第4話 彼女の忖度力
休み時間、教卓の付近で、いつものように犬飼さんたちがわいわいと談笑している。とくに仲のいい今古賀さんと、それから藍崎さんだ。
俺はいつものように前日予習した部分を復習しようとノートを広げているのだがまったく集中できないでいた。その原因は話の輪に混じったチャラそうな男子二名だった。
「犬飼さんもグラブレやってんの?」
グランド・ブレイブ・ファンタジー、通称グラブレ。大人気のスマホRPGだ。
「千波に勧められてさ」
千波、というのは藍崎さんのことである。
「ちょ、サラ……!」
藍崎さんは犬飼さんの肩をつかんだ。
「千波がさ、『すごく楽しいよ。渋いおじさんがたくさん出てくるし』って」
「サラ……!」
「『ちょっと枯れてるくらいがツボなんだよね』って熱く語るから、なんか興味が出て」
「サラぁ……!」
藍崎さんはうなだれてしまった。
バレー部で、身長が高くて、黒髪ショートカットがで、いかにも『スポーツにしか興味ありません』みたいな雰囲気を醸している彼女にそんな趣味があったのは意外だ。
「なにそのリアクション。好きなら堂々とすればいいじゃん」
「でもさあ……。好きだから言うのが恥ずかしいってこともあるでしょ。サラには分からないかもしれないけど」
犬飼さんはしばし考えるような素振りをしたあと、
「……まあ、分からなくもないけど」
「あれ? 同意されるとは思わなかった」
「わたしどんな奴だと思われてるの」
「天上天下唯我独尊?」
「字面が強い」
笑いが起こる。
先ほどからちらちらと犬飼さんのことを窺っている男子が言った。
「犬飼さんがソシャゲやるの意外かも」
「中学のときはけっこうやってたよ」
――へえ。
俺も中学のころはソシャゲにまっており、高校入学とともにほぼほぼ卒業した。些細な共通点だが妙に嬉しい。
「グラブレのイベントは進めてる?」
「無料分でガチャ回しただけ。なんかマシス? とかいうキャラが出たけど」
「マシス、レア度が低いわりにイベントでめちゃくちゃ活躍するよな」
「そうなの? よく分かんなくて放置してる」
彼の目がきらんと光った、ような気がした。
「じゃあさ、分かんないところがあったら聞いてよ。LINE教えるから」
狙いは犬飼さんの連絡先だったらしい。
――このっ……!
いらっとした。しかし冷静に考えると俺がいらっとする義理はない。
「あ、それはいいや」
犬飼さんは彼の申し出を一蹴した。
「そ、そう」
彼は玉砕した。俺はほっとする。
「通知が増えるの嫌なんだよね」
「俺、あんまり連絡しないけど」
「連絡しないならべつに必要ないじゃん」
「そ、そうだな……」
犬飼さんはあくまで毅然と断った。俺はちょっと彼に同情した。
会話が終わり、男子たちが去ったあと今古賀さんが言った。
「サラ、意外とLINEの友だち多くないよね」
「まず『LINEの友だち』って意味分かんなくない? 逆でしょ。友だちだからLINEをやるんじゃないの?」
「あーね」
「つながりたいひととつながれればいい」
「かっこい~。てんじょうてん……、てん……、なんとかじゃん」
「言えないのかよ」
「千波は意外とLINEの友だち多いよね。LINEのほうがめちゃくちゃしゃべるし。かわいい絵文字とか使うし」
「う、うるさいな」
藍崎さんは顔を赤くした。
――犬飼さん、LINEあんまり好きじゃないのか……。
藍崎さんが枯れオジ好きなのも意外だが、犬飼さんがSNSに積極的でないのも意外な気がした。
俺もLINEの友だちが少ない。しかしこれは犬飼さんと共通点があるというわけではない。
犬飼さんは引く手あまたのところを、あえて線を引き、本当に親しい間柄の人物に厳選しているわけだ。
俺の場合、そもそも引く手がない。それだけだ。
いや、べつに寂しくはないし、そもそもメッセージのやりとりが苦手なのだ。
誰かからメッセージをもらったとする。
返事を入力する。
そこで手が止まる。
この文章は失礼にならないだろうか。べつの意味にとられないだろうか。不安になって推敲して、しかし早く返事をしなければ怒らせてしまうかもしれないと焦り、なんとか送信したころにはくたくたになっている。
だからLINEをする相手が少なくてよかったと思っている。いや本当に、強がりとかでなく。
でも犬飼さんとなら、こんな俺でも楽しくやりとりができるかもしれないと、そんな夢想したのだが、肝心の彼女自身が前向きでないなら、文字どおり夢のままだ。
はっと息を飲んだ。
――お、俺は、なんて贅沢な悩みを……。
犬飼さんと登下校できるだけでも恵まれているというのに、さらにメッセージのやりとりまで望んでしまうとは。
――慎まなければ。
いま俺がやらなければいけないことは、叶いもしない夢を願うことではなく、予習の復習である。
俺は意を新たにし、シャープペンを握る。
そのとき予鈴が鳴った。
「……」
俺はけっきょくなにもできないまま授業をこととなった。
◇
下校中、ポケットのスマホが震動した。
母親からのLINEのメッセージだ。
『帰り遅くなるのでお風呂沸かしてください』
俺は『了解』と返信し、再びポケットに仕舞った。
横を歩く犬飼さんがそれをじっと見ている。
「な、なに? ただLINEの返事をしただけだけど」
「……なるほど」
彼女はにやりと口角を歪めた。
「つまり、『なんで早くLINEのIDを聞いてこないのか』、そう言いたいわけね」
「……はい?」
「ごめんなさい。もっと早く気がつくべきだった」
「いや」
「桝谷の手を煩わせるなんて、わたしの忖度力もまだまだだね」
「あの」
「はい、これ。わたしのQRコード」
俺の問いかけを無視して、犬飼さんはスマホの画面を俺に向けた。下手から出てきてるようで、この押しの強い感じはなんなのだろう。
とはいえ、犬飼さんとIDを交換できるのは嬉しい。
嬉しいのだが。
――LINE、好きじゃなかったのでは……?
