第8話 その気ってどの気
――やりすぎたあ……。
朝、学校へ向かう緩い坂道を歩きながら、俺は今日何度目かも分からない大きなため息をついた。
公園での一件があって以来、犬飼さんからの連絡がない。用事がなくても、まるですぐそばで雑談でもするみたいに頻繁にメッセージを送ってくれていたのに、日曜と祝日を挟んで丸二日以上、彼女からの着信で俺のスマホが鳴ることはなかった。
あれが無関係だとは思えない。
あれは犬飼さんのほうから望んだことだ。しかし、あそこまで彼女は望んでいただろうか。深い意味はなく、本当に『手が塞がっているから飲ませてほしいだけ』だったのではないか。
それを、まるで奴隷に慈悲を与える主人かのように、俺は振る舞ってしまった。彼女を雑に扱い、傷つけてしまった。
「あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛……!」
後悔と懊悩に思わずうめき声が出た。
前方を歩いていた女子が恐怖に青ざめた顔で振りかえる。
「あ、これは違くて――」
俺の言い訳など聞かず、彼女は走って逃げていった。
――嗚呼……。
本日のため息数が加算された。
「おはー」
「あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛!?」
とうとつに肩を叩かれ、俺は叫び声をあげた。
「ど、どうしたの?」
振りかえると、そこには目を丸くした犬飼さんが立っていた。
「あ、あ……」
なにかしゃべらねばと思うのだが、焦れば焦るほどなにも出てこない。
「言葉忘れちゃった?」
犬飼さんはくつくつと笑う。
その笑顔にはなんの曇りもないように見える。先日のあれなんてなかったかのように。
だからこそかえって彼女に気を遣わせてしまっているのではないかと恐縮してしまい、ますますうまく話せなくなる。
「ってかこれ見て」
指で髪をかきあげて、耳を俺に見せる。耳の外縁にステンレスのアクセサリーが巻きつくようにつけられている。
「ちょっと気分を変えてみようと思ってさ。逆によくない?」
――逆……?
まず順のほうをよく知らないのだが。
「う、うん。いいと思う。そのピアス」
すると犬飼さんがパチンと俺の肩を叩いた。
「ちっがーう! ピアスじゃなくてイヤーカフ。だから逆って言ったじゃん」
「ピアスの逆、イヤーカフ。覚えた」
「なんで片言?」
と、けらけら笑う。
いつもよりテンションが高い。あるいはこれも空元気なのではないか。
――駄目だ、どんどん悪いほうに考えてしまう……。
終始、俺はマシンガンのようにしゃべる犬飼さんに豆鉄砲しか返せなかった。
体操服姿の犬飼さんがジャンプする。ポニーテールにした髪がふわりと揺れた。高く伸ばした両手からバスケットボールが離れ、宙空に弧を描き、ゴールに吸いこまれた。
わあっとあがる歓声。チームメイトとハイタッチ。弾けるような笑顔。
体育の時間、犬飼さんは超がつくほどの大活躍だった。
ぼうっと観戦していた俺を指さし、歯を見せて笑う彼女。
思わず目をそらしてしまう。
ちょっとキザな言い方をすれば――。
――まぶしすぎるっ……!
今日の犬飼さんは朝も、授業中も、休み時間もずっと、いつも以上に活き活きしていた。空元気、ではないように見える。
ということは。
――二日間、俺と接触を断ったから、エネルギーがチャージされたのでは……。
「あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛、あ゛」
ネガティブな考えを打ち消そうとあげたうめき声に、近くにいた男子がびくりとなった。
「ど、どうした桝谷」
「いや、あの……、痰がからんだ」
「じいさんみたいだな。お大事に……」
本日一でかいため息が出た。
全授業が終わり、俺は席を立った。この劣等感を忘れさせてくれるポジティブな名言集でもないかと図書室に寄ったがめぼしいものはなく、すごすごと退散する。
玄関へ向かう廊下で犬飼さんたちが談笑していた。俺はなんとなくいたたまれない気持ちになり、迂回して学校を出た。
誰もいない交差点の信号で立ち止まる。
またため息が出た。俺ひとりでこの街のCO2排出量を高めてしまっている。脱炭素が叫ばれている昨今だというのに申し訳ない気持ちになり、なおさら深いため息が出た。
信号が青になり、俺はとぼとぼと歩きだす。
その瞬間――。
「げぼぇ!?」
何者かにシャツの襟首を引っぱられて喉が締まった。
呼吸困難になり、俺はしゃがみこんで咳きこむ。今日はよく奇声をあげる日だ。
「な、なにするん――!」
犯人に抗議してやろうと振りかえると、そこに立っていたのは犬飼さんだった。
腰に手を当て、仁王立ちし、俺を見下ろしている。
「あ、ああ、犬飼さん。ご、ごきげんよう」
「全然ごきげんじゃないんですけど」
眉をつり上げてにらみつけてくる。
――こ、怖え……!
