(106) 伯爵の命令と令嬢の命令
◆◆◇霧元原・デルムス伯爵領外縁◇◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「おう、勇者様よ。これじゃ、持ちませんぜ」
「ああ、後退しよう。突破されたら、伯爵領も危なくなる」
ルーシャルはそう応じて、配下の者たちに撤収の合図を発した。そうなると、盗賊や戦闘奴隷上がりの者達だけに、あっさりと離脱していく。殿軍は、自然と勇者が受け持つ形となった。
西方から進出してきた天帝騎士団や侯爵勢、魔王勢らの連合軍が、神聖教会領に入って防備を固めているのはルーシャルらも把握していた。となれば、アンデッド魔王の後背は脅かされていないことになる。
その展開を踏まえてか、混成魔物軍は北の伯爵領方面に大攻勢をかけてきていた。北側を制してから、アンデッド魔王との決戦に持ち込もうというのだろうか。だとすると、デルムス伯爵の方を与しやすいと判断したわけだ。
これまで、勇者ルーシャルとその手勢が両魔王を敵に回して押し気味に戦えていたのは、出現場所が予想しづらい一撃離脱戦法だったためが大きい。まして、妖精魔王の勢力範囲近辺で人の住む集落は、特に魔物に守られていたわけでもなかったところを、勇者勢力に襲撃される場合も多かった。
守勢に回って、しかも多方面から一気に攻勢をかけられてしまえば、数十人で凌げる道理はない。彼らにできるのは、デルムス伯爵に急報して、出陣するように働きかけることだけだった。
いったん振り切ってしまえば、身軽な勇者勢の行動は素早い。伯爵領に入ると、まっすぐに居館に向かう。そうできるだけの立場を、ルーシャルは築いていた。
急を告げれば、門衛達も止めようがない。伯爵の執務室へ単独で向かったルーシャルを、家宰補佐が制止しようとした。
「今はいけません。来客中なのです」
「魔王が攻めてきている。悠長に待っていられる場合ではないぞ」
冷静な口調でそう詰め寄られて、伯爵の家臣は道を開けた。来意を告げながら、勇者が扉を開ける。
「閣下、魔王の軍勢が大挙して攻め込んでまいりました。すぐ、出陣を……」
そこでルーシャルは、慌てた様子の伯爵の向こうに、蛇に似た瞳をした白鎧がいるのに気づいた。
「伯爵閣下? その者は、既に報告した通り魔王と連携する、打倒すべき相手です」
剣を抜いて、勇者が一歩を踏み出す。ジオニルは立ち上がると、油断なく身構えた。
「待て、天帝騎士団とこれ以上ことを構えてはならん。魔王から所領を守るためには、彼らの力を借りねばならんのだ」
「物見の報告によれば、天帝騎士団は星降ヶ原の魔王と共に進軍していました。討伐すべきです」
諭すような口調に、伯爵のひげがひきつるように動いた。
「ふざけるな。貴様は我が命令に従っていればいいのだ。攻めてくる魔王を倒すためなら、他の魔王と連携して何が悪いっ」
問答に隠れるように、東方鎮撫隊の副長はそろそろと扉の方へと近づいていた。
「命令に従えばよいのですな」
「ああ、儂の命令に従え」
そのとき、扉が開いた。まだ幼さの残る侍女見習いが、盃を載せた盆を持って入室してくる。その背後を、ジオニルがすかさず通り過ぎる。
彼女が目撃したのは、伯爵家の当主が勇者によって斬り伏せられる情景だった。
「な、なぜだ……」
「ご命令に従ったまでです」
ルーシャルの口調に、迷いの気配はなかった。
盆を取り落した幼い侍女は、気丈にも逃げ出さずにその場に留まっていた。
「どうして……、どうしてこんなことを」
少女の震える声での問いに、ルーシャルは悠然とした表情で応じた。
「伯爵は魔王との連携をすると明言された。魔王と手を結ぶ者は皆殺しにせよというのが、伯爵の命令だ」
「伯爵様の命令で、伯爵様を殺されたのですか?」
「そういうことになるな。何も間違ってはいないだろう? ……そうか、こうなると、伯爵家の者達を皆殺しにしなくてはならないな」
侍女は、そろそろと後ずさり、廊下に出ると駆け出した。
