第7話 潤してください
目当ての漫画を手に入れて、俺は書店をあとにした。
暑さを避けるため十四時過ぎに家を出たのだが、まだまだ昼の熱気が残っている。額からは滝のように汗が流れおち、シャツはぐっしょりだ。
毎回わざわざ街の書店まで足を伸ばすのはポイントが貯まるからだが、労力を考えると電子書籍への移行も視野に入れたほうがいいかもしれない。
などと考えながら歩き、周囲の景色がようやく見慣れたものになってきたころ、
「キャンキャン!」
と、犬の鳴き声が聞こえてきた。正面から犬の散歩をしている女性が歩いてくる。俺は邪魔にならないよう道の端に寄った。
するとその女性も同じ方向に寄ってきた。お互いに道を譲りあってこうなってしまうことはよくある。
俺は反対側に寄った。
すると女性も同じほうに寄った。
俺はまた反対に寄った。
女性も反対に寄った。
――なんなんだ。
わざとか?
謎の駆け引きをしながら徐々に女性との距離が縮まる。
アッシュグレーの髪、すらりとしたスタイル。そしてなにより俺を見つめるにやにやとした顔。
「犬飼さん……?」
「奇遇だねー」
「ご、ごめん、気づかなくて。はじめて私服を見たから……」
「ううん、べつに。ほら弁慶、挨拶」
ウェルッシュコーギーの弁慶が「う゛う゛」と牙を剥いてうなった。
「『こんにちは』だって」
「『殺すぞ』って顔だったけど」
「そんなことないよねー、弁慶」
と、弁慶の首を撫でると、先ほどの殺意が嘘のように気持ちよさそうな顔で尻尾を振った。
改めて犬飼さんの私服を見る。
白いキャップに白いノースリーブパーカー。ダメージ加工のデニムショートパンツ。肩にはネイビーのトートバッグを提げている。これに大きなサングラスでもかければ、ファッションモデルのオフコーディネートといった感じだ。
対して俺は、シャツ、ハーフパンツ、でかいリュック。色合いもモノトーンであり、ファッションというよりは目立たないための迷彩に近い。
「そういうのってどこで習うの?」
「え??」
「ファッション」
「どこ、だろう……? インスタとか、ファッション雑誌とか?」
インスタやファッション雑誌など一度も開いたことがない。俺の人生にはまったく無縁のものだった。
犬飼さんは腰に手を当て、笑みを浮かべた。
「それって、似合うってことでいいのかな?」
「うん、いい。めちゃくちゃ似合う」
犬飼さんは少し驚いたような顔をしたあと、
「あ、ありがと」
と、照れくさそうに礼を言った。
「たまにそういう不意打ちするよね」
「不意打ち? ただ似合うから似合うって言っただけだけど」
「わ、分かった、もういいから」
そう言ってキャップのつばをつまんで引き下げた。
俺は改めて自分のファッションに目を落とした。
犬飼さんの側に、こんな地味な男がいていいのだろうか。彼女の作りだすお洒落空間に水を差しているような申し訳ない気持ちになってくる。
「じゃあ俺、行くから」
「あ、待って」
横を通りすぎようとしたところ、犬飼さんが慌てたように道を塞いだ。
「なに?」
「あ、ええと」
犬飼さんはきょろきょろと目を泳がせる。
「用事?」
「そう、それ。用事」
「なに?」
「ん~と……」
と、考えこむ。
――いや、いま考えるのかよ。
やがてなにか思いついたのか犬飼さんの顔がぱっと明るくなった。
「――そうだ。犬は好き?」
「まあ、好きだけど」
「そっか! なら、――はい」
彼女はリードを差しだした。
「え?」
「散歩。してあげて」
「俺が?」
「だって、わたしは弁慶のご主人様でしょ」
「うん」
「で、桝谷はわたしのご主人様じゃん?」
「うん。……はい?」
「ということは、桝谷は弁慶の遠縁のご主人様だから」
「……なるほど」
とは言ってみたものの、本当に納得したわけではない。しかし奴隷云々はすでに受けいれたのだから、いまさら蒸しかえすわけにもいかない。
しかし、彼女自身が飽きたということもあるかもしれないし、もう一度確認するくらいはしてもいいだろう。
「ご主人様というのは、その……、まだつづける感じで……?」
「当たり前じゃん。――あ、そうか。もう一度忠誠を誓えってこと?」
「はい?」
犬飼さんは上目遣いで言う。
「わたしはこれからもずっと、桝谷の奴隷だよ」
「……うん、はい」
飽きるどころか無期限を宣言されてしまった。
俺はリードを受けとる。
弁慶が「ぐる゛る゛……」と、遠縁のご主人様に向かって低いうなり声をあげた。
「弁慶は忠誠を誓ってないみたいだけど」
「ちょっぴり人見知りなんだよね」
――ちょっぴり……?