顔立ちが整っているから怒るとめちゃくちゃ怖い。憤怒のオーラで背景が歪んで見るような気さえする。
「桝谷、なんか今日おかしくない?」
「そ、そう? 俺がおかしいのはいつものことだろ」
「それはそうだけど」
――否定してくれ……。
「じゃなくて、わたしのことシカトしてたよね。体育のときも、さっきも」
「そんなこと……」
――なくもない。
そのつもりはなかったが、犬飼さんからすればそう見える行動をとってしまっていたかもしれない。
「でもあれは違うんだ」
「なにが」
「あれは、犬飼さんが……、その……。――まぶしかったから」
「わたしが、まぶしかった……?」
犬飼さんは真顔になった。
「え、きっつ」
「口さがなさすぎない?」
「似合わなさが極まってる」
「そんなに」
「意味分かんないんだけど」
説明するのも恥ずかしくて、俺はぼそぼそと言う。
「……なんか、いつもより活き活きしてるというか」
「それが『まぶしい』?」
俺は頷いた。
「だから俺がそばにいないほうがいいと思って」
「なんでそうなるの」
犬飼さんは難しい顔をした。俺の口はさらに重くなる。
「……二日間、やりとりがなかったから、それで元気になったのかなって……」
「はあ?」
「だってこの前、傷つけちゃっただろ。公園で、その……、変な感じになって……」
思いだしたのか、犬飼さんの頬にさっと赤みがさす。しかしすぐに「おや?」というような表情になって言った。
「傷つけたって、誰が誰を」
「……俺が、犬飼さんを」
「……」
犬飼さんは眉根を寄せた。
「なに言ってんの? べつにわたし傷ついてないけど」
「でも、休みのあいだ音沙汰なかったし」
「ああ……」
犬飼さんは得心したように頷き、おもむろに鞄からスマホをとりだして俺に見せた。
「……なに?」
「なんか気づくことない?」
「そういえば……、ちょっと大きい気が」
「それ」
「幻覚?」
「現実!」
と、ケースを外した。
「最新機種~」
背面のリンゴのマークを見せびらかす。二ヶ月ほど前に発売されたばかりの機種だ。
「前のやつ、中学のころから使ってた古いやつでさ、お父さんが新しく買ってくれた」
「なるほど」
それは分かった。
「で?」
「だからー、設定したり、いじったり、遊んだり、眺めたりしてたの」
「……二日間も?」
犬飼さんの頬に赤みがさした。
「いいでしょべつに! 嬉しかったんだからさ!」
「いいけど」
犬飼さんが新しいスマホを眺めてはにまにましている様子を思い浮かべると、なんというか――。
とても、愛おしくなる。
俺ははっと息を飲んだ。
――また俺は、犬飼さんのことをそんなふうに……。
犬飼さんはぶっきらぼうに言う。
「だから、ほんと傷ついたとかないから。むしろ――」
「『むしろ』?」
「え? え~と……」
口にしてから「しまった」という顔をしたが、犬飼さんはしばし考えたあと、決意したように言った。
「癒やされた」
「……へ?」
――癒やされた……?