しかしせっかくのチャンスなのだから交換しない手はない。俺は彼女のQRコードを読みこんだ。
友だちの欄に『紗良花』が追加された。
犬飼さんが「ふふっ」と笑い声をたてた。
「『桝谷成汰』。思ったとおりフルネームだ」
「『思ったとおり』?」
「桝谷はそういうタイプだろうなって」
なぜそう思ったかは分からないが、たしかに俺はそういうタイプだ。ソシャゲの名前だって悩みに悩んだあげく、けっきょく苗字や名前をひらがなにするだけ。ましてLINEともなれば、その悩みはさらに深くなる。
本名を入力して問題はないのだろうか、ハンドルネームがいいのか、しかし本名からかけ離れると誰だか分からなくて相手を困らせてしまうのではないか……。
まあ、そんな相手、できなかったわけなのだが。
しかし今日、犬飼さんをちょっと笑わせることができたのだから報われたと考えよう。
たとえメッセージのやりとりがなかったとしても、俺は満足だ。
しかし、その考えはまちがっていた。
いや、『せっかく連絡先を交換したのにメッセージをもらえなくて病む』とか、そういうことではない。
むしろ逆だ。
机の上のスマホがキンコン! と着信音を鳴らした。
「……」
しかしすぐに確認はしない。なぜなら。
キンコン! とまた音が鳴る。
そう、連続して送られてくるのが分かっているから。
なぜ分かっているのか。それは、この着信でもう本日三十三回目だからだ。
犬飼さんをマンションまで送ったその帰り道から、連続着信はスタートした。
『送ってくれてありがとう』
『いまエレベーター』
『エレベーターに乗ったら上見ちゃわない?』
『あれなんでだろうね』
矢継ぎ早に送られてくるメッセージに面食らっているうちに、
『うち着いた』
『晩ご飯、多分炊き込みご飯』
『やっぱ当たった!』
と、炊飯器から湯気のたった写真が送られてきた。
――エレベーターの話は……?
俺は犬飼さんのスピード感にまったくついていけていなかった。
しかしいったん途切れたので、ここでなにか返事をすべきだと考えた。
――『おいしそう』とかでいいのかな……。
ふつう過ぎるか。もうちょっとひねったほうがいいかも……、などと思案している間につぎの着信。
『着がえた』
と、シャツとスウェットの写真。そして、
『うちの弟』
と、犬を抱いた写真が送られてきた。
『名前は弁慶』
――犬飼さんが犬を飼っている……。
たしかウェルッシュコーギーという犬種だったと思う。利口そうな顔をしている割りには寸胴で足が短く、とても愛くるしい。少なくとも弁慶という名からイメージされる厳つさとは無縁だ。
しかし俺の視線は彼よりも、彼を抱く犬飼さんの楽しそうな表情に釘付けになる。自宅だからだろうか、とてもリラックスした柔らかい笑顔だ。
俺ははっと我に返り、『おいしそう』の文字を慌てて消去する。
犬飼さんはそのあとも、ちょっとしたことを逐一報告してきた。
メッセージをもらえるのは嬉しいのだが、LINEがあまり好きじゃないという話はどこにいったのだろう。
しかしそんな疑問を差し挟む余裕もなく、つぎつぎとメッセージは送られてくる。俺は合間合間になんとか一言だけ返事をするのが精一杯だった。
そして、犬飼さんが空になったお茶碗の写真を送ってきたあと、しばし空白の時間があり、いまの隙に明日の予習でもしておこうと机についたところ、先ほどの着信というわけである。
俺はおもむろにアプリを開いた。
『お風呂気持ちよかった~』
『お風呂っていうかシャワーだけど』
――シャワー……。
ということはつまり、つい数分前まで犬飼さんは一糸まとわぬ姿だったということだ。
湯気の立つ浴室。シャワーのお湯が犬飼さんの頭に降りそそぎ、彼女の頬を、胸を、腰を、脚を伝って雫が垂れていく。
そんな光景が頭に思い浮かぶ。
「おらぁ!!」
俺は自分の頬を平手ではたいた。パン! と乾いた音が部屋に響く。
――不謹慎なことをするな俺……!
たかが妄想に心をかき乱されるな。いまは勉強に集中しろ。
下っ腹に力を入れて、教科書を開く。
そのタイミングでまた着信音が鳴った。
最初は無視しようとしたのだが、いままでとは違って一回きりの着信だったので、気になって画面を開いた。
「っ!?」
思わず変な声が出そうになった。
そこには身体にバスタオル一枚を巻いただけの犬飼さんのあられもない姿が映しだされていた。
髪が濡れてつやつやと輝いている。肌が上気して、ほんのりピンクに色づいている。それから、柔らかそうな胸の谷間。
パン! と部屋に乾いた音が響いた。しかし今度は頬の音ではなく、教科書を勢いよく閉じた音だ。
妄想相手ならまだ打ち勝てようものの――。
――リアルは無理だろぉ……!
俺はジャージに着替えて玄関へ向かった。
「どこ行くの?」
キッチンで豆乳を飲んでいた姉ちゃんが怪訝そうな表情で尋ねてきた。
「ちょっと走ってくる」
「はい?」
姉ちゃんの疑問は解消するどころかさらに深まったようだった。
俺はスニーカーの紐をきつく結び、玄関を飛びだした。
その日は結局、予習をできなかったのは言うまでもない。