たいそう嫌われてるんだが。
「どこに向かえばいい?」
「じゃあ公園に行こっか」
「分かった」
俺たちは歩きはじめた。
前を歩く弁慶は十歩ほど進むたび振りかえって、いまにも飛びかからんばかりにガンをつけてくる。
――散歩ってこんなに緊張感あるものだっけ……?
もっと楽しくてのんびりしたイメージだったのだが。
隣を歩く犬飼さんはにこにこして、散歩を満喫している様子だ。
おかしい。序列は俺が一番上のはずなのに、どういうわけか俺が召使いみたいになっている。
弁慶が電柱の根元をふんふんと嗅いだ。
「桝谷、ちょっと止まって。弁慶、トイレみたい」
「え? あ、うん」
「トイレのとき無理に引っぱったらすごく怒るから」
――トイレ関係なくずっとキレられてるんだが……。
もしかするとご主人様――犬飼さんに仇をなす不届き者と思われているのだろうか。
――当たってる……。
俺にその気はないのだが一応脅迫者の立場ではある。ものすごく賢い犬かもしれない。
たわいもない会話をしながら散歩をつづけ、やがて公園に到着した。日差しはだいぶん弱くなってきたもののまだまだ気温は高く、かなり体力を消耗した。一刻も早く涼しい場所で休憩をしたい。
しかしそんな俺よりも疲れていたのは弁慶だった。舌を出してぜいぜいと呼吸している。もう俺にキレる余裕すらないようだ。ずんぐりした体型だし、運動不足なのかもしれない。
俺たちは公園のあずまやに避難し、ベンチに腰かけた。周囲の林からだろうか。ジー、ジ、ジーとノイズのように鳴くニイニイゼミの声がやかましい。
犬飼さんはキャップを脱いで額の汗を拭ったあと、トートバッグからペットボトルをとりだした。蓋にトレーがついている。犬用の携帯給水器だ。
「はい、どうぞ」
弁慶はトレーの水をがぶがぶとうまそうに飲む。そして一休みとばかりに犬飼さんの足元でコンクリートの地面にぺったりと伏せをした。
――俺も水分補給をしたいな。
自動販売機を探してきょろきょろしていると、犬飼さんがトートバッグからさっきとはべつのペットボトルをとりだした。
スポーツドリンクだ。表面には水滴がついている。よく見るとトートバッグの裏地が銀色で、断熱構造になっているらしい。保冷剤も入っているかもしれない。
ぱきっと蓋を開けて、犬飼さんはペットボトルを俺に差しだした。
「はい、どうぞ」
「え、いいの?」
「喉、渇いてるでしょ?」
「うん」
「これがわたしの忖度力だよ」
と、得意げに笑う。この時期であれば外を歩いているひとの大半は水分を欲しているように思うのだが、それは言わないでおこう。
「じゃあ、ありがたく」
俺はスポーツドリンクをあおった。
ひんやりとした甘い液体が身体に染み渡っていく。俺はごくごくと喉を鳴らしてむさぼるように飲んだ。
「ぱはぁ……」
ペットボトルを見る。一息で半分近く飲んでしまった。しかしこれ以上はすぐには飲めそうにない。持ち帰って、また風呂あがりにでもいただこう。
俺はポケットの財布に手を伸ばした。
「これいくら?」
「ん~と……、五十円」
「やけに安くない?」
「そう? 適正価格だと思うけど」
「たしか百円くらいじゃなかった?」
「でも半分しか飲んでないじゃん」
――……ん?