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◆◆◇デルムス伯爵の居館 リモネアの居室◇◆◆◆◆◆◆◆
窓から勇者一行の帰還を目撃したリモネアは、なにごとが生じたのかと気を揉んでいた。デルムス伯爵の娘である彼女は、故郷が魔王に荒らされながら、その対応を勇者と目される人物に任せている父親の対応に否定的な考えをいだいていた。ただ、勇者に期待をかけているのは、他の家臣と同様だった。
そこに駆け込んできたのは、幼い侍女だった。
「姫様、たいへんです。勇者殿が、お父上を殺害されました」
一瞬、リモネアはその言葉の意味合いを把握できなかった。やがて語意自体は理解したが、すぐに得心には至らない。ただ、その侍女が虚言を吐くような存在ではないと、彼女はよく知っていた。母親も侍女だった彼女は、さらに幼い頃からこの居館で育ってきたために、半ば家中全体の娘であるように扱われている。
落ちつくようにと指示しながら、どうにか自分を落ちつかせて、リモネアはより詳細な報告を求めた。混乱しているのか、説明はややたどたどしいものとなった。
「父上の命令に従って、父上を殺したということ?」
「ええ。何も間違っていないだろうと……。そして、伯爵家を皆殺しにしないといけないのかな、とも」
震えた声での答えを聞きながら、彼女は暗然たる思いにとらわれていた。本来なら、魔王と連携する者を殺せと求めた伯爵が、魔王と連携すると表明したのなら、当初の命令は撤回されたと考えるだろう。
だが、そうせずに、当初の決めごとの通りに行動するという発想を、リモネアは全否定できなかった。彼女の兄が、そういう気質の持ち主だったからである。
現に、本来は伯爵家の後継ぎである彼女の兄は、二年前に父親から飼い猫を見つけるまで戻るなと言われて、未だに帰宅していない。父親の指示を忠実に守っているのだろう。
勇者ルーシャルの性格は把握していなかったが、魔王と連携する者を殺すようにと求められ、魔王勢力下で身を潜めていた者達を皆殺しにしたとの話からして、類似性が感じられる。
「わかったわ。なら、家宰に話して、伯爵家の家臣の全員を解雇して、居館から離れるように指示を出してもらって。伯爵家との関わりを絶てば、逃げられるはずだから」
「ダメです。まずは姫様が逃げなくてはいけません。若様の所在が不明な今、跡継ぎはリモネア様しかいないのですから」
「勇者の力は知っているでしょう? 家臣が束になって挑んでも、敵うかどうか。そして、勇者を倒したとして、魔王たちに対抗できる力は残っていないでしょう。他のみんなの命を、あなたに預けるの。だからお願い」
「でも……、でも、姫様は伯爵家との関わりを絶てないじゃないですか」
「デルムス伯爵家の代表として、貴女に命じます。指示を実行に移すのです。今までありがとうと、家宰から伝言してもらうようにお願いして」
涙ぐみながら抱きついてくる侍女の少女の頭を、優しく撫でる。彼女は比較的長身で、侍女の少女の頭頂部は胸に届いていない。どうにか彼女を送り出して、リモネアは父親の執務室へと向かった。やるべきことは、まだ残されている。
と、廊下の向こう側から歩いて来たのは勇者ルーシャルだった。
「これはリモネア様。父上が亡くなられました。お悔やみ申し上げます。そして、あなたも間もなく……」
「話は聞いたわ。わたしは、デルムス伯爵の後嗣として、総ての家臣を解雇しました。今頃、家宰から皆にも伝わっていることでしょう」
「そうですか……。ならば、彼らは討伐対象とならないわけか」
つぶやくような言葉は、リモネアを恐怖させた。
「父がどのように父の命令によって殺されたのか、貴方の口から改めて聞かせてもらってもいいかしら」
「承知しました。……デルムス伯爵は、魔王と通じた神聖教会領の討伐を妨げる天帝騎士団の東方鎮撫隊副長と接触し、星降ヶ原の魔王と連携している天帝騎士団に助力を求めると明言されました。魔王と連携する者は皆殺しにするように、との命令の対象に明らかに該当します」
「そうなのね。その伯爵家に、領民は含まれる?」
「当然、含まれます」
「いいえ、それは違うわ」