犬飼さんは渋い表情をして、人差し指でこめかみのあたりを掻いた。
「なんか変なこと言ってるのは自分でも分かってる。でもそうとしか言えないっていうか」
「でも、あれのどこに癒やしの要素が?」
「前にプールに飛びこんでたでしょ」
「むしゃくしゃして、だっけ」
「そう――なんだけど、どっちかっていうと飛びこむことそのものより、水のなかで、じっと息を止めることのほうが大事だったっていうか」
俺がよほどいぶかしげな顔をしてのだろう、犬飼さんは説明を加える。
「息を止めるでしょ。それってふだんより一歩『死』に近づくってことじゃん」
――なんか不穏なことを言いだした……。
「でも、だからかえって生きてることを感じるっていうか……。それと同じで、誰かに身を委ねると、すごく……、不安だけど、安心するっていうか……」
と、自信なさげな目で俺を見た。
「――分かる?」
犬飼さんの言葉にしてはまとまりがなくて、たどたどしくて、力がない。
でも――。
「分かる」
俺がそう返事をすると、犬飼さんはぱっと顔を明るくした。
「ほ、ほんと?」
「ああ。つまり犬飼さんは」
俺は考えを口にした。
「マゾ」
犬飼さんの長くしなやかな脚が俺のふとももをしたたかに蹴った。
「あぐんっ!?」
「ざっくりまとめんな!」
「まちがってはないだろ!」
「まちがって――はないけどぉ……!」
と、耳まで赤くする。
「恥ずかしいじゃん……!」
「でも、俺そういうの気にしないし」
「知ってるけど……」
――知ってるのかよ。
というかなぜ知られてるんだ。
「ほかにも言いようがあるでしょ」
「どんな?」
「スリルが好きとか」
「スリルね……。犬飼さんさ、辛いもの好きでしょ?」
「好きだけど」
「ジェットコースターも」
「う、うん」
俺は吹きだした。
「なんで笑うの!?」
「分かりやすいから」
「好きなんだからしょうがないじゃん!」
「べつに駄目とは言ってないけど。――でもさ、それなら水のなかで息を止めるなり、スポーツでぎりぎりまで追いこむなりすればいいんじゃない? 俺である必要はないよな?」
「桝谷じゃないと駄目!」
「どうして」
「それは……」
大きな瞳をきょろきょろさせる。
「桝谷が……、桝谷と一緒にいるときが、一番、刺激的だから……」
「ふうん」
興味がなさそうに鼻を鳴らしてみたが、内心、嬉しさで震えていた。
――俺が犬飼さんにとっての『一番』……!
「と、とにかく! わたしが傷ついてないってことは分かってくれた?」
「ああ」
「それで、さ」
犬飼さんは指をもじもじさせる。
「なに?」
「えっと、ね」
ついさっき見事なローキックを放った人物とは思えない、しおらしい態度だ。
「あの……、できれば……、また……。ね?」
そして、ちら、と俺を見る。
その仕草に俺の胸が甘く締めつけられる。
犬飼さんが望んでいることはすぐに分かった。しかしすでにスイッチの入った俺は――。
「『また』、なに?」
わざと分からないふりをした。
「え? わ、分かるでしょ?」
「ちゃんと言ってもらわないと分からない」
「……」
犬飼さんは大きな目をきょろきょろさせた。
「また……、あ、ああいうのを……」
「『ああいうの』って?」
「だから、ああいう……。わたしを、その……」
つらそうな表情。目が潤み、息も少し荒くなってきている。
犬飼さんはちょっと怒ったような顔で俺をにらんだ。
「ま、前にも言ったじゃん!」
「なんて言ったっけ? もう一回聞きたいな」
「うぅ……」
スカートの裾をぎゅっとつかむ。
「わ、わたしを……、ど……みたいに」
「聞こえないけど」
「だからあ……! ど……、奴隷、みたいに扱ってほしい、っていうか……」
背筋がぞくぞくとした。犬飼さんを抱きしめたい衝動に駆られるが、ぐっと我慢する。そこは俺のほうから踏み越えてはいけない一線という気がした。
「いいよ」
「やった……!」
「けど」
「『けど』……?」
「犬飼さんの心がけしだいかな」
「なんで!? ちゃんと言ったのに!」
「だって、見せてくれるんでしょ? 『忖度力』」
「う、うん」
「頑張ってくれたら、応えるよ」
「分かった……」
犬飼さんは渋々といった様子で了承した。
あくまで犬飼さんの願望に応える形でなくてはいけない。そうでなければ、俺の暗い欲望を一方的にぶつける形になり、歯止めがきかなくなってしまいそうだから。
「なら!」
犬飼さんは挑むような視線で俺を見た。
「わたしの忖度力で『頑張ってくれたら』なんて余裕ぶってられないくらい、その気にさせて見せるから!」
と口にしてから、あわあわと訂正する。
「『その気』って変な意味じゃないからね!」
「いずれにしろ変な意味だろ」
「そうだけど」
そんな気がないのは言われなくても分かってる。俺が犬飼さんに釣りあうわけがないし。
でも――、少し胸が痛いのはなんでだろう。
ふたりで歩く帰り道。俺は頭の片隅でずっと痛みの正体を探していた。