(103) 令嬢と加護
◆◆◇霧元原・デルムス伯爵領◇◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
霧元原北方の要地の中央部に位置するデルムス伯爵家の館では、穏やかな時間が流れていた。
ただ、その館の中で令嬢として扱われているリモネアの表情は陰っている。この地には二つの魔王勢力が存在しており、地域の三分の二ほどが事実上両勢力の影響下に入っている。
特に中央部に存在する方の魔王は、南部のアンデッド主体の勢力と異なり、周辺住民を虐げ、ある者は殺し、ある者は強圧的な支配下に置いているとの話だった。
デルムス伯爵家はその魔王勢力に対して、現状では有効な対応を行えていない。まったくの無策というわけではなく、勇者に攻撃を命じてはいるものの、討伐には至っていない。
魔王がこの地に現れた当初、デルムス伯爵は手勢を率いて魔王勢と衝突し、撃退に成功した。そう、撃退であって、討伐ではなかった。緒戦での人的損害に驚いたリモネアの父親は、自領の防衛に専念するように方針を転換し、周辺の小領主や他家の荘園を事実上見捨てたのである。
デルムス伯爵家がこの霧元原の筆頭諸侯として優遇されてきたのは、いざというときの戦力供出のためであり、それに見合うだけの所領を与えられてきた、というのが歴史的事実である。それならば、この状況下では諸侯を糾合して、あるいは他地域の諸侯とも連携して、魔王軍に立ち向かうべきではないのか。
そう考えると、リモネアを包む愁いは晴れない。とやってきた侍女が心配げな視線を向けてきた。
「姫様、なにか心配事でしょうか」
幼さの残る新米侍女の言葉に、伯爵令嬢は表情を緩めた。
「なんでもないのよ。ちょっと、魔王について考えていたの」
「そうでしたか……。ルーシャル様が討滅してくれるとよいのですけれど」
ルーシャルとは、この地に出現した勇者の名である。腕は確かなようで、たびたび魔王軍に痛撃を与えているようだ。だが、痛手を受けているのが魔王だけでないのがまた、悩ましいところとなる。ただ、その危惧を幼い侍女に告げても、意味はあまりない。
「そうね、そうあってほしいわ」
微笑んだリモネアは、お茶の杯を手に取った。自らの表情一つで、自家の者たちの胸に不安を招いてしまうのだと改めて実感しながら。
「あの……、若様はどうしておられるのでしょうか」
家中での不安は、期待となって兄に向かっている。その認識はあったが、改めて幼い侍女の口から話が出ると、やるせなさがリモネアの胸中をたゆたう。
「まだ、父の言いつけどおりに猫を探しているんでしょうね。こんなとき、いてくれたらとても頼りになるのだけれど」
姿を消した飼い猫を探しに行くようにと命じられた彼女の兄が、領内から姿を消して既に二年ほどが経過している。自領を出て、霧元原の南方を巡った後は、どちらに向かったのか家中の誰も把握できていない。
父の言いつけを守って猫を探し続けているだろう兄ならば、デルムス伯爵家の本来の役割を愚直に果たそうとするのではないか。リモネアは、ついそう考えてしまうのだった。
幼さの残る侍女は、何かを口にしかけて思いとどまった。伯爵家の中には、当主への不信感が渦巻いている。それは当然、伯爵令嬢たるリモネアにも感じられていた。
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潜龍河沿いの街道を通って、軍勢は霧元原へと入っていく。天帝騎士団、ブリッツ勢、ラーシャ勢の独立部隊が広がるように動き、後方からラーシャの戦列とフウカ一党が続くのが基本的な陣立てとなる。
当然ながら、最前方にはサスケ率いる我が斥候隊と、シャルロットの忍群とが配置され、丹念な偵察を実施した。
最初の会敵は天帝騎士団と混成魔王軍となった。ブリッツ一味とルシミナ隊とが側方に回り込み、隙間からフウカ一党が仕掛ける展開が想定された。
それらの各軍勢には、俺の名付け済み配下を受け入れてもらっているので、偵察結果の把握も含め、リアルタイムに近い意思疎通が可能となる。中継役の俺さえ混乱しなければ、だが。
一方で、ラーシャの戦列隊とは連絡手段が限られ、情報伝達面では置いてきぼりを食わせる形になる。まあ、それは仕方ないよな? ジオニルの別働隊は、そもそもが単独行動となっていて、伯爵領へと向かっていた。
天帝騎士団主力に付いている忍者からの報告によれば、敵はゴブリン、オーク、オーガの混成部隊で、上位種も見られるものの、キング級の個体はいなさそうだ。オーガとは初対戦となるが、鬼に近いという見かけで識別できそうだ。
そして、戦闘中に各騎士の行動が妨害されるような動きがあり、意外と苦戦しているという。
俺は、周囲の面々に問いを投げてみた。
「何やら戦闘中に邪魔をされているらしいんだが、なにが起きているか、だれか推察できるか? 確かさは必要ない」
「でしたら、加護の逆魔法の可能性がありますね」
応じたのは、光の精霊であるヒナタだった。ソフィリアの肩に腰を下ろしているのは、居心地がいいのだろうか。
「デバフってことか。どうも、個々人にかかっているようなんだが」
「集団全体にかける場合もありますが、個別にかける方がより効果が強くなります。ぼくは苦手ですが」
「逆加護なら、あたしの方が得意よ」
飛んできたホシカゲが誇らしげである。どうやら、相手のなんらかのステータスを下げる逆加護は闇の範疇で、味方に助力する加護魔法は光の範疇のようだ。
「対抗策はあるか?」
「逆加護でしたら、魔王城でソフィリア様がかけておられたような光の精霊加護をかけておけば、抵抗力が増します」
「かけましゅか?」
ソフィリアが小首を傾げて、判断を仰いでくる。
「いや、それを含めてもひどい戦況ではないようだ。むしろ、こちらの突撃隊にかけてもらおうか」
「突撃するの? なら、私も出ていいわよね」
フウカの声音は、落ちついた響きとなっている。
「ああ。コカゲ率いる前衛と合流して、一気に仕掛けよう。魔法を得意とする魔王相手なら、速攻をかけた方がよさそうだからな。トモカ、それでいいか?」
「んー、そうですね。ソフィリアは加護をかけた後で、モノミと合流する形がよいでしょう」
「ああ、サスケには逆方向から仕掛けてもらおう。……フウカ、ペリュトンはどうする?」
「単独で先行しても意味がなさそうだから、今回は留守番かな。ソフィリア、お願いね」
「承知したのでしゅ」
コカゲとの調整を経て、フウカ、アユム、俺を中心にした突撃部隊が編成された。確認されている最上位の個体が出てきていないからには、相手としても小手調べのつもりなのかもしれない。こちらも狼騎兵、地竜騎兵は出さずに、まずは徒歩での突撃を見せておくとしよう。
「フウカ、魔法は加護系だけじゃないかもしれない。油断するなよ」
「うん、タクトも気をつけてね。行ってきまーす」
明るく言い残して、フウカは先陣に立つために駆け出していった。