リモネアの冷静な口調での断言に、勇者が一瞬戸惑いの表情を浮かべた。
「……なぜです。伯爵家と領民は、一体の存在でしょう」
「領民は、伯爵家の所有物に過ぎません。天帝騎士団との連携を試みたのは、父であるデルムス伯爵家の当主です。その伯爵は貴方に討たれました。この先、デルムス伯爵家が滅びれば、主家を失った領民は、誰のものでもありませんから、関係がなくなります。そうでしょう?」
「……仰る通りですね」
「先ほども告げた通り、家宰に彼自身も含めた全員の解雇処理を命じました。彼らはもう、伯爵家の構成員ではありません。最後の一人は、わたしです。ですから、わたしが死ねばデルムス伯爵家は消滅します」
「ええ、あなたの言は正しい」
ゆっくりと、ルーシャルが聖剣を抜き放った。炎に似た黒い影が、刀身から湧き上がっている。
自分を殺した後、この勇者はどうするのだろう。覚悟を固めたリモネアは、穏やかな心持ちで未来に想いを馳せていた。
自らが殺めた存在の命令を守って生きていくのだろうか。そうだとするなら、魔王とその連携勢力の討滅を目指すのだろう。
父の命令に「魔王に従っていても人間は殺してはいけない」との一節が付加されていれば、未来は違ったものになっていたはずだ。だが、取り返しはもうつかない。伯爵令嬢は、ゆっくりと目をつむった。
と、腹に柔らかな衝撃が走った。なにごとかと目を開けると、家宰のところに向かわせたはずの侍女が取りすがっているのが見えた。
「どうして戻ってきたの。解雇したのだから、貴女はもうデルムス伯爵家の人間ではないのよ」
「あたしは、姫様のものです。一人で死なせはしません。……勇者様。どうか、姫様の最期の願いを叶えてあげてください。領民の人たちを、魔王から守ってください」
まだ幼い侍女が伯爵令嬢にすがりつく姿を目にして、勇者の表情は固まっていた。その姿が、彼の脳裏で亡き妻と娘に重なっていた。
ルーシャルの規範意識は、この二人を、少なくともリモネアの方は殺さなくてはならないと告げている。
だが、彼の想いは……。
ルーシャルの耳朶に、妻の声が聞こえてきていた。もう、あなたは本当に融通が利かないんだから。でも、そんなところが……。
そして、娘が彼を弁護する声も重なる。
聖剣を持ったまま座り込み、頭を抱えて苦悶の声を発する勇者を見て、侍女が携えてきた短刀を取り出した。
「姫様、どうされます? 自害されるのでしたら、お手伝いしますが」
「いいえ。伯爵家の最後の一人として、殺される必要があるのです。彼の正義の中で、解雇されたあなたは討つべき対象とはならないはずです。今からでもお逃げなさい」
「だから、姫様を一人で死なせられないですってば」
思案顔のリモネアは、どうすればこの親しい存在を生かせるのか考えていたが、やがて苦笑を浮かべた。自分が死んで一人だけ生き残ったら、この子はきっと自死するだろう。それならば、このまま二人で殺された方がいいのかもしれない。
そう考えながら、ルーシャルを見やると、頭を抱えたままでなにやらブツブツとつぶやいている。
「あの……、貴方、だいじょうぶですか? わたしの命は差し上げますから、魔王によって苦しめられる人を減らしてあげてくださいね」
かけられた言葉を咀嚼して、勇者はゆっくりと立ち上がった。
「魔王に与する天帝騎士団と連携しようとしていたのは、今は亡き伯爵です。考えてみれば、娘のあなたには関係ない。もちろん、その侍女にも。あなたは、あなたのやり方で民を守ってあげてください」
「よろしいのですか?」
そんなはずはない。この人物が兄と同様の考え方の持ち主であれば、そのような発想をするはずがない。心底不思議に感じながら、リモネアが勇者を見つめる。
「よいのです」
そう応じた時、ルーシャルの視界に映っていた二人には、亡き妻子がうっすらと重なっていた。
彼は自分が狂ってしまったのかと恐怖しつつも、愛しい存在の気配に再び触れられたことを神に感謝していた。
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