合うのは無理そうだ。フウカはそう理解していた。
ロード級を複数従えた魔王らしきゴブリンは、少し藪睨み気味の目で去っていくエルフたちを凝視している。口元は皮肉めいた笑みにも見える角度で曲がっているが、フウカにはその意味は読み取れなかった。
代わりにというわけではないが、彼女の関心は魔王ゴブリンの右頬の傷に向けられていた。この魔王に手傷を負わせられるのは、どういう存在なのだろうか。翠眼の少女は、油断なく剣を構えながらもそう訝しむ。
実際のところ、フウカの剣先は一度も魔王級ゴブリンの体表を捉えられていない。一方の彼女の身体には、数合に一度の割合で軽くもない傷が増え続けていた。
逃げ出した者が安全圏に到達するまでには、まだ時間が必要である。犠牲を最小化するために為すべきは何か。聖剣の柄が、覚悟を固めた小さな手によって強く握りしめられる。
その時、彼女の両脇を影が通り過ぎた。顔見知りの三人、ダークエルフの女性二人と忍者の男性一人が、魔王級ゴブリンに挑みかかる。先日の慰労会で、同じ料理をつついた三人組である。
「ここは任せて」
細い目のダークエルフが、殊更に軽やかな口調でフウカに声をかける。
「無理よ、下がって」
剣を交えたからこそ、このゴブリンに彼らではどうにも敵わないのが彼女にはわかる。けれど、それは増援の三人にしても承知の上であった。
「下がるのはあなたです。来て」
翠眼の少女の手が、近づいて来ていたセルリアによって強く引かれた。
「ダメだってば、彼らでは……」
振りほどいた勇者の卵の頬に、ダークエルフの統率役による平手打ちが炸裂する。瞬間、フウカの動きが止まった。
「彼らは、身を捨ててあなたを逃がそうとしているの。稼げる時間は少ない。無駄にしないで」
呆然とした少女の手を握ると、肩の抜けそうな勢いで引っ張る。そうされると、状況を完全には理解しないままにせよ、抵抗はせずにフウカも走り出した。その背後に向けてルージュによる苦し紛れの火焔魔法が放たれる。
「セルリア様。フウカのことを、そして始末をお願いします」
ちらりと後ろを見て、色黒のダークエルフの女性射手が声をかける。セルリアは、唇を噛みしめるしかない。
近接戦闘に長けた男性忍者は、こんなときにも清々しく朗らかな表情で大柄なゴブリンと向き合っている。
愛らしい風貌の色黒の弓使いは、時間稼ぎと割り切っているのだろう、矢の残数を気にせずに速射を重ねていた。
そして、剣と魔法をこなす細目の黒エルフは、退いていく親しい存在への道を塞ごうと、他のゴブリンを牽制すべく動いている。
三人の顔には、それぞれの覚悟があった。
しばらく走ったところで、足を止めたセルリアが背負っていた弓を外して構える。その間、三人は息の合った連携力を発揮し、実力差のある相手の前で倒れずにこらえていた。あるいは、女性が含まれているのも影響していたかもしれない。
番えられた矢が、距離のある戦場に向けて放たれた。続けて三度。
狙いは違わず、射手の同僚達の身体に矢が突き立つ。
心臓を貫かれた忍者の男性は、笑みを含んだ表情のままで魔王級へと最後の一太刀を繰り出した。
首を貫かれた色黒の女性ダークエルフは、頼れる上司と親しみを抱く少女に視線を向けて、なにごとかを呟きながらゆっくりと地に倒れた。
もうひとりの女性黒エルフは、射抜かれた肩の矢傷が浅いと見たのだろう。渾身の水撃魔法を放った後に、自らの首にクラフトによって仕立て直された小太刀を突き立てた。
その頃までには、リミアーシャの雷撃魔法によって、先ほどの火焔魔法が引き起こしつつあった森林火災が勢いを増していた。炎が照らす中で死にゆく三人の姿は、フウカの翠色の瞳にしっかりと焼き付けられた。
哀惜の言葉を呟くと、セルリアは再び勇者の卵の手を取って走り出す。今度は抵抗なく、フウカもついてくる。
「撤退戦の殿は、ここで命を捨てるよりもよほどの難事です。あなたに、それができますか?」
「……やる」
その言葉に含まれる覚悟を読み取って、灰色の髪のダークエルフは仲間達の死が及ぼす影響の強さに恐怖した。三人の選択が自発的なものだったのは間違いない。けれど、そう仕向けた側面があるのもセルリアは自覚していた。
「この娘を生かして、タクト様の元へ帰らせます。そのためには……」
黒エルフの統率者が、死地に追いやった仲間達に誓いを立てる。その声音にも覚悟の響きがあった。
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