一瞬納得しかけたが、冷静に考えるとおかしな発言だ。
「待って。つまりどういうこと?」
「『どういうこと』って?」
「半分、ってことは」
「もちろんわたしがもう半分を飲むってことだけど」
――は?
「い、いや、でも、そんなことをしたら――」
――間接キスになってしまう……!
しかし犬飼さんはそんな俺の懸念を軽々と飛び越えてきた。
彼女はベンチに手をつき、身を乗りだした。
「飲ませてもらえる?」
「……はい?」
「そのスポドリ、飲ませてよ」
とんでもないことを言いだす。
「い、いや、自分で飲めばいいのでは」
「でも、手が塞がってるし」
彼女の手にはトートバッグとリードが握られている。しかし、リードはともかくトートバッグはベンチにでも置けばいいのではないだろうか。
「さっき、わたしが弁慶に水をあげたの、どう思った?」
「どうって……、べつになにも」
「そう、飼い主が飼い犬に水をあげるのはふつうのこと。それと同じ」
「い、いや、それとこれとは……!」
「ね、お願い」
そう言って、まるでキスをするみたいに目をつむり、顎を上げた。
――なんなんだこれ……。
もう間接キスがどうとかいうレベルではない。そこを一歩も二歩も踏み越えた、アブノーマルななにかだ。さっき水分補給をしたばかりだというのに、口のなかが渇き、ごくりとつばを飲みこむ。
まごまごする俺をよそに、犬飼さんはまぶたを閉じたまま微動だにせず待っている。まるで待てをする忠犬のように。
どくっ、と心臓が跳ねた。俺のなかで羞恥心や道徳心より、支配欲や庇護欲のようなものがふくれあがる。
「……喉、渇いてるのか?」
「渇いてる……ます」
「じゃあ、ほら」
俺は腕を伸ばす。
ペットボトルの口が犬飼さんのくちびるに触れた。彼女はぴくんと身体を震わせる。
ねじ込む。柔らかいくちびるが変形して、ペットボトルの口をくわえ込む。
俺はゆっくりと傾けた。犬飼さんはまるでミルクをもらう赤ん坊のように、スポーツドリンクを吸う。白い喉がなまめかしく蠕動する。
「ん……、ん……、ん……」
息継ぎをするたびに鼻から声が漏れる。
彼女も喉が渇いていたのか、ペットボトルの中身はぐんぐんと減っていく。
透明な液体が喉を通るごくごくという音と、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。
やがてペットボトルは空になった。
彼女の口から引き抜く。ちゅぽ、と水っぽい音が鳴った。
「はあ……」
犬飼さんは大きく吐息をしてまぶたを開いた。
「おいしかった?」
俺の問いに彼女はこくりと頷いた。その目は潤み、頬は上気している。
俺はその顔をじっと見つめる。犬飼さんも切なげな表情で見つめかえす。
そのときだった。ベンチの下のほうから「くーん」と弁慶の甘えるような声が聞こえてきた。長く放っておかれて寂しくなったのだろう。
俺と犬飼さんはびくりとなった。
「あ、ご、ごめんね弁慶。そろそろ行こっか」
弾かれたように立ちあがる。
「じゃ、じゃあわたし帰るから」
「あ、ああ、気をつけて」
「桝谷も」
真っ赤な顔にぎこちない笑みを浮かべ、犬飼さんは逃げるように去っていった。
姿が見えなくなると、俺は急に冷静になってきた。
――なんだったんだ、いまの……。
犬飼さんの忠犬のような素振りを見たとき、俺のなかでなにかのスイッチが入ったような感じがした。彼女に対して抱いていた憧れの感情が、愛おしさに切りかわったような。
思いだすだけでも変な気分になってしまう。
たらり、と額に汗が流れ落ちる。いつの間にか汗だくになっていた。せっかく水分補給をしたというのに、これではプラスマイナスのマイナスだ。
ジー、ジ、ジーと、ニイニイゼミの鳴き声が再び聞こえてきた。
「あっつ……」
俺はクールダウンしてから帰ろうと、ベンチに身を横たえた。