第6話 便利な返事、その後
怒れる犬飼さんから逃げ帰ったその日の夜、怒濤のような着信にすべて『ニャー』と返していたら電話がかかってきた。
『見たんでしょ!』
開口一番の大声に、俺は思わずスマホを耳から遠ざけた。
「ニャー」
『ごまかさないで』
「犬飼さんが使えって言ったんだろ」
『返事が思いつかないときに使えって言ったの! いまのは逃げてるだけでしょ!』
たしかにそのとおりである。
「それは悪かったよ……」
『で、見たの?』
「……」
見た。しかし、正直パンツの印象は薄い。黒だったような気もするし、濃い紫だったような気もする。
なぜか。それは、スカートがめくれあがった刹那、パンツよりも尻のほうに意識が集中したからだ。
太からず細からずの柔らかそうなふともものもっと上。熟れた果実のようにも、つきたての餅のようにも見える、丸く大きなそれに目が釘付けになってしまうのは、男子であれば致し方ないこと。パンツなど所詮はただの布だ。
しかしそれを伝えるわけにもいかず、だからこそ『ニャー』なのだ。
しかしそのニャーも封じられたいま、俺に残された手立ては――。
「でもおかしくないか」
『なにが?』
「プールに飛びこんだときのことだよ。ブラジャーが透けてたのはいいのに、なんでパンツは駄目なんだ」
残された手立て、それは反論である。
『そんなの決まってるじゃん』
「なにが?」
『ブラは見せるものだけどパンツは見せるものじゃないでしょ!』
「なにその価値基準」
『ブラを見せるのはお洒落じゃん。パンツにも見せパンはあるけど、あれはローライズとかミニスカだと見えちゃうから仕方なく穿くやつでしょ。ってかわたし見せパンじゃなかったし』
「ちょっと待ってくれ。そもそもとして俺は、ブラなら見せてもいいという価値基準そのものに納得してない」
『じゃあ桝谷はどっちも見た不届き者じゃん』
――まちがった……。
自分で自分を追いこんでしまった。
ニャーを封じられ、反論も失敗した。一瞬、『犬飼さんは俺の奴隷なんだしパンツくらい見たっていいだろ』と強気に出る方法もよぎったが、俺はぶるぶるとかぶりを振った。いくら言いなりになるといっても性的な強制は駄目だ。
ならば最後の手段である。
「あ、やぱい。掃除しないと」
『掃除?』
「歯磨き粉の口のところにさ、カスがこびりつくだろ? あれをとらないと」
『超どうでもいいやつじゃん』
「でも気になるし。じゃあ」
『ちょっと待っ――』
俺は通話を切り、ついでに電源も切った。
最後の手段、逃亡、成功。
しかも歯磨き粉の口のところのカスが気になっていたのは事実なので嘘がない。完璧である。
俺は歯磨き粉のカスを掃除しに洗面台へ向かった。
◇
翌朝、登校途中に合流した犬飼さんは、昨日の件を問いただしてきはしなかった。
安堵したが、ちょっと不気味ではある。しかし無闇にほじくり返して墓穴を掘りたくないので黙っていると、犬飼さんが口を開いた。
「昨日のこと、なにも言ってこないからほっとしてるでしょ?」
俺はびくりとなった。
「アンケートをとろうと思って」
「アンケート?」
「乃々と千波に聞いてみる。見せブラはお洒落だけどパンツはアウトだよねって」
乃々というのは今古賀さんのことだ。
「万が一、わたしの基準がおかしいのかもしれないから」
「いや、あの……」
「覚悟しててね」
話が大きくなって戸惑う俺に、犬飼さんはにやりと笑った。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
休み時間、いつものように教卓付近に集まった友人たちに、犬飼さんはさっそく切りだした。
「見せブラは当然ありだよね? 見せパンはあり? なし?」
数名の友人たちは口々に意見を言う。総合すると概ね『見せブラはあり、見せパンはなし』が優勢だった。
藍崎さんは顔を赤くして言った。
「わたしは両方無理かな……。あえてひとに見せるものではないと思う」
「千波は、まあそうだよね。――乃々は?」
こんな話題のとき、もっととも大騒ぎしそうな今古賀さんは、なぜかずっと口をつぐんでいる。
「……」
犬飼さんに話を振られてもなお、今古賀さんは目をつむり、黙っていた。
「乃々?」
「……いいですね」
「はい?」
「皆さん見せられるものをお持ちでいいですね」
今古賀さんはようやくまぶたを開いた。しかしその目は死んでいる。
「皆さん見せられるものをお持ちでいいですね」
「なんで二回言ったの?」
「見せられないひとの気持ちも考えて!」
突然の叫びに犬飼さんたちは目を丸くする。
「み、見せればいいじゃん」
「お洒落なブラを着けられないのっ。ああいうふつうの形のブラをつけたらずり上がっちゃう。引っかかりがないから」
「引っかかり、って……。――あ」
今古賀さんのなだらか胸部を見て、犬飼さんは気まずそうな声をあげた。
今古賀さんは自嘲気味に笑った。
「ふつうのブラだとずり上がる。ブラトップだとかっぱかぱ。だからスポブラにするしかないんだよ。スポーツもやってないのに」
彼女の言葉は止まらない。
「中学のとき見せブラに憧れて、胸元のボタンを開けてたらなんて言われたと思う?」
「……なんて?」
「『ランニングシャツ出てるよ』」
「……」
今古賀さんはぎょろりと目を見開き、犬飼さんたちの顔を順繰りに覗きこんだ。
「どうしたの? 面白くない? 笑っていいよ?」
「あの……、ごめん」
「なにが? べつに怒ってないよ? 笑って。ほら、早く。ねえ、笑って。笑ってよ! あは、あはははは……!」
哄笑が教室に響き渡った。
その出来事のあと、よほど気まずかったのか犬飼さんは下着の話を口にしなくなった。俺としては助かったし今古賀さんには感謝したいのだが、大変申し訳なくもあり、なんとも後味の悪い事件だった。